スパイ。
エレナ・アウグストは苦悩していた。
それは外交に関しての事で、これから相当面倒なことになる。そう自覚できていたからだ。
「エレナ様。こちらがご所望の資料となります」
「ありがとう。どのぐらい集まったのかしら」
ハイム城内にある、彼女の執務室。
そこでクローネの母エレナは、自分が依頼した資料が届いたことに、若干安堵することができた。
エレナの執務室へとやってきたのは、リリという女性でエレナの部下。4年ほど前から、エレナの専属として働いている。
黒いショートヘアーの、身長は低めの可愛らしい女性。それがリリという部下だった。
執務室へとやってきた彼女の顔をみると、どうにも顔色が優れない。
「どうかしたの?」
「実はその……集められたのはその通りなのですが、どうにも似たり寄ったりな物ばかりで」
「あぁ、なるほどそういうことね」
だが彼女を責めることはできなかった。
というよりも、エレナとしてもあまり多くは期待できていなかったからだ。
数多くの冒険者たちにも依頼をかけて、資料の収集にあたった。
だが彼らとしても、"あの国"を敵に回したくないのだろう。名高い冒険者たちは揃って、依頼を拒否して来たのだ。
「はぁ……イシュタリカ。こんなところでも強さを見せてくれるんだもの。大したものだわ」
王族が舐めてかかってるのが、本当に恐ろしくてたまらない。
だがなんだかんだ、ハイムは愛する祖国だ。できる限りは、うまくいくように仕向けたい。
「で、でもエレナ様なら大丈夫ですよ!いくら相手にイシュタリカの宰相が居ても……」
「……ねぇ貴方。貴方は港町ラウンドハートの、ここ10年の漁獲量の推移を知ってる?」
「は……?い、いえさすがに知りませんが……それがどうされたのですか?」
失礼ながら、何を言ってるんだ?という顔を浮かべてしまった。それを反省しながら、どういう意図なのかを尋ねるリリ。
「私もね。こんなに詳しい資料は初めて見たの。逆に勉強になったわ、ついでに書き方なんかもご教示頂いた、そういうことね。イシュタリカの宰相殿は、本当にやり手よ」
エレナは一枚の紙を取り出し、それをリリへと見せる。
まだ不思議そうにしているリリだが、それでも手渡された紙に目を通した。
「……なんですかこれ」
「お相手が調べてくださった、港町の漁獲量の"詳細"な資料よ。脱税もあったらしいから、確認することをお勧めします。ってわざわざ一言添えてくださったわ」
不愉快なことや、あまりに悩むことがあると、エレナは親指の爪を噛む癖があった。
もちろんこうしている今も、その癖が出てしまっている。
「きっかけは……いえ、最初に舐めてかかったのはハイムね。でもここまで徹底的にしてくれるんだから。ほんっと面倒だらけよ」
「イシュタリカとの対談。どうなりますかね……」
「どうにかするために、これから頑張るしかないの。でもどこから詰めればいいのかしらね……。お義父様と、娘の誘拐疑惑?そんなのどうとでも言いくるめられるわ、それともティグル殿下への無礼?これも駄目ね、なにせ相手は王太子だもの。まだハイムでは王太子を立ててないのだから、立場ではティグル殿下の方が低いわ」
半ば暴走的だった、ハイム王家からのイシュタリカへの要望。
エウロへと圧力をかけて、無理やりといった形で届けさせた。
エレナは当初、こんなものに返事なんて帰ってくるなんて思ってもみなかった。
だが数十日後。それは動く。
ただの返事どころか、現イシュタリカ王・シルヴァードの名で返事が届いたのだ。
宰相や外務官の名ではなく、イシュタリカ王の名で届いたことに驚いたが、内容は更に度肝を抜かれた。
長ったるい前置きと社交辞令を抜かせば、意訳すると『文句は直接いえ』という内容。
それはハイム王やティグルへと、大きな衝撃を与えた。
「先手は……いえ、先手どころじゃなくて次の手もだけど。半ば言いがかりみたいな形でいかなければ、どうにも会話にすらならない気がするわ」
「……万が一。論戦や騎士同士の決闘を含めた、数多くの事で競うならば……エレナ様は、どうなるとお考えでしょうか?」
「決闘はわからない。なにせ私は、イシュタリカの騎士がどれぐらい強いのか知らないもの。言葉では聞いたけど、ローガス将軍という頼もしい方もいるのだから、勝機はあるかもしれない」
「なるほど、たしかにアレ……いえ、ローガス将軍ならばと思えますね」
ただし論戦は勝機が見えない。
むしろそんなことをしても、恥をさらしに行く様な結果になるだけ、そんな気がしてならないのだ。
「それに仮に、我々がイシュタリカの王太子について話すなら、彼の補佐官たちも顔を揃えるはず。どれほどの化け物を揃えてるのか、今から頭が痛いわ」
王太子付きの護衛に補佐官。
武は勿論だが、確実に弁論でも強さを発揮してくる。大国イシュタリカの人材は、どこも脅威が揃っていると認識するべきだ。
「そうすると、イシュタリカの王太子……その方の補佐官と、エレナ様。お二人が論戦を交わすこともあり得ると?」
「あり得るどころか、きっとそうなるんじゃないかしらね。だってハイムの主力は、きっと私だもの」
ブルーノ家のアノンも、めきめきと実力を上げている。だが場数で言えばエレナの圧勝だ。だからこそ、まだエレナが主力として向かうことになるだろう。
「っと……ごめんなさい。これからティグル様と約束があったの。申し訳ないけど、資料の選別は任せてもいい?」
「勿論ですエレナ様。お任せください」
ニコリと微笑みながら、リリは素直に頷いた。
——……ちょっとした一言だが、先ほどの彼女の言葉。それが気になってしょうがないエレナ。"アレ"、とはずいぶんな言葉遣いだった。
そしてつい半信半疑で、カマを賭けてみることにした。
「あ、ところでリリ。うちの……オーガスト家の来年の予算表だけど、いつまで出せばよかったのかしら」
貴族は毎年、王家へと予算表を提示する。
それは不正がないか、どれほどの資金が必要となるのか。そういったことを調べるための、一つの指標とされている文書。
「11月になるまでです。なのでそろそろお作りになるべきかと」
……そういうことか。とエレナは理解した。
泳がせすぎるのも意味がない。なにせこれ以上好き勝手するのは、何一つ苦ではないだろうから。
4年も前からこんなことをしていたのかと、全身を寒気が襲った。
「ねぇ。どうしてオーガストという名を知ってるの?ハイム王家ですら知らない名前なのよ?」
何事もやってみることだ、前・アウグスト家当主グラーフはそう口にしていた。
それに倣って、今もとりあえず口にしてみた。まさか懸念が正解だとは思わなかったが。
万が一名前の間違えを指摘されたら、噛んでしまったなどなんでもいいので、何かしらの言い訳をするつもりだった。
「……あー。バレちゃいましたか」
「最初からかしら?4年前からずっと?」
「うーん失敗でした。まさかこんな失態を犯すだなんて、夢にも思いませんでしたよ。……ですがさすがですね、さすがはクローネ様のお母様といったところでしょうか」
口に手を当てて、考える様子のまま返事をしないリリ。
してやられたというべきか?いや、4年も前から潜入されていたのだから、そんな言葉では済まされない。
「ねぇ。無視はどうかと思うのだけど」
「っとと……すみませんエレナ様。つい自分の失態に目を瞑りたくなりまして」
「あらそう。でも随分と調べたでしょう?この4年間でね。だから失態っていう程じゃないと思うけど」
「うぅーん……。どうにも上司が厳しいものでして、ハイムのように"テキトー"ではいられないのですよ」
自然にハイムを貶してきたが、エレナは冷静に気持ちを抑える。
こんなことで一々怒りを露にしていては、イシュタリカとの本番なんてもってのほかだ。
「それは残念だわ。さて、もうバレてしまった訳だけど、どうするの?」
「ですがエレナ様。ここで私がエレナ様を殺してしまえば、誰にもバレずに済むんですよ?それはお考えになりませんでしたか?」
「……大声で叫べば、貴方もひとたまりないでしょう?」
「ならこうやって……よっと」
するとリリは一瞬で詰め寄り、エレナの首にナイフを押し当てる。
あと少しでも力を加えれば、首の皮に切れ目が入る。そんな絶妙な力加減で、リリはエレナの様子を窺った。
「ほら。もう詰みですよエレナ様」
今までに見たことのない、冷たい言葉遣い。
これが彼女の本性と思えば、それを見破れなかったことに後悔が募る。
「……はぁ。舐めてたのは私だったのかしら。貴方こんなに強かったのね」
「エレナ様はもう少し気を付けるべきですね。不用心すぎるのが玉に瑕です」
そう言うとリリは、さっと元の場所へと戻っていった。
エレナの背筋に、サッと冷たい汗が流れる。
「貴方を殺すのは止められています。なのでただの脅しですよ、だから声も出さないでくださいね。取引っていうやつです」
「素直に聞くしかなさそうね……もうっ。踏んだり蹴ったりじゃないの」
「あ、今の話し方クローネ様とそっくりでした。やっぱり親子なんですね」
今まで見せたことの無いような、明るくまるで子供の様な態度のリリ。
ニコニコと笑みを絶やさずに、エレナへとちょっかいを出した。
「当然よ。あの子は私を見て育ったのだから。……それで、もう城を出ていくのかしら?」
「出て行きますよー。さすがに限界みたいですし」
ナイフをスカートの中にしまい、リリは両手を広げて、降参といわんばかりのポーズを見せる。
「そう。貴方の事は気に入っていたのに、残念だわ」
「そう思っていただけるなら。一緒に来ませんか?——……イシュタリカへ」
まるで悪魔のささやきのように、リリの言葉が魅力的に聞こえる。
もしイシュタリカへと渡れば、愛しの娘とも再会でき、義父ともまた会える。
それはエレナにとって、とても魅力的に感じられる……だが。
「残念だけど断るわ。お義父様やクローネに文句を言う訳じゃないけど、私はまだハイムが好きなの。ずっと生きてきた祖国だから、離れることはできないわ」
「……それは残念ですねー」
ハイム王家?いやどちらかといえば、ハイムという国が好きだから、ここに残りたい。そんな思いがエレナにはあった。
ハイムを離れた二人の事を否定するつもりはない。だがあくまでも自分は、ここを離れる気にはなれない。それだけなのだ。
「ねぇ、どうせ今から帰るんでしょ貴方」
「もちろんです!私も自分の身が一番大切ですから!」
「じゃあ教えて。……クローネは。あの子は元気でやってるの?」
手紙は受け取った。それで彼女の近況を知ることができた。
だがイシュタリカの民から、どうしているかを聞きたくなった。
「うーんそういわれても、私がイシュタリカに帰ったのって随分前なので……」
「そ、そうよね。さすがに無理をいったのは分かってるの……」
ハイムからイシュタリカへの道のりを考えると。そう簡単には帰国できないだろう。
リリもエレナと同じく、かなりの仕事をこなしてきたのだから。
「なので、二カ月前のクローネ様の事でいいですか?」
「……随分と最近じゃない」
てへへーと笑いながら、リリは舌を出してふざけた顔をする。
「楽しそうにやってますよ。最近では、黒い物が大好きみたいです」
「黒……?一体どうして黒なのかしら」
「それはもう、王太子殿下の色ですからねー黒といえば。本人はバレてないと思ってるみたいですけど、もうバレバレですから」
ニコニコしながら、再度ナイフを取り出して、それを手のひらでくるくる回すリリ。
その様子は楽しそうに見えるが、物騒なのがなんとも言えない。
「王太子殿下からは、その……どう思われてるのかしら?」
一番の不安はこれだ。
わざわざイシュタリカまで行ったのに、あまり気にいられてなければどうしよう。
そこはさすがに母として、不安に思うのも仕方のないこと。
「あーその辺は大丈夫ですよ。もう二人とも"じれったい"だけですので」
「……それを聞けて安心したわ」
「それに今では、イシュタリカでもそれなりの"重鎮"みたいなものですからね」
聞き逃してはならない言葉を彼女が口にする。
重鎮?まだクローネは二十歳にもなっていない。だというのに、イシュタリカという国で重鎮になる?
「どういうこと?イシュタリカで重鎮になるなんて、まだ不可能といっていいはずなのに」
「そうですねー。普通なら無理です。でもクローネ様は努力もしましたし、それで結果を出しただけなんですよ……さてさて、あまり情報をあげるのも怒られるので。これぐらいでお暇しますね」
窓を解放し、そこから身を乗り出したリリ。
ここは数十メートルの高さがある部屋で、普通に落ちればひとたまりもない。
「ちょ、ちょっとそれは危なっ……」
「大丈夫ですよこれぐらい、さてそれじゃエレナ様。……長い間ありがとうございましたーっ!」
『せーの』といい、とうとう飛び降りそうになるリリ。
エレナはこれが本当に最後だろう。そう思い、疑問に思ったことを投げかける。
「最後に教えて!ク、クローネは今何をしてるのっ……!」
ギリギリ届いたその言葉。リリは一瞬体を止めて、どうしたものかと考えた。
すると彼女のちょっとした悪戯心が働き、意地悪そうな言葉で返事をする。
「んふふー……ご忠告致しますねー。もしクローネ様と"戦い"たくないのなら、王太子殿下への物言いはやめたほういいですよ。ではではー」
「ま……待ってっ!」
もう少し具体的にと思い、彼女を引き留めるため窓際へと向かう。——だがこの言葉が本当に最後だった。
リリはその後は止まらずに、窓からスッと飛び降りた。
「……雲散霧消、そんな言葉を実践する人がいるなんてね」
窓から外を見ると、どこにもリリの姿はない。
上下左右、すべてに視線を向けても、動く姿すら見つけられなかった。
「さてと。どこから手を付けるべきかしらね……」
スパイが居た。その報告も必要だが、どこまでの情報を取られたのかも調べが必要だ。
それよりも、スパイが彼女だけとも限らない現状。本当にどこから手を付ければいいのか迷いばかり。
「後手どころか、手のひらで遊ばれてるだけね」
一方的に調べ上げられている現状に、エレナは深くため息をつく。
窓から見える景色は、エレナの心境とは対照的に、ずいぶんと蒼く晴れやかな空模様をしていた。
*
一方冒険者の町バルト。
その宿の一室にて、その娘は主君を見下ろしていた。マゾには最適な見下ろし具合だったが、アインは不遇にもマゾではない。
「それで、なによこれ?もう一度聞いていいかしら?殿下?」
きっとクローネは、イシュタリカの歴史に名を残すだろう。
それは彼女の有能さという意味ではなく、王太子に"させた"ことの記録として。
もちろん彼女が、それ以外の事で名を遺す可能性は否定しない。
「はい。あの……魔王軍の幹部の方から、お土産で貰って来ました……」
だからもう正座やめていい?と聞きたかったが、彼女の迫力の前では、そんなことは口にできるはずがない。
「だから、どうして、魔王軍の幹部と、二人で会ってたのかって聞いてるの!」
「不可抗力で拉致られたといいますかその……」
というかそれ以外に説明ができない。
実際拉致られたのも事実だし、不可抗力なのも事実なのだ。
……幻想の手を使った。そのことを責められたら、もっと警戒しろと言われても文句は言えない。
「その原因はなんだったかしら?」
「……幻想の手を使いました。はい……」
『あ、これもう駄目だわ。言い逃れできるポイント全部消えたわ』頭の中で、こんなことを考えるアイン。
さすがにこんな軽口は叩けないので、頭の中だけで収めていく。
昼過ぎの、もうすぐおやつ時といえる時間帯。
数十分前にバルトへと戻ってきたアイン一行。部屋に戻ると、クローネが出迎えてくれたことにアインは喜んだ。
だがその後。いろいろと報告をしている中で、彼女の態度がどんどん変わってきたことは当然のことだ。
「少し考えればわかると思うの。危険な場所でしょ?なのにどうしてそんなことをしたの?」
そう言うと、彼女はアインの側により、正座しているアインの目の前で膝を下ろす。
するとアインと目線が近くなり、そのまま彼女はアインの頬に手を当てた。
数日ぶりのクローネの香りに安心感を覚えるが、安心してばかりいられない現状に、気を引き締め直す。
「……ごめん。次からは気を付ける」
「約束できる?ちゃんと私の目を見て、もう一度言って」
目線がうつむき気味だったことを指摘され、アインは目線をクローネの瞳に向ける。
真っ白な白目と、美しいブルーの瞳が真っすぐにアインを見る。
時折動く彼女の唇が、煽情的に見えて仕方ない。
「……ねぇアイン。もう一度、私の方を見て約束して?……ね?」
まるで悪い子を諫めるように、優しく包容力にあふれた声色で、クローネはアインへと迫る。
生唾を飲み込みそうになるところを、どうにか抑え込んで口を開く。
「次からは……気を付ける」
「ほんと?……嘘つかない?」
「う、うん勿論……ごめんクローネ」
瞬きすらせずに、じっとアインの瞳を見続けた。
一秒一秒が、もっと長い時間に感じる程の空気。どれぐらいたったか分からない頃、ようやく彼女が手を放す。
「じゃあ信じるわ。……これ以上アインを責め続けるのも、ちょっと可哀そうだものね?」
立ち上がったクローネが、アインへと手を伸ばす。
アインはそれを手に取って、同じく立ち上がったのだが、慣れない正座で足が痺れる。
「(よく見たかディル。あれが王家に相応しい女性というものだ、しっかりと学ぶのだぞ)」
「(え、えぇ父上……承知しました)」
近くに控えていたグレイシャー親子。
なにやら小声で話し合ってるが、それに気が付いたアイン。じっと目線をぶつけると、ロイドが咳払いをしてこう言った。
「さ、さてアイン様。私とディルはそろそろ下がります。疲れを残さないために、ゆっくりとご休憩を」
「ア、アイン様。それでは失礼します」
「……わかった。それじゃ二人とも、お疲れ様」
どうせ変な事でも話してたんだろう。アインの予想は的中するのだが、別に特別気にする事ではない。
——……というよりも、クローネがご立腹の間。ずいぶんと二人とも空気だったなと、アインはしみじみと考えた。
そうしていると、大きなあくびが漏れたアイン。疲れが溜まってるのを思い出す。
「ちょっと昼寝しようかな」
「……後で起こしてあげましょうか?」
「うん。二時間ぐらいしたら起こしてほしい」
昨晩はあまり寝られなかった。
というのも、拉致られて謎の高級茶を頂いてたからだ。
宿に戻ると雰囲気に当てられてか、徐々に眠気がアインを襲う。
「遠征お疲れ様。起こしてあげるから安心して?——ゆっくり休んできてねアイン」
「ありがと……ごめん。ちょっと休ませてもらうよ」
例のお土産や、ヤツメウサギの魔石。
いくつも手を付けたいものはあったのだが、睡眠欲にはなかなか逆らい辛い。
瞼が重くなるのを感じ、アインはとぼとぼと自分の部屋へと向かって足を運ぶ。
「まず、着替えなきゃ……」
そういってバッグから、軽い服装を取り出した。
さすがにまだ寝巻は早いため、そこそこ寝やすそうな服を選んでみる。
ササッとそれに着替え、ベッドにもぐりこむアイン。
一応帰ってから軽くシャワーは浴びてるため、ベッドが汚れる心配はない。
こうしてベッドでゆっくりと休める……予定だった。
「ん……んっ!?え、ここ……あれ!?」
枕に飛び込んだアイン。
そんなアインに飛び込んできたのは、外の部屋で書類作業をしている美少女……いわゆるクローネだが、彼女の香りだ。
近くに彼女がいるときの香りが、ダイレクトにアインの鼻孔へと入り込む。
こんな近くで、彼女の香りだらけになる状況なんて初めてだ。
そして意味が分からない。一瞬クローネの部屋かと疑問に思ったが、確かに自分の部屋だ。
なにせ自分のバッグが置かれており、部屋の大きさから言っても間違いない。
だから何故。クローネの香りがこんなにするのか理解できなかった。
嗅ぎ続けるのはなんか"ヤバい"。本能でそう理解したアインは、勢いよく立ち上がり、リビングルームへととんぼ返りする。
「クローネ!ちょ、ちょっと……事件かもしれない!」
「……アイン。落ち着いて話してくれないかしら」
テーブルの上に置いた書類。それを確認しながらなにやら書き込んでいたクローネ。
彼女がペンを置き、アインの方へと顔を向ける。落ち着きのない主に向かって、どうしたの?と呆れながらも優し気な顔を向けた。
「な、なんでか知らないんだけど……ベッドからクローネの匂いがするんだけどっ!?」
一見バカみたいなことを言ってる。
だがあまりの事態に、尋ねないという選択肢は浮かばない。
ポカンとした顔のクローネを見て、アインは『やってしまったか?』と若干不安になった。
「……ふふ。ねぇアイン、そんなに私と一緒に寝たかったの?」
やっぱりだ!やっちまったよ!
こんな事をいえば、彼女がからかってくるのは分かり切ってたはず。
それなのに、この良く分からない事件を口にせずにはいられなかった。
「や、えっと。その……違うんだよ?なんかベッドからさ」
「えぇわかってるわ。でもそんなに私と一緒に寝たかったのなら、素直に言えばよかったのに。なにせ私は貴方のクローネだものね?——さぁ行きましょうか。寝るまで抱っこしてあげるから、いい子にしてくれる?」
藪蛇だったか。だが気持ちだけは理解してほしい、それだけ強く香ってたんだ。そう言い訳をしたくもなった。
「……お邪魔しましたっ!」
ピュンと音が出そうな勢いで、自室へと戻っていくアイン。
当然顔は真っ赤に染め上げ、それがクローネに見られない様にと勢いよく走り去った。
「——……私の香りがするのなんて当然じゃない。だって、枕とか全部入れ替えたんだもの」
アインが帰ると、アインの部屋で寝られない。最近の安定剤と化していたアインの香り、それがないのはちょっとした一大事。
その結果、クローネが考えついたのは単純な事だった。
この部屋の寝具は、模様や素材が同一のものを使用している。
そのため、取り換えてしまっても表面上はわからない。それを利用して、寝具を取り換えるという荒業に出ていた。
「ふんふふーん……♪」
アインの可愛らしい姿を見て、上機嫌のクローネ。
その日の書類仕事は、いつもより格段に捗った。
——そして今夜も、自分専用の"安定剤"に包まれ、ぐっすりと休むことができたのだった。
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