第36話 二人の鬼 其の四
「……次は、落とすぞ」
地に這う様な低い声でそう言ったのは、:那務羅だった。
彼は翼の折りたたむ部分である、翼角を掴んでいる。
だが、その先は。
地に向かって真っ直ぐに、伸び落ちるはずのその骨格は。
あらぬ方向へと、曲がって。
これ以上声を出すまいと、それでも痛みで出てしまうくぐもった声を、咲蘭が険しい顔をして耐える。
臨戦体勢だった叶と紫雨の『力』の気配が、消えた。
ふたりをこれ以上進ませない様に、まるで風丸と那務羅を庇う様な体勢で立っていた療は、見た。
見てしまったのだ。
叶と紫雨の、無の表情を。
その奥に、どうしても隠し切れない程に滲み出ている、:赫怒の念を。
「……良いものが見れた。行くぞ、那務羅」
満足そうな風丸の言葉に那務羅が、短く応えを返す。
咲蘭の苦悶の声を無視して、那務羅は彼を横抱きにした。
翼の折れた部分が那務羅の身体に当たるのか、一層上がる声を、療が、紫雨が、そして叶が聞いた。
反射的に叶が駆けようとするのを、療がしがみついて止める。
有翼亜種の翼は、とても繊細かつ鋭敏なのだと聞いたことがあった。翼全体に神経が張り巡らされていて、彼らの『力』の源となる物なのだ。
次は落とす、と彼は言った。
違法に翼切された翼が市場に出回ることはあるが、翼を落とされた後の有翼亜種がどうなってしまうのか、知る機会は少ない。
彼らは痛みに耐えきれず、痛みを忘れる為に自我を亡くすのだ。剛の者はその傷が癒えるまで耐え、自我を保つことが出来るというが、それでも長い間、苦しい思いをすることになる。
感情の起伏を表に出さず、たおやかに冷やかに笑む咲蘭の印象を持っていた療は、痛みに苦しむその姿に、焦りと動揺を覚えていた。
たとえ切り付けられたとしても、普段の咲蘭であれば苦悶の声ひとつ、敵に聞かせることはしないだろう。味方ですら傷を負っていることを、気付かせない様に振る舞う。
それが彼の矜持なのだと、療は共に仕事をする上で知っていたのだ。
(──そんな咲蘭様が……)
思わず声を上げてしまう程の激しい痛み。
自身を害した相手の衣着に皺を作ってしまう程、縋る様にして那務羅の剛腕を掴んでしまう程の、激しい痛みなのだ。
では翼を落とす痛みとは、彼にとってどれほどのものなのか。
考えることすら恐ろしくて、療は必死に叶にしがみ付いて、行かせまいと止める。
叶が威嚇をしてしまえば、その甚大な妖気を振り撒けば、那務羅は容赦なく咲蘭の翼を落とすだろう。
何の慈悲もなく、易々と。
獲物を狩るその獰猛さを、眼の奥に匂わせながら。




