第35話 紫雨と香彩 其の一
既に夜の帳が落ちている庭には、沢山の『紅麗』の明かりが灯されていた。
紅と橙の間のような色の灯が、散策用の小道の脇に、一定の間隔で置かれている。離れの灯りが届かないこの場所は、まるでこの『紅麗』の暖かい灯の色が宵闇の中に、ぼぉっと浮かんでいるようにも見えた。
しばらく歩くと庭の中にしては、やや大きめな池があった。
渡橋がかけられていて、池上を散策出来るように作られている。池には沢山の『紅麗灯』という、細くしなやかな竹の棒を丸く組み、薄い紙を貼り巡らせて、その中に『紅麗』を入れて燃やした物が浮いていた。
水面にぼんやりと移ろいながら映るその灯は、何とも幻想的だ。
紫雨からの合図を受け、彼の後をついてきた香彩は、渡橋の上で足を止めて、この幻想的ともいえる灯火に魅入り、景色を眺めていた。
なんて、綺麗なんだろう。
そう思った瞬間、心の中で少し余裕が出来ていることに気付いた。
景色を楽しんでいる余裕などなかったこと、実は気が張り詰めていたことを今更になって気付いたことがおかしく感じて、香彩はくすりと笑う。
先に歩いていた紫雨の呼ぶ声に、短く香彩が答えた。
渡橋の渡った先の池のほとりに、休憩用の長椅子が置かれていて、彼はそこに腰かけていた。
長椅子の左側の空いている場所を、紫雨の右手が急かすように、とんとんと叩く。
無言でなおかつ無表情で、そういうことをするのはやめてほしい。
香彩は心の中で大きな溜息を付いた。
(……あ、でも無表情、じゃないか)
顔に表すことはないが、彼の目が雄弁にその表情を語っている。
何となく紫雨の横に座る気分ではなかった香彩が、彼の前に立った。
「……座らないのか?」
紫雨が、にっと笑いながら言う。
「俺の横が気に喰わん、か? 誰なら喜んで座るんだろうなぁお前は」
質の悪い笑みで、彼はくつくつと笑う。
紫雨が言葉で遊び始めたら性質が悪いことを、香彩はよく知っていた。彼の『遊び』に毎回いつも引っかかり、ちゃんと反応を返すのは竜紅人くらいなものだ。
香彩はにっこりと笑みを顔面に張り付かせて返した。
「紫雨……森の中からずっと怒ってるでしょ?」
しかもご丁寧に結界まで張って、何の話?
香彩の言葉に、紫雨は笑みを更に深くする。
渡橋を渡り、一歩足を踏み出したその時に、空間の違和感を感じていた。馴染みのある、自分を護ってくれる『力』の鱗片がそこにはあった。
香彩が紫雨と視線を合わせる。
先程まで瞳の奥に怒りを隠していた紫雨のその目は、今はとても楽し気に輝いているようにも見えた。
「なぁに、久々の逢瀬だ。耳聡い者達に聞かれるのも無粋、だろう?」
「あーはいはい。あのふたりには聞かれたくない話なんですね?」
紫雨の言葉に香彩は、引き攣った笑顔を張り付かせたまま、ふたりがいるだろう部屋の方を見る。
竜紅人と療のことだ。
香彩と紫雨のいるこの場所は、彼らの部屋から通常ならば聞こえない。だが彼らの聴覚は人のそれを遥かに凌駕する。香彩は、竜紅人と療の話している言葉は聞こえないが、彼らは部屋の中にいて、その聴力で聞き分けを行うことが出来た。
紫雨が楽しそうに息を付く気配に、香彩は再び彼を見た。
「……情報をくれてやる必要もない」
「……」
「それに情報次第では、奴が出てくる可能性もある」




