第40話 怪訝の目 其のニ
それは今、この場にいる者達にとっては、あまりにも効果的だった。
添えられた手が離れ、療は叶を見上げる。
先程までその紫闇の瞳の奥に孕んでいた赫怒の念は成りを潜め、凪のような穏やかさが占めていた。
療は何故か不安のようなものを、引っ掛かりのようなものを覚える。
何故彼はこんなにも落ち着いた瞳をしていられるのだろう。
療はもうひとりの人物を見る。
地面のある一点をじっと見つめて、微動だにしないのは紫雨だった。彼が見ているものを僅かに視界に入れて、療はすぐに視線を紫雨へと戻す。
彼が見ていたものは、地に染み込んだ血痕だった。
療は思い出す。
風丸によって横抱きにされた香彩が、ぽたり、ぽたりと落とした水滴の音を。あれは首を、まるで線を描く様に鋭爪で傷付けられ、滴ったものだ。
(……紫雨は、何を思ったのだろう)
香彩を拐う彼らから、今は亡き最愛の人の名前を聞かされて。
風丸と那務羅が何故、彼女を知っていたのか、療には分からなかった。どこかで接点があったのか、思い返してみても心当たりがなかった。
紫雨は、表情にこそ現れていないが、ぐっと拳を握り締め、痕を凝視する。
その眼光はいつになく鋭く、憤然とした気配を顕わにしていた。
あまりにも対照的なふたりだった。
療は改めて叶の落ち着き様に、怪訝の目を睜った。
それに紫雨も気付いたのだろうか。
地面を見つめていた紫雨の視線が叶を捕らえたかと思うと、その胸ぐらを掴んで自身の方へと引き寄せる。
一瞬の出来事に療は、茫然とその様子を見ていることしか出来なかった。
「──何処までだ、お前は!? 何処まで知っていたっ!?」
感情を隠すことをせず、声を荒げる紫雨の姿を初めて目にして、療の心は動揺する。いつも落ち着いていて寛容な態度で人に接する彼しか、療は目にしたことがなかったからだ。
そして。
紫雨の言い様に。
療は、思い出していた。
風丸の言葉を。
──見て見ぬ振りをして高見の見物をしていた彼君が、どのような反応をするのか……見ものだな。
心の中に冷水を落とされた気分だった。
ふたりを拐った鬼の言葉だ、信じてはいけないと思いながらも、療は何故か風丸のその言葉に、妙に納得がいったのだ。




