29話【フォーゼ】あなたにとって私は1
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フォーゼがリゼルナ侯爵領に到着して一か月が過ぎた。
その日の午後。
フォーゼは、リリィから手ほどきをうけて領内の穀物や野菜の収穫量一覧を作成していた。
もともと計算や文字など、ひととおり教育は受けている。
過去の資料をもとにしての比較や、そこから来年の見込み。そんなことをリリィから聞き、事務作業を少しずつ進めている。
今度、日をあわせて実際に現地に行ってみたり、倉庫の様子を確認するそうだ。
(それまでに体力をもう少しどうにかしておかないと……)
メイドたちとともに廊下を歩きながら、ほうと息を吐く。
王城内では自分の屋敷に幽閉されていたからか、とにかくリリィとの体力差がありすぎる。
リリィなど、一日動き回り、なんなら馬を駆って戻ってきてもけろりとしているのに。
椅子に座って作業しただけで、いまどっと疲れている。
うっかり風呂で眠ってしまい、メイドに起こされなかったらバスタブに沈んでいたかもしれない。
(刺繍の図案も考えないといけないし)
本格的に冬が始まる前に、郷士会で図案を発表し、厳冬期の屋内作業とするのだ。
(やることがいっぱい)
だけどつらいわけじゃない。しんどいけど楽しい。
「それでは奥様。我々はこちらで」
メイドたちが足を止めるので、フォーゼは我に返る。
どうやら寝室に到着したようだ。
「あ、はい。明日もまたよろしくお願いいたします」
フォーゼが会釈をすると、メイドたちはいっせいに頭を下げてさがっていった。
「失礼します」
ノックをし、フォーゼは中に入る。
「お疲れさまでした」
中でヨハンシュが待っているのはいつも通りだ。
読んでいた本をぱたりと閉じるのも昨日と一緒。
彼が寝間着であるのももう見慣れた。
「今日は義姉が事務作業を教えたと聞きましたが、大丈夫でしたか?」
立ち上がり、真面目な顔でフォーゼの額に手を当て、熱を確かめるのもいつも通りだ。
そのあと、彼はざっとフォーゼの姿を確認し、異常がないか目を光らせる。
いつも通りだ。少しだけ可笑しくなって笑ってしまう。
「なんですか?」
不思議そうな顔でヨハンシュが言う。フォーゼは首を横に振った。さらさらと、乾かされたあとの髪が淡く揺れる。
「大事にされてるなぁ、って。うれしくなっただけです」
「そう……ですか?」
「はい」
しっかりとフォーゼはうなずいた。
その証拠に。
あれ以来、怖い夢を見ない。
正確には、見そうなときはある。
あの男の声が寝入りばなに囁くときがある。
そんなときは。
必ずヨハンシュが抱きしめてくれるのだ。
そうすると、そのまま眠りに落ちていける。朝まで目覚めることはない。
「だから私も頑張らなくては!」
ぎゅっと力こぶを作って見せるが、相変わらず枯れ木のような……いや、最近は若木ぐらいになった腕に、自分で情けなくなる。
「……ちょっとあれですね。そろそろ寒くなるのですから、もう少し厚着をしなくては」
そう言って、ヨハンシュが視線を逸らすので、やっぱりとしょぼんとなる。彼もきっと「ほっそ。病気かよ」ぐらいに思っているに違いない。
その証拠に、「お菓子、いかがですか?」と、もう就寝前なのにヨハンシュからお茶と菓子を勧められた。
いつの間にか彼はテーブルに移動していて、フォーゼに背を向けている。
「お茶……飲みましょうか」
夜寝る前に胃になにかいれると、今度は朝ご飯が食べられなくなってしまう。
かといってせっかく勧められているのに無下に断るのも、とフォーゼは彼に近づいた。
ヨハンシュはすぐに椅子を引いてくれた。
そして椅子に腰かけたフォーゼに、手早くショールをかけてくれる。というか、ぐるぐる巻きにされた。
(そんなに寒そうだったかしら)
確かに今日はいつもと違う寝間着だったのだが。
「どうぞ」
ヨハンシュはお茶をサーブしてくれた後、フォーゼの向かいに座った。
室内照明の橙色の光の下、彼が差し出してくれた白の陶磁器は、とても暖かそうな色に染まっていた。
「あ。そうだ」
「なんです?」
「今度、リリィ様と一緒に穀物倉庫を見に行く予定なんです。といっても、まだ未定ですが」
「そうなんですか? え、義姉にまだ連絡が行ってないのかな」
急にヨハンシュが険しい顔になるからフォーゼは目をまたたかせた。
「え……っと。なにか?」
「今日、国境警備のほうから連絡があって。どうやら大牙の灰色狼たちの動きが活発になっているらしいんです。なので、穀物庫の警備を万全にすることと、刈り取りがまだな農作物については急がせているところで……」
「大牙の灰色狼というと……。凱旋式の件ですよね? 討伐したのでは?」
そのためにヨハンシュたちが王都に来ていたのではなかったか。
「一大組織ですから。撤退はさせましたが、全滅までには追い込めていません。定期的に収穫時期にはやってきて穀物庫を襲うんです」
そういえばリリィが、「もともとは飢餓難民だった」と言っていた。
「いままでは、見せ餌的に穀物庫を襲わせて……。それで痛み分けというか。こっちも追い返して、それで終わっていたのですが」
ヨハンシュは苦々しげに言い、ぞんざいにカップのお茶を飲んだ。
「最近は堂々と村々を襲い、穀物庫を空にしていったり。前回は村を襲って火をつけたり家畜に手をだしたので、王都に増援を頼んで正式に討伐に向かったのです」
それが凱旋式につながったのだろう。
「外交筋を通して正式に訴えても、『あれはうちでも手を焼いている。それに非合法の団体だから』の一点張りで。アマルス王国にも困ったものだ」
そう言ってから、やっぱり生真面目な顔でフォーゼに言う。
「なので、穀物庫には近づかないように。義姉上にも俺のほうから言っておきます」
「わかり……ました」
こくりとうなずき、カップを口に近づける。いい香りが鼻腔をくすぐる。フォーゼがお茶を飲むと、かちゃりと硬質な音がした。
視線を向けると、ヨハンシュがカップをソーサーに戻したところだった。
なんだかその顔が沈んで。
落ち込んでいるように見えたから、フォーゼはつい声をかけた。
「どうされましたか?」
「いや、あの……」
「なんです?」
つい前のめりになる。
「いつも私を案じてくださっているのです。たまには私が案じさせてください」
「いや、その……。情けなくて」
「情けない?」
予想外の言葉に、きょとんとしておうむ返しする。




