見えてきた新興都市。
また別の休みの日に、アインが設けた連休中に。
『来週はずっと休みにしてあるから、俺が出発する前に一緒にゆっくりしよっか』
エルデリアへ向かう前の準備期間を利用しての連休である。
王都にお忍びをしてから、城内でゆっくりすることもあれば外に出ることもあった。
明日にはアインが王都を発つ前日……最後の休みに選ばれたのは、王都を出てすぐの森だった。
昔、アインがはじめて魔物と戦った森にも近く、しかしこちらは魔物が現れない安全なところだ。
仮に魔物が現れたところでアインの敵かどうかという話になるし、魔物がアインの気配から逃げるだろうからどちらも安全といえば安全なのだが、こちらの森のほうが景色が綺麗で、せっかくの休日を過ごすなら向いているだろうと考えて選ばれた。
馬車で近くまで来てから降りたアインとクローネの二人が、森の中を歩いた。
木々はほぼすべて秋の装いで、色を変えた葉がはらりと静かに舞い降りていた。
この森は王都からやってくる人も多く、自然公園としても整備されていた。
歩きやすい道。道の脇に備え付けられた木製の柵。森の外はすぐ街道へ通じているし、定期的に民間の馬車もやってきては人を下ろしていく。
今日も秋の森を見に来た王都の民が何人かいて、アインとクローネの二人に気が付いた。
壮年の民も、子連れの家族も驚いていたが、誰もが二人が休日を静かに過ごそうとしているのを察し、軽く頭を下げるなどの簡易的な儀礼に留め声をかけることは避けていた。
秋の自然を堪能していた二人。
アインを腕を組んでいたクローネが「見て」といいある方角を示した。
彼に顔を寄せ、声を弾ませながら、
「釣りかな?」
森を進んだ先にあった湖で釣りをしている者たちがいた。
湖畔には竿を貸し出している店があった。エサなどを含む一式を借りる人が何人もいて、湖畔や桟橋から水の中に糸を垂らしている。
その中に、彼がいた。
シュゼイドでは漁師と食堂の店主を兼任していた海の男ラジードだ。彼が娘のミウと一緒に釣りを楽しんでいた。
アインとクローネの二人がラジードに気が付き、彼の近くへ。
挨拶でもと思い、ついでに釣果でも聞いてみようと思った。
「こんにちは、どうですか?」
と、ラジードの背後から話しかけた。
するとラジードは振り向く前に、
「ははっ、ぼちぼちってところだな」
アインだと気が付くことなくさらっと言う。
けれどすぐに「ん?」といまの声に覚えがあったから振り向こうとした。
彼より早く振り向いていたミウがアインとクローネを見上げ、ぺこりと可愛らしくお辞儀をした。
「王太子殿下様、妃殿下様、こんにちは」
「こんにちは。ミウ」
「ええ。こんにちは」
殿下、などの言葉の後に様とつづけるのはミウの口癖だった。
彼女なりの敬意の表れなのだが、その呼び方が正しいか正しくないかについてはラジードの教育方針に任せるほかない。ラジードが密かに呼び方を訂正させようと教えているも、癖はやはり簡単に直らないようだ。
アインとクローネは特に思うことなく、ミウの可愛らしさに微笑んでいた。
「で、殿下!」
慌てて頭を下げようとしたラジードをアインが止めた。
「今日はミウちゃんのために?」
「あ、ああ――――前から来てみたいって言ってたもんで、今日は店を休みにして来てたんだ」
男性二人が話す横で、クローネは桟橋に腰を下ろし竿を構えていたミウの前でしゃがんだ。
まだ幼いミウと目線を合わせると、穏やかな笑みを浮かべた。
「お魚は釣れた?」
「はい。バケツに入ってる子たちです。帰ったらお父さんが料理してくれるって言ってました」
「ふふっ、それはよかったわね」
「妃殿下様も釣りをしにきたのですか?」
「ううん。私はアインと――――こほん。ミウちゃんごめんね、私はまだ妃殿下じゃないの」
「そ、そうなのですか?」
様とつけることは否定しなくてもいいと思ったが、まだ違う役職で呼んでいることくらいなら指摘してもいいと思って。
クローネは驚くミウに微笑みを浮かべたまま、
「私はまだ名前で呼ばれることのほうが多いのよ」
「オーガスト様ですね」
ミウが再びぺこりと頭を下げた。
「家名だと呼びづらいでしょうから、クローネでいいのよ。ミウちゃんだけ特別にね」
「……いいのですか?」
名前で呼ぶことを許されたミウが判断に迷い、父を見上げた。
それまでアインと話していたラジードが腕組みをして迷った挙句、彼は答えに迷ってアインのことを見てしまう。たらい回しにされた答えは、アインの口から。
「大丈夫だよ」
「はいなのです。では、クローネ様ってお呼びします」
「ええ。ありがとう」
クローネに頭を撫でられたミウがくすぐったそうに笑う。
湖の奥で、大きな水しぶきが上がった。
「むっ」
ミウがその水しぶきを見て気合の入った顔を浮かべる。
「どうかしたの?」
「……噂の主です。お父さんに料理してほしくて釣りに来たんですが、釣れないんです」
「主……ラジードさん、さっきの水しぶきが?」
「ああ。かなりでかい魚だって噂だ。ありがたいことに、ミウは俺の料理を気に入ってくれててな。俺が主をどう料理するか気になってるらしい」
けれど……。
ラジードがアインに顔を寄せ声を潜ませる。
「ありゃ、厳しい」
「やっぱり、難しいんですか?」
「だろうさ……あんなでっかい水しぶきをあげるような魚なんだ。こんな湖畔にまではやってこないし、桟橋を進んだところで食いつくかどうかわからねぇ。運がよくなきゃな」
釣り竿と糸の耐久はどうとでもなるようなのだが、そもそもひっかかるかわからない。
とはいえ、ひっかかることはあるらしい。いずれも竿ごと持っていかれて湖に落ちてしまうなど切ない結末になってしまうそうだが。
クローネは頑張るミウを見てから、アインを見上げる。
仕方なさそうに苦笑していたクローネの口から、
「お手伝いしない?」
二人はまず、竿を借りに行かなくちゃと話をした。
竿を借りて戻ると、ミウとラジードが竿を一本手にしたアインを見て驚いた。
本当に主を釣るつもりなのか気になったのだが、アインとクローネが本気だといったのを聞いて再び驚かされた。
桟橋の先、湖の沖へ向かって歩いていく。ミウがとととっ、と軽い足取りで二人の傍を歩いて、ラジードが少し後ろにつづいた。
「王太子殿下様! 主が連れたら私にも見せてください!」
「いや、見せるどころか、ラジードさんのお店に持って帰っていいよ」
「っ!? だ、ダメです! 海での横取りは断罪だってお父さんが言ってました!」
「――――そうなんですか? ラジードさん」
「そりゃな。大物を横取りするような奴は仲間じゃねぇ。って言っても、こういうのは町によって違うから、あくまでもシュゼイドではって思っておいてほしい」
「あー、なるほど」
しかしアインは気にしていないし、彼とクローネは最初からミウのために動いている。
せっかくの休みの最後に釣りの手伝い、という気持ちにはならない。むしろ二人にとってはこれも充実した時間で、釣りを終えてからも帰る前に森を楽しんでいこうと考えていた。
夜になると、この森の表情が変わるらしいから。
「ねぇ、アインって釣りをしたことってあったかしら」
「ないけど、傍に最高の先生がいるから大丈夫かなって」
「ふふっ、そういえば」
ですよね? とアインがラジードを見た。
「次期国王とお妃様に釣りを教えたなんて、明日にでもシュゼイドに帰って港で自慢しなくちゃならねーな」
「いやいやいや、そんな大層なものじゃないですよ」
桟橋の先に到着して、アインはラジードに聞いた通りに竿を下した。
海での釣り違いできることは少なく、難しいものではなかった。
「川には川なりの、池には池なりの難しさはあるが、ここでできることは少ない。用意された竿でできる限りのことをするだけさ」
竿を下ろして数十分、たまに小さなあたりがあって何度か魚を釣り上げたが、目的の主がひっかかる気配はまだなかった。
けれど、竿を下ろして二時間もしないうちのことだ。
水の波紋が大きく、これまで以上に広がっていた。
アインが「来たかも」と平然とした声で。
ミウとラジードは少し前まで桟橋に腰を下ろしていたのだが、二人は同時に立ち上がり、大きな水の波紋を目で追った。
竿が、唐突に勢いよくしなった。
アインは眉一つ動かすことなく平然としながら、
……運がいいな。
すぐさま苦笑しながら考えた声に出さない独り言。
急な動きにミウとラジードは、アインが引きずり込まれないかと不安そうにしていたけれど……彼ら二人は忘れていた。
シュゼイドの町で、大物を一人難なく背負っていた王太子の姿がいま蘇る。
たかが魚一匹相手に、たとえ主であろうと彼が後れを取るはずがない。
(このまま――――!)
最後の瞬間も、突然に。
アインが強く引いた竿の先……。
水面が大きく隆起してすぐ、大きな水しぶきとともに巨大な魚が姿を見せた。水しぶきはクローネたちにかかることなく、アインが生み出したツタなどに遮られた。
◇ ◇ ◇ ◇
釣り上げた魚は大人十人分ほどもありそうなほど大きく、まさに主の威容。
ラジードが言うには美食通もうなるほどの魚で、あまり流通しないものなのだとか。桟橋に上げるにはあまりにも大きすぎたから、彼の手を借りてどうにか持ち運べるよう工夫した。
ラジードとミウは驚き、喜んだ。
捌いたら城に送ると言っていたが、どうせなら彼の店でいただくと決めた。
二人は是非にと言い、アインたちより先にこの森を後にした。
夕方と夜の間、アインとクローネはまだ森の中にいた。
あれからベンチに座ってゆっくり自然を楽しみながら過ごし、暗くなってからの景色を見てから帰ろうと思って。
まだ夕方を少し過ぎたくらいの時間だったけれど、森はもう表情を変えていた。
秋は日の入りが早いこともあるだろう。
魔道具による明かりと、木々の葉が自ら発光する幻想的な光景。
アインとクローネは腕を組みながらゆっくり歩いて、休みの最後を名残惜しむかのように一歩ずつ、静かに歩いていた。
クローネが身に着けた桜色のスタークリスタルが、ころんと揺れた。
美しい夜景を前に……彼女はアインの腕に顔を預けるように甘え、
「また、一緒に来てくれる?」
答えがわかりきっている問いかけを、いたずらっ子のように投げかける。
「断るはずないじゃん、その質問」
「ふふっ、そう?」
クローネは楽しそうに下をぺろっと出してみせた。
――――森を出て、馬車に乗っての帰路。
しばらく馬車に揺られながら、近づく王都の夜景を外側から見た。
門をくぐって王都の中に帰ってくると、休日の終わりが近づいているのを見せつけられた気がするのと同時に、二人が愛する王都の景色に心温まる思いだった。
ラジードの店で夕食を楽しんで城へ帰って、湯を浴びて寝る前にすることをすべて終わらせる。
寝室に到着して、寝る前に少し話してからようやくベッドに入った。
アインの隣でベッドに入ったクローネが、嬉しそうに微笑みを浮かべて。
「充電してもいい?」
「よくわからないけどいいよ」
「ふふっ、ありがと」
そのままアインに抱き着き、彼の胸板に顔を擦り付けた。
「……なるほど、充電ってこういうことか」
ひとしきりそうしてから満足――――はせず、このくらいでと我慢したクローネが顔を上げた。
とろん、と瞼が重そうだった。
アインが腕を伸ばして頭を撫でてあげれば、そのまま目を閉じてしまう。
翌朝、先に目を覚ましたのはアインだ。
まだ日が昇って間もない早い時間だったのだが、彼は二度寝することなく身体を起こす。
ベッドが揺れたのを感じ取ったクローネも瞼を開けて、アインと軽い口づけを交わして身体を起こした。
「まだ寝ててよかったのに」
「もう。アインが出発するのに、寝てるはずないじゃない」
「クローネはそういうと思ってたけど、俺はそれでも寝ててほしいなって言ったんだよ」
「あら、それだと、仕事で遠出する好きな人のことを見送れなくなっちゃうわ」
クローネはいつものように微笑んでベッドから立ち上がり、アインの身支度を手伝った。
着替え終えると、彼女はアインがいいといっても見送りたくて部屋を出て、そのままの足で城の外へともに向かう。
城を出て飛行船乗り場へ向かう手前、アインを見送るクローネは、
「気を付けて行ってきてね。無茶を言って、クリスさんたちを困らせたらダメなんだから」
「わかってる」
秋の早朝、二人の吐息は白かった。
アインはクローネに対しても、
「クローネこそ、無理して仕事をしようとしないこと」
「……わかってるってば」
二人は似たもの同士だということだろう。
◇ ◇ ◇ ◇
早朝に王都を発ち、夕方にはエルデリアに到着する予定だった。
飛行船のブリッジの椅子に座り、不正に関連した書類に目を通していたアイン。
昼のことだった。
「アイン様、少し休憩しませんか?」
クリスにそう声を掛けられ、アインは傍のテーブルに書類を置く。
背筋が強張っていたのに気が付いた彼がうんと背を伸ばし、一度欠伸。
テーブルにクリスが置いたティーカップを見て、
「ありがと」
涼しげに微笑みかけ、温かな茶で喉を濡らす。
いい香りに、疲れが取れるような気持ちにさせられた。
「里のお茶です。この前、シエラが城に送ってくれて」
「あれ? シエラってロランの研究所にいたはずじゃ」
「そうなんですけど、シエラのご実家から送られてきたみたいです。それで、私とアイン様にも是非ってことだったようで……」
「そういうことか。すごく美味しいよ」
アインは後でお礼をしなければと考えながら、ブリッジ前方に広がる大きな窓の外を見た。
この辺りの空は吹雪きであまり見通しがよくない。窓の断熱性が高く内側は凍っていなかったが、飛行船の外側は各所で凍り付いているだろう。
「この様子だと、エルデリアはもっと雪が降っていそうですね」
「うん。バルトとか旧王都ほどじゃないだろうけど、あの二人が生まれた村は山の中にあるっていうし、大変だと思う」
セイレーンのソフィーと、ラミアのシャリア。
青と赤という相反した色が目立つ二人の故郷は仕事が減り貧乏で、彼女たちを王都に向かわせるためにも無理をした。
明らかな不正からウォーレンもこの飛行船に搭乗しているわけだが、
「……お金と不正って、いつの時代もなくならないよね」
「ですね……どう頑張っても、欲に負ける人は出てきちゃいますから」
「その分、罰は受けてもらうけどさ」
「はい。――――ところでアイン様、ウォーレン様も同行している件は内緒だってご存じでしたか?」
「へ? そうなの?」
そうなんですよ、とクリスが笑う。
アインが来ることは急ではあるが伝えられていた。
彼がやってくることだけでも不正に関わっている者たちは気が気じゃないだろうが、さらにウォーレンが来ると聞けばもはや「バレているのではないか?」と考えられる可能性もある。ウォーレンが行くことを伏せている理由でもあった。
飛行船の高度が下がりはじめたのは、三時間後。
先がまったく見通せないほど吹雪いていた高度を抜け、徐々に陸地の景色が見えてきた。
それでもまだまだ真っ白な世界が広がっていたのだが、アインの目にエルデリアとその周辺の地形が映し出される。
都市がそのまま一つ入りそうなくらい巨大な大穴は、戦艦を縦にしてもまだ底につかないくらい深い。
穴の内部に設けられた施設群は、穴の底まで段々に重なるように作られていた。穴を囲むようにできた町は外側に向かうにつれて古臭く、さびれた印象の建物が多い。内側に向かうと真新しく大きな建物が増え、エルデリアの発展によりできた町の様子をアインに見せつけた。
過去には鉱山都市としても名を馳せたエルデリアは近年、急激な発展を遂げている。普通じゃない発展速度により、雰囲気の違う町が連なるように広がっているのだろう。
そして、大穴の中央にそびえ立つ巨大な塔だ。
魔道具の制御に用いられる新技術と、その技術に用いられる素材が作り出される場所にして、エルデリアが急激な発展をつづけてきた理由の中心地である。
アインたちを乗せた飛行船は、その塔に作られた停泊所へ向かっていた。
「そろそろ到着ですね」
と言ったクリスがつづけて、
「あれがエルデリア……思っていたよりずっと発展してます」
「俺も同じことを考えてた。すごいね。地形もだけど都市全体の光景も、こんなのはじめてみるよ」
穴の下までつづく研究所や工房と、それらを囲む町の様子。
職人の町から、職人と研究者の町へ。一日、一日を経て発展をつづける新興都市へアインが降り立つまで、あと少し。
ソフィーとシャリアの村を管轄する町も近くにあるというが……。
(一歩ずつ、でも迅速に)
不正を調べることもそうだが、他にもしなければならないことは数多くある。
アインは席を立ち、クリスを連れて降りる支度に向かった。
間が空きがちで申し訳ありません……。
今日もアクセスいただきありがとうございました。




