30話【フォーゼ】あなたにとって私は2
「王都から……王城から出て、ようやくのんびりできると思ったのに。なんかずっと仕事に忙殺されている上に、領はいまから危険な時期で……。その、本当ならもっとその……。ゆったりと、心静かに暮らしていただきたいのに」
「そんな」
フォーゼは急いで首を横に振った。
「私はこの暮らし、大好きです」
「ですがきっと、俺じゃなかったら」
「俺じゃない?」
「俺が夫じゃなかったら。きっともっとうまくやれていたんじゃないか、って。その」
「その?」
「レオ殿……とか」
「レオ?」
「もし彼が生きて。そして王女と結婚していたら……」
「レオと結婚?」
「好き、なのでしょう? 彼が」
「好き」
「彼と暮らしていたら、王都暮らしだろうし。兄から聞きましたが、かなりやり手の伯爵家だったそうですし。苦労などせず、安心して……。その」
珍しく、語尾がそこで途絶える。
だからフォーゼは考えてみた。
レオがもし生きていて。
そして自分と結婚していたら……。
「なんだか想像ができませんね」
フォーゼは小首をかしげた。
「レオはいまでも大好きですし、私にとっては兄のような存在です」
「……兄?」
「はい。私はほら、長女ですから。弟妹はいますが、頼れる年上の人物がいなくて」
フォーゼはカップを両手に包み、その熱を楽しみながらヨハンシュに微笑んだ。
「だからレオは、私にとって兄のような存在でした。もちろん信頼していましたし、ピアノの腕は素晴らしく、私も教わったりしていましたが……。結構抜けているところも多くて」
ふふ、と笑う。
「一度こっそり練兵場に様子を見に行きましたが、剣技はぜんぜんダメでしたね。あれは私がやったほうが強くなりそうです」
そんなことを言ったらレオは怒るかしら、とフォーゼはやっぱり笑う。記憶の中のレオが『君はまったく余計なことを!』と言った気がするからだ。
「レオが成長して……私の前にいたとしても。夫……とは違う気がします。戦友とか。気の置けない友人とか。そんな感じで。夫というなら」
レオのことを話しているからだろうか。レオの記憶を共有してくれる気安さがあるからだろうか。
ふわり、と。
口から自然に言葉が出た。
「私にとっての夫は、やはりヨハンシュ卿です。優しくて、頼りがいがあって、強くて。私をいつも見守ってくださって……。だからこそ、あなたにふさわしい妻になりたくて」
言ってから。
ずっとヨハンシュが黙っていることにようやく気づいた。
ずっと自分がペラペラしゃべっている。
フォーゼは顔を熱くしてうつむいた。
「す、すみません。口ばっかりで、私。あの、全然まだなんのお役にも立てず……。なにかあったら熱ばっかり出してるのに」
急激に恥ずかしくなる。
足手まといでしかないのに、「彼にふさわしい妻になりたい」などとどの口がいうのか。
カップをソーサーに戻し、熱い頬を両手で隠す。
がたっと。
椅子の足が床をこする音がして。
顔を上げるとヨハンシュが立ち上がっていて。
そして息をするまもなく、彼はフォーゼに抱き着いてきた。
「ありがとう」
ヨハンシュが床に両膝をつき、フォーゼを抱きしめたまま言う。
「え……。ヨハンシュ卿?」
いきなりのことに尋ねる声は、彼の胸に顔を押し付けられているからくぐもっている。
「夫と認めてくれて、ありがとう」
ヨハンシュがそんなことを言う。
「私こそ、あなたに妻と認めてもらえるようにがんばります!」
宣言をすると、ヨハンシュが腕を緩める。
なんだかびっくりした顔で彼はフォーゼを見た。
「え。王女はずっと俺にとって妻ですが」
「そうですか? え。でもなんか……。私的にはまだ実感が。それに……父がなにを言い出すかわかりませんし」
結婚したとはいえ、形ばかり。父が離婚と言い出したらそれまでだ。厄介ごとを持ち込む嫁。そんな存在でしかない自分に、心底がっかりする。
「たとえ陛下が離婚と言い出しても、俺が認めませんから」
ヨハンシュが断言する。
伏せていたまつげが彼の呼気に揺れ、フォーゼはゆっくりと顔を起こす。
すぐ間近にある端整な彼の顔。
まっすぐに自分を見つめる目。
(ああ、この目)
この目のおかげで、自分はいま安心して生活ができているのだ。
心の中にいるレオに謝ってばかりではなく、会話することができるようになったのだ。フォーゼはそう思った。
「あなたはずっと俺の妻としてここにいるんです。もう決まったんです。誰もそれを覆せませんから」
「……ですが」
「決まったんです。もうそうなんです。不甲斐ない夫ですが。だからその、あなたを幸せにしたいんです。そう決めたんです、俺が」
彼の言葉は、ふわふわとフォーゼの頬や髪を撫でる。
そのすべては夕日のようなぬくもりを持っていて。
ふれるたびにフォーゼの身体を温め、心をとろかせていく。
ずっと抱いていた罪悪感までも。
「俺はあなたの夫で。あなたは俺の妻で。それでいいですね?」
やわらかく問われ、フォーゼは力強く頷いた。
「もちろんです。もちろん……それで」
言った途端、ぽろりと涙がこぼれる。
そのあとは決壊したように、ぽろぽろと立て続けに涙があふれた。
ようやく、踏み出せる気がした。
謝るばかりではなく。罪に沈むばかりではなく。
それらを抱えて前に。
彼となら。
「す、すみません」
フォーゼは慌てて顔を手で覆う。
「とんでもない。できるだけ泣かせないようにと思うのに……。なんだかいつも泣かせてばっかりですね」
ヨハンシュが抱きしめてくれる。
「これはうれし泣きなので」
「だとしても、やっぱり笑ってくれる方がいいです」
「がんばります」
「そしてあなたはがんばりすぎです」
きっぱりと言われ、フォーゼは笑う。ヨハンシュもつられたように笑った。




