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花鳥月酔─幕末異譚─  作者: 黒川恵
壱、 迎春の宴
15/47

 10

 寝静まった夜半やはん、ただひとつ明かりが灯る部屋に、斎藤は猫のように気配を殺して忍び込んだ。

 部屋の主である土方は、意地悪い笑みを浮かべながら眺めている。

「やけに慎重じゃねぇか」

 平机に片肘を付き、顎を支えたままの姿勢で声を掛ける土方の口元は、依然にやついたままだ。

「見咎められでもしたら、困るのは副長です」

 面白がる土方に釘を指す斎藤は、形式的に目礼してから座る。こうした些細な仕草に垣間見える律儀さを内心好ましく思っている土方だが、それを斎藤本人に聞かせてやる必要はないことだとも思っている。

「芝居とはいえ、本当に切腹させられそうで、気が気ではありませんでしたよ」

「俺は本気のつもりだった」

 やや恨みがましい斎藤の言葉に、土方はさらりと答える。けれど、その視線はじっとりとしていた。

「これみよがしに、首根っこに紅の跡を付けて帰りやがって。この色男が」

 土方の視線に気付いた斎藤は、件の跡が残る首筋を撫でながら薄く笑う。

「これなら伊東陣営の油断を誘うことができるでしょう? 色仕掛けに屈するような男なら、くみし易いと思ってくれるでしょうからね」

「そりゃあ芸が細かいこって。有り難過ぎて涙が出るね」

 結局、伊東の働きがあってか、切腹は免れ数日間の謹慎処分で落ち着いたのだ。否、当初からそのつもりでいた近藤土方だったが、他の隊士たちがそれを知らないが為に、益々隊内部での伊東の評判が高まっていた。

「それにしても、だ。あのまま伊東たちを始末できるのなら、おまえらふたりを失っても釣りは出たはずだがな。実に惜しいことをした」

「ひとの悪い……」

 すると土方はにやりと笑った。

「いい誉め言葉だ」

 それよりと、土方は身を乗り出してきた。

「どうだ、伊東に気に入られたか?」

「……男運の悪さもここまできたかと思いました。今回の騒ぎ、永倉を隠れ蓑に、私の引き抜きが目的だったとしか思えないのは、自意識過剰でしょうか?」

 苦笑する斎藤に、土方は呆れた顔を寄越した。

「守護職様に直談判した挙げ句、この騒ぎだ。当然おまえは俺らから浮いてくる。引き抜くにはもってこいな状況だ。……まぁ、餌に喰らい付ける機会を与えてもらいながら何もしない訳にはいかないだろうよ」

 そう言いながら浮かべた笑みは、どこから見ても腹黒かった。だが、秀麗な面立ちのせいか、より土方の魅力を引き出している。素人娘より玄人女に絶大な人気があるのも頷ける程、男としての華やかな毒が際立っていた。

 だが、顔だけの男ではない。

 局長近藤の性格を充分に把握した上で大名気取りをさせ、それにより隊士の反感を買い、直談判にまで追い込んだのだ。土方の狙い通り、京都守護職松平容保は、近藤と隊士らの確執を取り除こうと動いてくれた。

 それも皆、伊東への撒き餌に等しかった。つまりは、土方の思惑に斎藤は巧いこと乗せられたのだ。


 ──この執拗なまでの根回し。


「……だから貴方はひとが悪過ぎる」

「それはお互い様だろう?」

 土方の意味ありげな視線に、斎藤は無表情のまま受け止める。

「腹の中の探り合いは心がすさみます」

「……まぁ、いい。斎藤、後は任せたぞ」

「努力はします」

 そう言って立ち上がった斎藤は、律儀にも目礼をして踵を返す。

「なぁ、斎藤。おまえ、そんなに心が荒むなら、花でも見てきたらどうだ?」

 からかいの含まれた声が、斎藤の歩みを止めた。

 まさかそう切り返されるとは思っても見なかった為、一瞬喉につまる。

「……この季節にですか?」

「まったく風流がねぇな。今だったらほら、あれだ、椿があるぞ」

「どんな花でした?」

「潔く首が落ちる……そうだな、血の色みたいな真っ赤な花さ」

 殺伐とした例えに、斎藤は薄く笑った。

「らしくない表現ですね」

 密かに俳句を愛し、豊玉の名を持つ土方に対して皮肉った。

「ふん、言ってろ」

 僅かばかり口元を緩めた斎藤に、土方はふてくされる。

「椿、ですか。勧めに従い、見に行ってきますか」

 だが、思わぬ斎藤の言葉にぎょっとする。自ら提案したことなのだが、花を愛でる男だとは終ぞ思ってもみなかったからだ。

「──とは言っても、謹慎中の身で叶わないことが辛い」

「なら三日は我慢しろ。慎み御免にしてやろう。……だが、おまえ、本気か?」

「そそのかしたのは副長です」

 薄気味悪いモノを見るような顔をする土方に、斎藤はちいさく笑って部屋を出る。来た時と同じく気配を殺して己の部屋に戻る途中、ふと空を見上げた。

 雪が降り止んだ空はには依然として灰褐色の雲が厚く延びており、月の光も星の瞬きさえも垣間見ることもできない。それでも辺りがぼんやり明るいのは、降り積もった雪のせいなのかも知れない。

 零れ出る吐息が白く立ち上がり、外気に掻き消されてゆく。


「貴方ほど、影の身に適している人はそうはいませんよ」


 ふいに脳裏に蘇った、山崎の囁き。

(……流石に監察方一の男だ。密かに会津公と関わる俺のことを、副長の耳に入れたのは山崎さんだな)

 微かに口元を歪ませると、音もなく歩みを早めたのだった。

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