第64話 天昇 其の四
それは酷く、潮騒のざわめきに似ていた。
葵という存在を元ある姿へと変化させ、胸中に納めた瞬間に訪れる静かな一時。
目の前には、ただ真っ白な世界が広がっていた。
それが自身が織り成す神気の奔流なのだと気付いた時、竜紅人の心を占めたのは、来るべき時に来るべき者が納まったことによる安堵の気持ちと、自身の内からそれを放つことが出来る解放感と、そして。
葵に対する自責の念だった。
最後の最後まで思い出すことが出来ず、彼のことを思い出した時には彼は既にその意識を失っていた。
葵が『葵』である時に話すことが出来なかった、それがどうしても悔やまれる。決して葵がいなくなるわけではない。あるべき姿に戻るだけだ。
『葵』という器と人格は元々竜紅人が作り出し、生命と真竜の力の源を吹き込んだものに過ぎない。
だが確かに『葵』は生きていて、竜紅人を呼び続け、短い時間ではあったけれども、共に在ったのだ。
他の真竜の元でなら、覚醒を迎えるその日まで、心穏やかに安らかに、共に在り続け暮らしていくことが出来ただろう。
ただそれはもう竜紅人の『葵』ではないだろうけれども、そんなもしかしたらを、どうしても考えてしまう。
あの時の絶望に満ち、深い慟哭と愛憎に溢れた怨嗟という名の陰の気がなければ、それに自分が侵されなければ。
(葵は、俺に消されずに済んだ)
しかもそのことを、覚えていなかった自分が赦せない。
『そんなに、自分を責めないで』
光の奔流の中から声が聞こえて、竜紅人が目を見張った。
「──葵!?」
自分の中で消えたはずの葵の声に、竜紅人は辺りを見渡して、その姿を探した。
『ごめん、竜紅人。器は貴方に返したから、もう無い。そしてこの自我ももうすぐ消える。だけどその前に、どうしても伝えたいことがあって』
消えるという葵の言葉がどうしても痛くて、竜紅人は顔を歪める。
「……すまない葵……俺は──」
竜紅人の言葉を遮るように、葵が首を横に振る気配があった。
『貴方が悪いわけじゃない』
そして、誰かが悪いわけでもない。
葵がそう言葉を続けた。
『抗えない大きな力によって、起こるべくして起こったことだって、今ようやく分かった。あの時のことも、今も』
竜紅人が息を飲む。
確か自分も思わなかっただろうか。大きな流れの中に身を投じてしまっていると。
『彼君に問われた。僕は今まで何をしていたのか。愚者の森で、土鬼に追われる以前に何をしていたのか。貴方の中に入って少しだけど思い出すことが出来た。だから伝えたくて……』
葵の声がだんだんと遠くなる。
無理もなかった。
本来であれば器を竜紅人に吸収された時点で、自我も無くなっていたはずだ。
竜紅人は懸命に葵の名前を呼び続ける。
かつて葵が、そうしていたように。
『……僕は……の里で……二人の鬼──……らは、……の遺志で……双竜を……──』
途切れ途切れになる葵の声。
聞き取れた言葉はほんの少し。
だがそれでも。
竜紅人に考える余裕はなかった。
身体の奥底にある欠けていた部分が。
今、しっかりと填まった。
それが一体何を意味するのか。
(……ああ)
耳の奥で、それとも身体の全てで、葵の自我の最後を聞いた気がした。
ありがとう、と。




