第23話 黒翼 其の一
爽やかな朝の微風が香彩の頬を優しく撫でる。
まだ春寒の残っている冷たい風の中に、新しい芽の瑞々しい香りと、馨しい春花の香りが交ざっていた。
香彩は身体の奥に取り込む様にして、ゆっくりと吸い込む。
瑠璃一色で染められていた世界は、微かな陽の輝きが、空気の層を、細くたなびく雲を、美しい淡藤色へとその彩りを変えていく。
あと少し刻が経てば空は白み始め、山の稜線はまるで白焔を放ったかの様な陽炎が、夜の終わりを告げることだろう。
夜明けのこの僅かな時が一等好きなのだと、香彩は思った。
ほぉうと吐く息は、うっすらと白い。
昼間は穏やかで暖かい陽気になるというのに、陽が昇るこの時刻というのは特に寒いものだ。
大広間から出るまではまだ温かみのあった手も、少しずつ体温を奪われて、今では指先が凍えるよう。
思わず手を擦り合わせて、暖かい息を吹き掛けて暖を取ろうと試みるも、手は一向に温かくならない。
早く暖まりたい気持ちからか、昨日の残骸などを踏まない様に気を付けて、後で片付けないとなぁと思いながらも、香彩は早歩きで中庭を進んで行った。
池に掛けられた散策用の橋を渡り、更に進むと森の中の小道を思わせる様な場所に出る。
飛石と飾られた紅麗灯がなければ、道を間違えて森へ入ってしまったのではないかと思う程、木々が小道を覆う様にして、半円形を描いていた。
真っ直ぐなその道の奥は、紅麗の灯りが届いていないのか、暗闇がぽっかりと口を開けている。
紫雨から聞いた湯殿の場所はこの奥だ。先に向かったという咲蘭の気配もすることから、確かに合っているのだろう。
(──何だか……嫌、だな)
ほんの一瞬だった。
暗闇を見た時の覚えた感情に、香彩は歩く早さをゆっくりめに変える。
だが先程まで穏やかだった風が、まるで追い立てる様に強く冷たく吹き付けるのだ。
思わず身を震わせて、香彩は暗闇を突っ切るために走り出した。
真っ直ぐに続く森の小道の先に、その建物はあった。
草で葺いた屋根のある小厦を隠す様にして木々が覆い被さり、辺りは一段と暗い。その為か確実に訪れている筈の黎明の刻を、どうも感じられずにいた。
森の木々や草や土の香りと、清々しい空気の交ざった風だけが、朝を感じる材料だ。
紅麗灯の温かみのある、ぼぉうとした灯が、小厦の入口を照らしている。
引き戸を開けて中に入れば、小厦に使われている木の、とても良い香りがした。
湯殿独特の暖かく湿った空気に、香彩はようやく寒さで強張っていたものが解けていくようで、小さく息をつく。
沓脱石の上で沓を脱ぎ、室内へと上がる。
ふと先客の綺麗に向きを整えてある履物が目に入り、慌ててそれに倣う。
正面にある障子戸を開けると、休憩処と脱衣の出来る場所がひとつになった部屋があった。格子棚には籠があり、中には大きな拭物と白装束の湯浴衣が用意されている。
香彩は着ていた縛魔服を綺麗に畳み、湯浴衣に着替える。
衣の感触が、肌にとても心地良い。
何より湯浴衣一枚でも、寒さを感じない、この部屋の暖かさがありがたいと香彩は思った。
部屋の中には不透明な玻璃のはめ込まれた引き戸がある。多分この先が湯処なのだろう。
開けた瞬間に感じた気配を、何と表現すればいいのだろうか。
引き戸を開ける手をそのままに、香彩はその場に立ち尽くした。
竜紅人の気配を、きんとした冬の早朝の様だと表現したのは香彩だったが、目の前にいる人物は彼とは真逆の気配をしていた。
しかもあまりこういった『力』の『気配』を感じさせない人物だっただけに、驚きの方が先に来る。
露天となっている湯殿に足だけを付けて、咲蘭は座っていた。
木々の隙間から僅かに差し込む光を、身体の奥で感じ取る様に、上を向いている。
少しばかりはだけた白い湯浴衣に、艶やかな黒髪がはらりと落ちていた。
ふるりと震えたのは、咲蘭の背に在る黒翼だった。
湯気でしっとりとしてしまったものを取り払う為か、軽く羽撃つ音が聞こえる。その度に、差し込む朝の僅かな光に水滴が反射して、綺羅綺羅と煌めくのだ。




