第33話 二人の鬼 其の一
療は、ただ茫然と立ち尽くした。
(……一体何が)
起こったのか。
目の前で起こった出来事に、どうしても信じることが、理解することが出来なかった。
無意識の内に、療はゆるりと首を横に振る。
頭の中が今の状況を、把握することを、拒否していた。
頽れる咲蘭を紫雨が横抱きにして抱え、薄青の髪色をした鬼の側に立ち、一礼をする。
鬼は冷ややかな紫闇の双眸を紫雨に向けると、今までどこか余裕のあった表情を一変させた。
「お前だと分かってはいるが……その姿で礼を執られると、どうもこの手で引き裂きたくなるなぁ。那務羅よ」
「致し方ありますまい。効果があると分かっていなければ、好き好んでこの男の姿など」
「全くだな……得られた効果はどうやら絶大だった様だ」
「是。この御方達を惑わすことが出来たのは喜ばしいですが……私の心内は少々複雑かと」
全くだ、と鬼は忌々しげに言う。
「そろそろ変われ、那務羅よ。これ以上その男を見ていると、本気で殺りたくなる」
鬼の言葉に、那務羅と呼ばれた者は、くつくつと笑いながら、紫雨の姿を脱ぎ落とした。
顕れたのは、髪を全て剃り落とし、頭の中央に角の生えた屈強な男。
記憶に違わないその姿に、療は息を呑んだ。
身体が震え出すのを、どうしても止めることが出来ない。
目の前にいる二人の男を認識した時から、心内に湧いて出てくるのは、恐ろしいという感情だった。
無意識の内に左腕を掴む。
とうの昔に治った傷だというのに、あの時のことを思い出して、じくりと痛みが甦る様だ。
やはり生きていたのかと、何故ここにいるのかと、香彩に何をしたのかと激昂したい気持ちはあるというのに。
恐怖という精神的な外傷が療の心の中を巣喰い、どうしても勝てないでいる。
「かぜ……まる……!」
鬼の名前を呼ぶ療の声は、上擦り掠れて、言葉を紡ぐのがやっとだった。
そんな療の様子に、風丸と呼ばれた鬼は、療が特に意識せずに掴んでいる左腕を睥睨する。
「ほぉう? 余程傷んだのか。それはそれは悪いことをしたな、療」
記憶と寸分違わないその声に鬼胎を抱いた療は、ぐっと奥歯を噛み締めて風丸を睨み付けた。
すでにぐったりとしていて、意識をどこかに飛ばした様子の香彩を、風丸は軽々と横抱きにする。
ぽたりと。
何か水滴が地に落ちる音と、ふわりと漂う芳しい香りに、知らず知らずの内に療は本能のままに喉を鳴らした。
香彩をよく見れば、頬と首に傷がある。特に首に付けられたその一線は、幾度か同じ場所を引っ掻いた様な跡があり、じわりと紅いものが滲み出ていた。
咲蘭が滅多に出すことのない『力』を出しながらも、風丸に対して仕掛けることが出来なかった理由が良く分かる。
咲蘭が攻撃を仕掛ければ仕掛ける程、風丸は見せしめとばかりに、香彩を切り刻んだに違いない。
そんな様子が容易に想像出来るのだ。
療の傷のない左腕が、記憶の中で疼く。
「粉砕してやったというのに、元通りとは恐れ入った。あの城には余程腕の良い薬師か、治癒を行える者がいるらしい」
くつくつと、風丸が嗤った。




