31話【ヨハンシュ】あなたにとって俺は1
フォーゼが侯爵領にやってきて、一か月が経過していた。
(……もう……一か月)
ヨハンシュはうなだれる。
本のページを惰性でめくっているが、ほとんど頭の中に入ってきてはいない。
ちらりと視界の隅に入るのは、茶器と菓子。
今日は一日義姉が振り回していたと聞いていたので、疲れがたまったであろうフォーゼのために用意させたのだ。
させたのだが。
『いや、こんなのよりぼっちゃん。精力剤とかのほうがよろしいのでは』
さっき古株の執事に言われた。
『うっせぇ! 俺にはそんなのいらねぇよ!』
強いて言うなら寝る前に茶など飲みたくはない。酒が飲みたい。がんがんに濃い蒸留酒を喉に流し込みたい。フォーゼとベッドを伴にして以来、ずっと断酒状態だ。昨日、騎士団たちが酒盛りをする話を聞いて、涙が垂直に噴き出すかと思ったぐらいうらやましかった。
だが飲むわけにはいかない。
このところフォーゼは悪夢を見ることはなくなったが、まだその片鱗を見せる。パニックになる前に抱きしめると収まることを発見して以来、深酒をしなくなった。
『兄ぼっちゃんも非常に心配なさっているご様子』
そこまで突っ込んできたということは、執事全員の意見でもあるのかもしれない。
それこそヨハンシュのおむつを替えたこともある執事だ。ここはびしーっと伝えてくれ、と総意を得てのことだろう。
『ひょっとしたら奥様もぼっちゃんの一押しを待っているのかもしれませんよ? というか、それ、高価ですからおやめください』
ぐぬぬぬぬぬぬ、とヨハンシュはティーポットの柄を強く握りしめて折るところだった。老執事にたしなめられ、ようやく手を離す。
『だ、だが強引にことに及んで嫌われたらどうするのだ!』
『王女殿下のご様子を拝見するに、ぼっちゃんのことを嫌っているご様子はありませんが』
『じぃは知らんのだ! 王女には心に決めた男がいるんだ!』
『えええええ………? 本当にぃ?』
『なぜに疑う!』
『いやあ……。ぼっちゃんですから』
『どういう意味だ!』
『とにかく。こういうのは年の功。じぃも若い頃はそれはそれは……』
『………ふぅん』
『押しの一手でございます。今夜こそは本当の夫婦におなりませ』
そう言って老執事は去っていったのだ。
(本当の夫婦なぁ……)
本当もなにも。
ヨハンシュとフォーゼは自他ともに認める夫婦だ。
そういった行為をしてもなんの問題もない。
というか、結婚して一か月。
してないほうがおかしかったりする。
(と思うが、それは俺の勘違いか? いや、じぃもそう言ってたしな……)
というか屋敷中がそう思っている気配がある。
(だがなぁ……)
ヨハンシュは頭を抱える。
とにかくフォーゼは身体が弱い。
なにかあればすぐに発熱し、身体は相変わらず細いまま。組み伏したらその場でぽっきりどこかの骨が折れそうな気がする。というか、そういう行為をしたら次の日どころか、ずっと発熱しっぱなしの気もする。
その上。
(レオ問題……)
兄のジゼルシュに、『どうやら過去の婚約者であるレオが忘れられないようだ』と伝えたところ、すぐに情報を集めてくれた。
伯爵家の次男。
ヨハンシュとは同い年だった。
濡れ衣を着せられ、伯爵家と共に滅亡。命を落としたのは修道院で15歳だった。
肖像画も見せてもらったが、少女かとおもうほどの美しい少年だ。
品行方正で、特技はピアノ。非の打ち所のない次男坊。
王城によく出入りしていたらしいが、つつましく礼儀正しく。かつ頭が良かったようだ。王都の図書館に入り浸り、将来は留学したいと周囲に話していたとか。
『………外見といい、お前とはその……。正反対だな』
うっかり、とばかりにジゼルシュが言ってしまい、リリィに「しっ」と叱られていた。
(……あんな美少年と比べられたら、俺などむくつけき野獣ではなかろうか)
たぶん、だが。
フォーゼのなかで、レオは15歳のままで止まっている。
よいイメージだけを残してこの世を去っている。
対して自分はどうだ。
いわゆる「男」だ。成人の。
そんなのが「結婚相手だから」とばかりに夫婦生活をしようとしたら……。
(くそ。軍務大臣の息子の件がなければな……)
それもある。
あいつはあいつで、「将来の結婚相手だから」と強引にことに及ぼうとした。
足枷をして動けなくし、力任せに純潔を奪おうとしたのだ。
フォーゼが必死に抵抗したであろうことは、あの夜のパニック状態で知れる。
(……無理、だよなぁ……)
だいたい、自分が好かれているという実感はない。
というか夫だと認識してくれているのだろうか。
そんなことをつらつらと考えていたら、軽やかなノックの音が聞こえてきた。
「失礼します」
そうして入ってきたフォーゼを見て仰天した。
驚天動地というか、頭の後ろをいきなりひっぱたかれたというか。
なんというか。
とにかく驚いた。
なにしろ彼女が身に着けている寝間着。
それがいつにもまして薄いのだ。
薄い、というより裂けている。いや、露出しているというのだろうか。
生地はたしかにたっぷりしている。
たっぷりと余裕をもたせてあるが。
ところどころ重要なところが深く切り込みが入っていたり見えそうになっている。
(メイド………ぉぉぉぉぉぉぉ)
どうやら執事だけではなく、メイドたちまで『うちの次男ぼっちゃんたらもう!』となっているようだ。
「お疲れさまでした」
ヨハンシュは動揺を隠しながら、本をぱたんと閉じた。できるだけゆっくり。時間稼ぎをしないとガン見しそうだ。
彼女が後ろ手に扉を閉める。
そのとき、空気が動いた。
いつにもまして、甘い香り。髪の香油だろうか。バニラのような。だけど華やかな香りに心臓がばくばく鳴り始める。
「今日は義姉が事務作業を教えたと聞きましたが、大丈夫でしたか?」
気をそらさねば。
とにかくなにか会話を、と思って口にしたが……。
(そうだ! 今日、王女は忙しかったんだ!)
また熱でも出してないだろうな⁉
ヨハンシュはなんといっても仕事のできる男だった。
すぐに業務用脳に切り替え、立ち上がる。
スタスタと近づき、真面目な顔でフォーゼの額に手を当てて熱を確認した。
平熱だ。
そのあと、彼はざっとフォーゼの姿を確認し、異常がないか目を光らせる。
いつも通り。問題なし、うむ。
そう判断した時。
くすり、とフォーゼが笑った。
「なんですか?」
ヨハンシュが尋ねる。フォーゼは首を横に振った。さらさらと彼女の髪が揺れ、金砂のような残像を散らせた。
ふわ、と。甘い香りに鼻先をくすぐられた。
「大事にされてるなぁ、って。うれしくなっただけです」
「そう……ですか?」
どぎまぎして目をそらそうとするのに、フォーゼはヨハンシュをしっかりと見つめた。
「はい」
力強く頷いてくれる。
そう、ですか? 心の中では問い直す。
それでもあなたは怖い夢を見るのでしょう?
あなたの心を少しでも軽くしてあげたいのに。
それなのに、何の力にもなれていない。
「だから私も頑張らなくては!」
ぎゅっと力こぶを作って見せる。
その姿が愛らしい。
しかも。
むき出しの腕を見てしまった。
はじめて出会ったときは、枯れ木のようだった腕。
それがこの一か月でみるみると変わった。
みずみずしい肌には年相応の艶がある。
しかも寝間着のデザインのせいで、そうやって腕を動かすと襟ぐりが深くなり、胸が……。胸元が……。
(っていうか、やっぱり下着つけてないよな⁉ あの下……あの下!!!)
まんま胸が……。胸が見え……。
(いや、見てない! ちょっとしか見てないから、見てないことにする!)
そう言い聞かせる。
「……ちょっとあれですね。そろそろ寒くなるのですから、もう少し厚着をしなくては」
そう言って、ヨハンシュが視線を逸らした。
(これはいかん。ちょっと……座ろう。立っていたらもろもろまずい……)
ヨハンシュも寝間着だ。そんなに身体にぴったりとしたデザインではないが、あきらかにわかってしまう。
「お菓子、いかがですか?」
もう就寝前なのに勧めるのも変か、とどぎまぎしながらも声をかけた。フォーゼに背を向け、必死に深呼吸をする。
「お茶……飲みましょうか」
煩悩を必死に抑え込んでいたら、なんだかしょんぼりした声が聞こえた。
振り返ると、やっぱりしょぼしょぼした様子でフォーゼが近づいてくるから、青ざめる。
(見たのがバレた⁉)
何こいつ、サイテー。勝手に見んじゃねぇよ、とか思われているのだろうか……っ。
心臓が止まりかけ、呼吸が細くなるが、フォーゼはどうやら自分の腕をしきりに気にしている。
(……違う? なんかまた、細いとかを気にしてる?)
よく考えたら、眠る前に彼女がなにか口にしているところを見たことがない。リリィなど、日によってはもりもりと食うらしいが。
(……しまった。細いからもっと食べろ、と言う風に聞こえたのかも)
だから「はい」という返事でも「いいえ」という返事でもなく、「お茶……飲みましょうか」だったのだ。
(最悪だな、俺……)
ずーーーーん、と沈みながらフォーゼを椅子に座らせ……。
そして、急いでフォーゼ用にとあらかじめ用意していたショールを彼女に巻き付けた。
いろいろひらひらして、ひらひらしたところから、いろいろ煩悩をくすぐるものが見える。だがこれでもう安心だ。
ヨハンシュはほっとしつつも。
(気を遣わせたなぁ……)
やっぱり落ち込みながら、お茶をサーブした。
どうして自分はこう……さりげなくできないのだろう。




