Green 〜最後の日〜
ちょっぴり悲しいお話です。
苦手な方は読まないことをお勧めします。
私はその日、十年振りにあの山へと向かっていた。
私と彼が大好きだったあの山へ。
川が流れる堤防沿いに建つ、幼いころ二人で通った小学校と中学校。
その二つの建物に挟まれた小さな山。
当時と変わらず不揃いな段差の土の階段を上ると見えてくるテニスコート。
そしてその奥には観客席のない土とフェンスだけの野球グランド。
私はテニスコートとグランドを横切りその奥を目指す。
欝蒼と生い茂る木々の間から僅かに覗く細い石の階段。
小さい頃は彼と二人で家を抜け出し肝試しをした場所。
そこを上ると誰が管理しているかも分らないような寂れた小さな神社。
ご利益があるのかないのか分らないのに、テスト前はいつもお賽銭を投げ入れお参りした賽銭箱。
幼い私たちの遊び場だった景色が視界を横切っていく。
それでも足を止めることなく、私は神社の奥の草を掻き分けて目的地へと迷わず足を踏み入れた。
懐かしい緑の空気を胸いっぱいに吸いながら。
彼と私はいつも一緒にいた。
物心ついた時から隣にいるのが当たり前で。
ただの同じ年の幼馴染ではなく、お互いが自分の半身だと思っていた。
隣にいなければ生きていけない。
離れてしまうことなど考えられなかった。
彼を自分とは別の個体だと意識したのはいつだったろう。
ああ、そうあれは中学三年生の時。
小さいころから女の子のように愛らしかった彼の表情。
それが少しずつ男の子の顔へと変化し始めた。
愛らしい部分が男らしいに変わってきて。
身長も急に伸びはじめた。
入学当初は私のほうが高かった背が、気づいたときには頭一個分差ができていた。
周りの女の子たちが騒ぎはじめた。
そして私はようやく彼が自分とは違う、男の子であることを知った。
それでもやっぱり変わらなかった。
私に穏やかに笑いかける綺麗な顔。
差し伸べてくれる優しい手。
声を荒げたところを聞いたことがない柔らかく落ち着いた声音。
そして私たちの関係。
彼の隣りには私がいて、私の隣には彼がいた。
小学校も中学校も美術部に入っていた彼を待って帰り道に通った、小さな神社の奥の秘密の場所。
草を掻き分けて進むと、だれが作ったのか小さな切り株の椅子が二つ。
私たちはそこで思い思いに手を動かす。
彼は目の前にある緑をキャンバスに。
私はその日の宿題や読書、時には彼を真似て絵を。
彼の描く絵はいつも風景画で、特に草や木が一面に生い茂っているものが多かった。
彼の絵は澄んだ清廉な緑のイメージ。
それは彼のイメージそのものだった。
私はある時感じていた疑問を不意に口に出したことがあった。
「爽ちゃんの描く絵はいつも風景画だね」
私の問いに彼は苦笑を零した。
「人を描くと僕がその人をどう思っているのかわかっちゃいそうで。それに……」
彼は表情を変え、優しく微笑みながら続けた。
「緑が好きだからだよ」
その答えに私も微笑みながら答えた。
「私も爽ちゃん大好きだよ」
私は彼の笑顔も穏やかに私を呼ぶ声も、そして彼が作り出す緑の世界も大好きだった。
何も変わらない。
穏やかに過ぎていく当り前の日常。
小さな当たり前の幸せ。
ずっとずっと二人一緒だと信じていた。
おかしいと気がついたのは大学三年の夏だった。
一日しか違わないお互いの誕生日を一緒に祝ったあの日。
毎年恒例で夜から日を跨いで翌日まで一緒に過ごす誕生日。
日付が変わる瞬間に優しいキスが降ってきて。
彼が離れていったあと静かに目を開けた私はそれに気がついた。
「爽ちゃん、目が黄色だよ」
「気がついた?なんだか最近少しずつ変わってきてるんだよ」
「ねえ、爽ちゃんどこか悪いんじゃない?病院行った?」
「緑は心配症だね。大丈夫だよ、ほかはいたって健康だから」
そう言って彼はいつもと同じように微笑んだ。
その笑顔がいつもとまったく変わらなかったから。
私を抱き締める腕の力が以前と同じだったから。
私は彼の言葉を受け入れて、彼の胸に頭を預けた。
でもその翌日に彼は市内の大学病院に入院した。
彼が部屋の電気を早々に消したのは、身体じゅうが同じ色に染まり始めていたからだと。
そして彼が誕生日を二人で過ごすために、入院の日を選んだのだということを。
私は後に教えられた。
その日から私は毎日病院へと通うようになった。
彼は私に、肝臓の機能が低下してるんだって、と言って笑っていた。
手術をしてからの彼は体調も良くて目の色も普通に戻っていった。
もうどこから見てもいつもの彼。
私はその姿に安堵して入院中に色々なことを彼と話した。
病気が治ってから出かける場所。
卒業してからの身の振り方。
そして二人の将来のこと。
私は彼に希望を言い、彼はそれに笑顔で頷く。
特に二人の未来の話になると形の良い目を輝かせて饒舌になった。
私はそんな彼の姿がたまらなく愛おしかった。
そうして過ぎていく温かな時間を幸せに感じていた。
退院許可が出ないことに訝しく思いながらも。
入院して一か月ほど経った頃からだった。
彼の様子が変わってきたのは。
また彼の目の色が変わってきて。
そして顔の色さえも黄色く染まっていった。
食欲が落ちてきて口数も徐々に減ってきた。
気だるそうに寝ていることが多くなった。
あの手術で治ったんじゃないの?
大した病気じゃないって言ったよね?
それでも頭に浮かぶ疑問を口に出すことが出来なかった。
答えを聞くのが怖かった。
もし……。
彼が入院した時に開いた本。
症状から調べたページに載っていた病気。
もしも、それだとしたら……。
それを受け入れる勇気が私にはなかったのだ。
私は彼のその姿を見て見ぬ振りをした。
元気だった頃の彼に接するのと同じ態度で。
そうして少し経った時だった。
彼が私の見舞いを拒むようになった。
体調が悪いからと言って彼の母親がすまなそうに謝るのを、私は茫然と聞いていた。
もう何回目だろう。
こうして断られるのは。
病気が彼を変えてしまったの?
もう私のこと好きじゃないの?
聞きたくても彼は姿を見せてくれない。
私はどうしても納得がいかず、彼の母親の制止を振り切り病室へと駆けこんだ。
「爽ちゃんっ!なんで!?」
「緑……なんで来たの?」
彼は少し驚いた表情の後、顔を伏せた。
「私、納得出来ない!何で会えないの!?何か悪いことした!?」
「調子が悪いんだ。だから……」
「大人しくしてるよ。そばに……そばにいたいの」
最後の方は涙で声が上手く出せなかった。
それでも私の気持ちを言っておきたかった。
「爽ちゃんは違うの?私と一緒にいたくない?」
私の必死の言葉を無表情に聞いていた彼はそのまま口を開いた。
「緑といると休めないんだ。ゆっくり休みたいんだよ。だからもう来ないで」
いつもとは別人のように冷めた表情。
低い感情の籠らない声。
そして何より、今まで聞いたことのない拒絶の言葉。
私は病室の入り口に声も出せずに立ち尽くした。
そして外で成り行きを見守っていた彼の母親に優しく促されて病室を出た。
病室のスライドドアが閉まったと同時に私はその場に泣き崩れた。
彼の母親が私を抱きしめて謝罪の言葉を繰り返す。
それでも涙は途切れることなく溢れてきて。
私はどうすることも出来ずに只々泣き続けた。
それから半月ほど経ったある日の夜中だった。
私は一本の電話で目が覚めた。
父親に渡された受話器の向こうには彼の母親の弱々しい声。
爽が緑ちゃんを呼んでるの。
彼の母親はそう言って泣き出した。
私は電話を切ってパジャマのままで家を飛び出した。
病院に着き、逸る気持ちで病室の扉を開けた。
そこには変わり果てた彼の姿。
相変らず顔色は悪く黄色で、身体は痩せ細り頬がこけていた。
半月しか経ってないのに。
人は半月でこんなにも変わってしまうものなの?
その姿に驚きながらも、私は彼のベッドへと駆け寄った。
「爽ちゃん……、緑だよ。わかる?」
彼の細くなった手を握り話し掛ける。
眠ったように目を閉じていた彼が私の声にピクリと反応した。
ゆっくりと目を開けて確認するように私を見る。
優しく優しく微笑むと小さく口を開いた。
「ごめん……ごめんね、緑」
私は彼の顔を曇りなく見ようと、込み上げるものに必死で耐えながら首を振る。
「緑……僕が迎えに来るから。だから……それまで……こっちでがんば……て」
「うん、絶対に迎えに来てね。私と爽ちゃんは二人で一つだから。絶対に約束だよ」
私の言葉に彼は小さく頷いた。
「緑、大好き…だ…よ……」
彼はそう言うと静かに目を閉じた。
「私も、私も爽ちゃん大好きだよ。大好き、大好き」
私は目を閉じた彼にその言葉を繰り返し告げた。
再び目を開けてほしいという願いを込めて。
でも私の願いは届かず、それが彼の最後の言葉になった。
眠りについて五時間後。
彼はそのまま息を引き取った。
幸せそうに少し微笑みながら。
お葬式が済んだ翌日。
私は彼の両親に呼ばれて隣家に来ていた。
仏壇には私が選んだ彼の笑顔の写真が飾られていた。
「緑ちゃん、ごめんね。病院に置いてた爽の画材道具の中にこれが入っていたの」
渡されたのはB5サイズの茶封筒。
表には私の名前。
「それから、これも。爽にお葬式の後で渡してほしいって頼まれたの」
布に包まれた大きなキャンバスだった。
「私が貰っていいの?」
「ああ、これは爽が緑ちゃんのために描いていたんだ。半月前くらいからね。だからそれは緑ちゃんのものだよ」
「ありがとう。じゃあ、貰って行くね」
私はキャンバスと封筒を受け取り彼の家を出た。
行き先はもう決めていた。
いつも二人で行っていたあの場所。
私は不揃いの階段を上り神社の奥へ黙々と歩いた。
こうして来るのは何カ月ぶりだろう。
季節も秋に入って、葉の色は変わりかけている。
それでも草の匂いは以前嗅いでいたものと一緒だった。
私は切り株の椅子に腰かけてキャンバスを包む布を解いた。
中から出てきたのは見慣れた風景。
地面に生い茂る草と野の花。
囲むように立つ木々。
中心には切り株。
そして、そこに座って笑う私。
いつもの見慣れた風景。
彼の視界から見たこの風景だ。
綺麗な緑色に囲まれ幸せそうに笑う私。
爽ちゃんの目にはこんな風に映っていたんだね。
私はこみ上げる涙をそのままに、今度は封筒を開けた。
入っていたのは十枚ほどの水彩紙と便箋。
水彩紙に描かれていたのは私の顔だった。
笑った顔。
拗ねた顔。
泣いた顔。
怒った顔。
色々な私。
「人物は描かないって言ってたのに……」
彼の描いた私の顔。
彼の想いを私に伝えてくれる。
私は一人呟いて零れる涙を無造作に服の袖で拭った。
そして何度も何度も絵を眺めた後、震える手で便箋を開いて読み始めた。
『緑へ
まずはじめに謝らないとね。
面会を断ってごめんね。
僕の病気はガンなんだ。
珍しいタイプのもので、シミみたいに広がっていくらしい。
それも若い人には本当に稀なんだって。
でも、僕はそれに侵されてしまったんだ。
黄色に染まっていく身体は末期の症状で。
徐々に自分の身体が変わっていくことがわかっていたんだ。
それでも緑と一緒にいたかった。
でも、やつれていく自分を、苦しんでいる自分を緑に見せたくなかった。
緑はきっと無理して笑うだろうから。
そんなふうに笑う緑も見たくなかった。
僕も、緑の記憶の中では笑顔でいたかったんだ。
緑の泣き声が病室まで聞こえてきたけど、僕もどうしても譲れなかった。
我が侭でごめんね。
一緒にいられなくてごめんね。
入院中に緑が目を輝かせて語った二人の未来。
僕も出来ることならずっと一緒にいたかったよ。
僕たちは一緒にいることが当たり前で、長く離れていることがなかったから。
僕は残していく緑が心配だよ。
病室で言ってたよね。
「爽ちゃんは美術の先生になればいいじゃない」って。
その時僕はドキッとしたんだ。
一緒にいるのが当然で、敢えて将来の夢なんてもの話したことがなかったから。
なんで知ってるんだってね。
美大に行ったのは美術の先生になろうと思ってたからなんだ。
ずっと好きな絵が描けるしね。
ねえ、知ってる?
僕が絵を描き始めたのは緑がそばにいたからだよ。
緑っていうのが色の名前だって知ったからなんだ。
それから緑が好きになって。
だから僕は風景しか描かないんだ。
大好きな緑の絵。
僕の描く絵は全部、僕から見た緑そのものなんだよ。
キラキラしてて鮮やかで、生き生きとした緑。
だから、僕が迎えに行くまでは枯れずに頑張って。
鮮やかに眩しい緑でいてね。
辛い時は胸いっぱいに空気を吸ってみて。
きっと僕の匂いがするよ。
僕がいつもそばにいるから。
だから、神様がもういいよって言うまでは頑張って。
そうしたら、その時は僕が迎えに行くから。
ずっとずっと一緒にいよう。
だれにも邪魔されずいつも一緒に永遠に。
大好きだよ、緑』
几帳面な性格を窺わせる綺麗な字で書かれた手紙。
その文字が私の涙で滲んでいく。
「ごめんね。泣くのはこれで最後にするから。だから今だけは許してね」
私は誰もいない空間に話しかけた。
そして声を上げて泣いた。
すべてを吐き出すように。
涙が枯れてしまうように。
悲しいことも、苦しいこともすべてぶちまけよう。
そうしたら、笑顔で家に帰ろう。
私は散々泣き尽した後、腕を広げて深呼吸をした。
入ってくるのは草の匂い。
うん、ほら大丈夫だよ。
笑っていられる。
だって爽ちゃんの匂いがするから。
だから約束守ってね。
絶対に迎えに来てね。
あれから十年が経った。
私はこの時を迎えるためだけにこの十年間を生きてきたんだ。
地球に惑星が衝突するというこの日。
この地球上の人類すべてが滅亡する日。
自ら命を絶つことをせず、ずっとこの日を待っていた。
きっと神様が地球に住むすべての人に言ってるんだね。
十分頑張ったからもういいよって。
私は切り株の椅子に座って、大きなキャンバスを抱きしめた。
この十年で他の人に目を向けようともした。
でもやっぱり他の人でしかなかったの。
ねえ、爽ちゃん。
迎えに来てくれてる?
今そばにいるの?
やっと爽ちゃんに会えるんだね。
老けたねって言われるかな?
だって、もう十年も経っちゃったんだよ。
適齢期もとうに過ぎちゃった。
爽ちゃんはあの時のままなのかな。
楽しみだよ、本当に。
ねえ、爽ちゃん。
会えたらまず最初に抱きしめてね。
爽ちゃんの匂いを感じたいの。
キャンバスを抱きしめる私に、微かな風が緑の匂いを運んでくる。
「爽ちゃん、これからはずっと一緒にいてね。ずっとずっとだよ」
私の声に応えるように、少し強めの風が吹き抜ける。
同時に香る彼の匂い。
私はその空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
そして待ちに待ったその時のために、そっと目を閉じた。




