32話【ヨハンシュ】あなたにとって俺は2
「どうぞ」
そしてフォーゼの向かいに座る。
室内照明の橙色の光の下、白の陶磁器は、とても暖かそうな色に染まっていた。せめて彼女の身体が少しでもあったかくなりますように。ヨハンシュはそんな風に祈った。
「あ。そうだ」
ふとフォーゼが声を上げた。
「なんです?」
「今度、リリィ様と一緒に穀物倉庫を見に行く予定なんです。といっても、まだ未定ですが」
「そうなんですか? え、義姉にまだ連絡が行ってないのかな」
ヨハンシュは眉根を寄せる。
どこの穀物庫を見に行くつもりかわからないが、国境近くはあぶない。
「え……っと。なにか?」
「今日、国境警備のほうから連絡があって。どうやら大牙の灰色狼たちの動きが活発になっているらしいんです。なので、穀物庫の警備を万全にすることと、刈り取りがまだな農作物については急がせているところで……」
「大牙の灰色狼というと……。凱旋式の件ですよね? 討伐したのでは?」
凱旋式などと大掛かりなことが開催されたので、フォーゼはそう思ったようだが……。
そもそも巨大な犯罪組織だ。徹底根絶させるためには王都の助けもいる。
なによりアマルス王国が本気になってもらわなければどうにもならない。
追い詰めようとしたらすぐに本国に戻ってしまうのだ。
それを追ってこちらが越境すれば外交問題だ。
「一大組織ですから。撤退はさせましたが、全滅までには追い込めていません。定期的に収穫時期にはやってきて穀物庫を襲うんです」
リリィが、「もともとは飢餓難民だった」と言っていたが、いまでもアマルス王国は飢饉を引きずっている。彼らが越境してくる気持ちもわかる。まさに生きるか死ぬかの集団だからだ。
「いままでは、見せ餌的に穀物庫を襲わせて……。それで痛み分けというか。こっちも追い返して、それで終わっていたのですが」
ヨハンシュは苦々しげに言い、ぞんざいにカップのお茶を飲んだ。
しかもその奪った穀物を義賊気取りでアマルス王国内でふるまっているのだからたちが悪い。
「最近は堂々と村々を襲い、穀物庫を空にしていったり。前回は村を襲って火をつけたり家畜に手をだしたので、王都に増援を頼んで正式に討伐に向かったのです」
王都は増援を出さなかった。
その後味の悪さを消すように、あんな大々的な凱旋式をしたに違いない。
「外交筋を通して正式に訴えても、『あれはうちでも手を焼いている。それに非合法の団体だから』の一点張りで。アマルス王国にも困ったものだ」
リリィのこともあるから、あまりアマルス王国の悪口は言いたくない。このあたりでおさめておこう。
「なので、穀物庫には近づかないように。義姉上にも俺のほうから言っておきます」
「わかり……ました」
こくりとうなずき、カップを口に近づける。そっとお茶を飲む姿を見て、心が鈍く痛む。
(できたら行動の制限なんてつけたくないんだが……)
ここは最前線だ。
国境を守り、国土を守る。
そのためになにかあれば、領地全体で盾となって王国を守らねばならない。
(守ってやりたい、あなたの重荷を背負いたい、なんて)
どの口が言うのか。
そう思うのであれば、彼女を王都に戻すか。
それともほかの男に譲ることが一番いいのではないのか。
ヨハンシュはカップをソーサーに戻す。
思いのほか、かちり、と大きな音が鳴ってしまった。
「どうされましたか?」
フォーゼに声をかけられた。
心配げに青い瞳が曇っているから慌てた。
「いや、あの……」
「なんです?」
前のめりになって彼女が尋ねる。
「いつも私を案じてくださっているのです。たまには私が案じさせてください」
「いや、その……」
フォーゼの顔を見て。
「情けなくて」
つい、本音が漏れた。
「情けない?」
心配されるなんて。
守ってやるどころか、心配されるなんて。
「王都から……王城から出て、ようやくのんびりできると思ったのに。なんかずっと仕事に忙殺されている上に、領はいまから危険な時期で……。その、本当ならもっとその……。ゆったりと、心静かに暮らしていただきたいのに」
「そんな」
フォーゼは急いで首を横に振った。
「私はこの暮らし、大好きです」
「ですがきっと、俺じゃなかったら」
俺以外の誰かだったら。
「俺じゃない?」
「俺が夫じゃなかったら。きっともっとうまくやれていたんじゃないか、って。その」
「その?」
俺以外の誰か。
そう。
彼女の心にずっと住んでいる少年。
あの少年ならきっと。
彼女を幸せにできるんじゃないか?
安全なところで。安心して。
「レオ殿……とか」
「レオ?」
「もし彼が生きて。そして王女と結婚していたら……」
違う未来があったのだろう。
「レオと結婚?」
どうして彼女は俺の言葉を繰り返してばかりなんだろう。
戸惑うとともに、自嘲気味な笑みが浮かんだ。
「好き、なのでしょう? 彼が」
「好き」
心臓にぐっさりとナイフを刺されたような痛みを感じる。
息をするのも忘れた。
しばらくして「でしょうね」と声が漏れる。
か細く。非常に頼りない声は、彼女の耳にも届かない。
「彼と暮らしていたら、王都暮らしだろうし。兄から聞きましたが、かなりやり手の伯爵家だったそうですし。苦労などせず、安心して……。その」
情けない。
こんなところでも最後まで言えなかった。
あなたはきっと幸せになったことでしょう、と。
語尾は最後まで言えずに途絶える。
「なんだか想像ができませんね」
軽やかな。
風に揺れながら舞う綿毛のような声。
顔を起こす。
フォーゼが小首をかしげていた。
「レオはいまでも大好きですし、私にとっては兄のような存在です」
「……兄?」
え、と。
まばたきをする間に。
フォーゼは過去を懐かしむように目を細めた。
「はい。私はほら、長女ですから。弟妹はいますが、頼れる年上の人物がいなくて」
彼女はカップを両手に包み、その熱を楽しみながらヨハンシュに微笑む。
「だからレオは、私にとって兄のような存在でした。もちろん信頼していましたし、ピアノの腕は素晴らしく、私も教わったりしていましたが……。結構抜けているところも多くて」
ふふ、と笑う。
「一度こっそり練兵場に様子を見に行きましたが、剣技はぜんぜんダメでしたね。あれは私がやったほうが強くなりそうです」
懐かしむ声。
声は聞こえているが、内容をほとんど理解できない。
兄。
レオは兄のような存在。
それが繰り返し頭をめぐる。
「レオが成長して……私の前にいたとしても。夫……とは違う気がします。戦友とか。気の置けない友人とか。そんな感じで。夫というなら」
ようやく、スムーズに呼吸ができはじめて。
なんとか心臓がいつものリズムを取り戻して。
身体に血が巡り始めたと同時に。
フォーゼがはにかみながら笑った。
「私にとっての夫は、やはりヨハンシュ卿です。優しくて、頼りがいがあって、強くて。私をいつも見守ってくださって……。だからこそ、あなたにふさわしい妻になりたくて」
そのあと、急にフォーゼは顔を熱くしてうつむいた。
「す、すみません。口ばっかりで、私。あの、全然まだなんのお役にも立てず……。なにかあったら熱ばっかり出してるのに」
そんなことはないです。
言ったつもりなのに。
言葉より先に身体が動いた。
がたっと。
音を立てて椅子から立ち上がり、ヨハンシュはフォーゼの前で両膝をついて彼女を抱きしめた。
「ありがとう」
「え……。ヨハンシュ卿?」
くぐもっているけど。とても不思議そうな声。
それがたまらなく愛しかった。
「夫と認めてくれて、ありがとう」




