33話【ヨハンシュ】あなたにとって俺は3
最初は兄から「溺愛せよ」「惚れさせろ」と発破をかけられていた。
かかわるうちにどんどん惹かれていって。
それなのに、彼女の心にはレオという男がいると気づいてからは、どんどん自信がなくなっていった。
レオならきっとこんなことはしないだろう。レオならきっと彼女はもっと笑っているだろう。レオなら……。
そんなことばかり考えていたのに。
彼女はちゃんと、ヨハンシュのことを夫としてみてくれていた。
「私こそ、あなたに妻と認めてもらえるようにがんばります!」
いきなり宣言をするから、ヨハンシュは腕を緩める。
「え。王女はずっと俺にとって妻ですが」
「そうですか? え。でもなんか……。私的にはまだ実感が。それに……父がなにを言い出すかわかりませんし」
「たとえ陛下が離婚と言い出しても、俺が認めませんから」
ヨハンシュが断言する。
なんだ、まだそんなことを心配していたのか、と彼女に顔を近づける。
フォーゼはゆっくりと顔を起こし、青空のような瞳を自分に向けた。
「あなたはずっと俺の妻としてここにいるんです。もう決まったんです。誰もそれを覆せませんから」
「ですが」
「決まったんです。もうそうなんです。不甲斐ない夫ですが。だからその、あなたを幸せにしたいんです。そう決めたんです、俺が」
もっとスムーズに、スマートに。格好よく告げたいのに。
なんだか言葉はつぎはぎで、不格好だ。
情けない。
そう思うのに。
言葉を届けるたびに、彼女の頬は夕日のように赤く染まった。
「俺はあなたの夫で。あなたは俺の妻で。それでいいですね?」
フォーゼは力強く頷いてくれた。
「もちろんです。もちろん……それで」
言った途端、ぽろりと涙がこぼれる。
そのあとは決壊したように、ぽろぽろと立て続けに涙があふれるからぎょっとする。
「す、すみません」
フォーゼが慌てて顔を手で覆う。ヨハンシュはそんな彼女を抱きしめた。
「とんでもない。できるだけ泣かせないようにと思うのに……。なんだかいつも泣かせてばっかりですね」
「これはうれし泣きなので」
「だとしても、やっぱり笑ってくれる方がいいです」
「がんばります」
「そしてあなたはがんばりすぎです」
きっぱりと言うとフォーゼは笑う。ヨハンシュもつられたように笑った。
「こうやって、話せてよかった」
ヨハンシュは相変わらず床に両膝をついた状態で。
椅子に座っているフォーゼを見上げて、目元を緩める。
「このところ、ずっと悩んでいたんです。あなたにとって俺ってなんなんだろうって」
「そうなんですか⁉ それなのに私ったら、ひとりだけなんか幸せにひたってて……!」
フォーゼがうろたえるから、彼女の手をそっと握って首を横に振る。
「幸せならよかったし、夫と思ってもらえているのならよかった」
「もちろんです!」
「あの」
「はい」
「だったら、ですね」
「はい」
「夫と、妻とでしかできないことを……望んだりしてもいいでしょうか」
ヨハンシュはできるだけさりげなく。そしてできるだけオブラートに包んで提案してみた。
「夫と、妻とでしかできないこと」
きょとんと目をまたたかせ、それから思考を巡らせるようにしばらくフォーゼは黙考した。
そして、にっこり笑う。
「はい」
その様子を見て、ヨハンシュは「これはいかん」と焦った。
オブラートに包みすぎてちょっとよくわからなくなってしまっている。
真に受けてことに及ぶと「こんなことをするとは思わなかった! このケダモノ!」なんてことになってしまう可能性すらある。
「王女」
「はい」
「意味が……わかっていますか?」
「はい? はい。たぶん」
「たぶん」
やっぱりわかってないよな、と思う一方で、そんなことあるかい、夫婦がやることっていえばひとつだろうよ、と思う気持ちもある。
「夫婦でいろんな会合に出席する、ということでしょうか? 私はいままで王城にいたのであまりそういった場に出ることはありませんでしたが……。侯爵ご夫婦を拝見したところ、そういった場にはふたりで……。あれ、ヨハンシュ卿?」
「………いえ。あの。はい、そういった場でも夫婦として堂々と登場いたしましょう」
「そう、ですよね?」
「あと、ですね」
ヨハンシュはフォーゼを握る手に力を込める。
頭の端っこでは、老執事が「ここで引き下がってはなりません、ぼっちゃん!」と叫んでいた。
ヨハンシュとて同じ気持ちだ。
『そうですね。それです、それ』とここで流してしまっては、このままの状態がまた数か月流れそうだ。進展なく。
「夫婦として心が通い合ったことはわかったのですが……。その、心だけではなく、ですね」
「心だけではなく」
どうして彼女はいつもおうむ返しなんだろうとヨハンシュは思うのだが。
そういえば、互いに言語が違う相手と話すとき、意味がわからない言葉が出てくると、ヨハンシュだって「ん? ○○?」と繰り返すな、と気づく。
ようするに意味がわからんのだ。
「身も心も夫婦になりたいのですが」
はっきり言うことにした。
「………は、い。な、る……ほど」
見る間に。
朱色のしずくを落とした紙のように、フォーゼの頬が赤く染まっていく。
「す、すみません! 私ったら! いえあの、決してそのようなことを忘れていたわけではなく! ついうっかり!」
なにがついうっかりなんだろう、とヨハンシュは気になるが、そこは深く追求しないことにした。
「あの、はい、ええ、もちろん! その……、夫婦なんですから!」
頭から湯気を出さんばかりの様子に、ヨハンシュは「……やっぱりことに及んだら次の日熱を出すんじゃ……」とハラハラした。
「もちろん、私も、はい、同意を……その、ええ。問題なく」
切れ切れになりながらも、フォーゼはこっくりとうなずいた。
「か、かまいません。私も……その。ヨハンシュ卿と。夫婦に、なりたいです」
ヨハンシュがひざまずいているから。
フォーゼはまつげを伏せるようにして彼を見ていて。
その目のまわりは上気したように赤くなって。
瞳は潤んでいて。
それが妙に色っぽくて。
だからすぐにでもベッドに押し倒したいのだけど。
ヨハンシュが握る手はかすかにふるえている。
「その……無理強いは……」
ついそんなことを言ってしまう。きっと老執事がここにいたなら、「ぼっちゃん!」と後頭部を叩いたことだろう。
だけど。
ヨハンシュとてこういったことは記憶に残ることにしたい。
あとでふたり思い返した時、とても幸せで良い気持ちになる思い出にしたい。
特にフォーゼの場合、軍務大臣三男の件がある。
『そんな記憶、俺が塗り替えてやるぜ!』という自信もテクニックもヨハンシュにはない。
「無理はしてません!」
途端にフォーゼがぷるぷると首を横に振る。
「ただその……。こんな痩せっぽちですし。ヨハンシュ卿にご満足いただけるのかどうか……。まったく自信がなくって」
「そんな心配は無用です!」
というより、さっき覗き見てしまった寝間着の向こうを思い出し、また下半身が大変なことになりそうなのだが。
「なら、あの……」
フォーゼが恥ずかしそうにうつむく。
さっき彼女が首を振ったからだろうか。甘くとろりとした香りがやけにヨハンシュを煽る。
「私も、ヨハンシュ卿の……名実ともに夫婦になりたいです」
話しは決まった! ヨハンシュが立ち上がろうとした時。
「あのでも」
「はい……っ⁉」
続きがあったらしい。
ぐ、とヨハンシュは一時停止をした。
「そ……その。『やっぱり今日はここまでで……』って言ったら、やめていただけますか?」
なにそれ⁉
ヨハンシュは心の中で絶叫した。
どゆことよ、そんなことあるのか⁉ なんでやめ……やめるってどういうこと⁉ ちょっと思ってたんと違うとかそんなの⁉
「は、恥ずかしくて……。その、途中で消えてしまいたくなりそうで……」
完全にうつむく彼女。
表情はわからないが、長くおろした髪からのぞく耳や首は真っ赤だ。
「も、もちろんです……っ」
ヨハンシュはとりあえず、そういうことにした。
実際途中で我慢できるかどうかはいまのところよくわからないが、そのときはそのときだ。理性を総員出動させて下半身をとめるまで。
「じゃあ、あの……。はい」
小さな声でフォーゼが言う。
話しは決まった!!!
ヨハンシュは勢いよく立ち上がり、フォーゼを横抱きにして持ち上げる。
「ひゃあ!」
フォーゼが小さな声を上げて首に腕を回す。
その吐息が肌にふれただけで刺激になる。
そのままヨハンシュはベッドに進み、彼女をそっと横たえた。
真上から見下ろす。
金色の髪はシーツに広がり、ぱっちりとした瞳はいまは小鹿のようにきょどきょどしている。
薄くて光沢のある絹地は、彼女の細身の身体にぴたりとはりつき、椅子に座っているときよりもめりはりをはっきりさせた。
「ヨハンシュ卿」
そっと彼女が手を伸ばし、ヨハンシュの頬に触れた。
はらりと布がほどけ、その先の胸が少しだけ露わになった。
ヨハンシュはフォーゼに引き寄せられ、唇と唇がふれあう。
その一瞬。
窓の向こうからけたたましい鐘の音が響いてきた。
思わずフリーズした。
ヨハンシュは紙一重のところで止まったまま、空気ごと振動させているんじゃないかと思うほどの鐘の音に、思考を停止させられた。
「あ……あの、この音」
若干、俺だけが聞こえている幻聴かもしれん、無視しようと思ったのに、どうやらフォーゼにも聞こえているらしい。
「緊急の……なにか、でしょうか」
ヨハンシュは頭を切り替えた。
本来優秀な男だ。
仕事用のスイッチを入れると、鐘は教会のものではなく、軍事用のものだと気づく。
フォーゼが身体を起こし、なにか言おうとするから、人差し指を立てて「し」と告げる。
鐘は一定のリズムを繰り返している。
ヨハンシュはベッドから降りた。
「越境のおそれがあるようです。すぐに兄上のところに行ってきます」
「あ、あの……私も……」
「王女はここにいてください」
自分に続いてベッドから降りようとするから、ヨハンシュは押しとどめた。
不安そうに見上げる彼女ににこりと微笑みかけ、両手で頬を包んでやる。
「状況次第では、ひょっとしたら国境まで騎士団を率いて進むかもしれません。ですがご安心を。必ず討伐し、そして」
ちょっと肩をすくめ、冗談交じりに言う。
「すぐにベッドに戻ってきますから」
フォーゼはまたすぐに顔を真っ赤にしたが、真面目な顔で頷いた。
「待ってます。だからどうぞご無事で」




