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花鳥月酔─幕末異譚─  作者: 黒川恵
壱、 迎春の宴
19/47

 14

 方丈ほうじょうの一室で瞑想していた吏鶯は、外の大気が僅かに振動したのを感じ取る。

「そのご様子だと、さっそく彼に手を出されたようですね」

 軽く溜め息を吐き、閉じていた目蓋を上げた吏鶯は、眼前に海老茶色の着物があっても驚く様子もなく主を見上げた。

「椿姫」

 見上げた彼女の頬に走る鮮やかな刀傷に、我が目を疑う。よく見れば、流れ出る深紅の血で、襟元までもが赤黒く染まっている。思わずと言ったていで零れ出た声には険が宿っていた。

「そう、怒るでない」

 ばつが悪そうに眉を下げた椿姫が、吏鶯の唇に手をかざしてきた。

「先程そなたから奪った生気がたっぷりとある。この程度の傷などすぐに癒える」

「……ですが私は、貴女あなたを傷付けられて我慢できる程、人が好い人間ではありません」

 吏鶯は椿姫の手を取り、その内側に口付ける。

 その様をじっと見下ろす椿姫は、ちいさな微笑を零した。

 いつの間にか頬の血は止まり、僅かに残っていた傷跡も薄い桃色の細い線となり、それさえも綺麗に消え失せてゆく。

 その様子を固唾を飲んで見守っていた吏鶯の胸中には、訳もなく暗いおりがゆっくりと──だが確実に降り積もっていた。

(──この不安感はなんだろうか)

 吏鶯の目に暗い影が差す。しかし、夢見心地に紡がれた椿姫の言葉に、吏鶯の妬心に火が付いた。

わらわの眼力に屈しないばかりか、一太刀浴びせてくる人間に出逢でおうたのは初めてのこと。あ奴の剣気が妾を貫いた瞬間、すべてが凍り付いた。……なんとまぁ、稀有な人間がいたものよ」

 うっとりと呟く椿姫は、ふいに甘い痛みを手のひらに感じた。見下ろせば、己の手に歯を立てる吏鶯と目が合う。まっすぐに向けられた、人間臭い情念を浮かべた眼差しに笑みが零れた。

「不実な女と詰っているのかえ?」

 さも楽しげに笑う椿姫に、吏鶯はゆるくかぶりを振った。

「貴女を縛り付けることなどできません」

 悩ましげに顔を曇らせる吏鶯の目蓋に、椿姫はそっと唇で触れる。

「そなたは可愛い」

 秘密を打ち明けるように囁き、嫣然えんぜんと微笑んだのだった。

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