26話【ヨハンシュ】誤解
翌朝早く。
ヨハンシュは足早に温室に向かった。
案の定、まだ早朝だというのに兄のジゼルシュは椅子に腰かけ、お茶を飲みながら書類に目を通しているところだった。
「おはようございます、兄上」
声をかけると、ジゼルシュの背後に控えていた執事が深く一礼をして席を外した。
「おはよう。一緒に茶を飲むか?」
目の前の席を示したが、ヨハンシュは首を横に振った。用件だけ伝えて、すぐにでもフォーゼのところに戻りたい。
「……兄上、どうされました」
早速切り出そうと思ったが、やけにジゼルシュの機嫌がいい。不思議に思って、ついそんなことを口にした。
「いや、昨晩はずいぶん王女と仲が深まったようではないか」
こほり、と咳ばらいをし、兄はカップをソーサーに戻した。書類をテーブルに置き、うむうむと意味深に頷く。
「やはり時が来ればそうなるのだ。執事たちからも報告が来ている」
「…………なんの、ことでしょう」
「隠さずともよい。正式な夫婦なのだ」
「え………っと」
「お前たちの寝室の前を偶然通りかかった執事が言うには、そりゃあもう、どったんばったん……」
「………………………」
「フォーゼ王女はお疲れなのか? 今日の郷士会は欠席したいという旨か? もちろんそれは問題ないが」
そう言った時、席を外した執事が舞い戻り、ジゼルシュに耳打ちをした。
「おお、そうだった。ヨハンシュ。兄として助言しよう」
「………………………なんでしょうか」
「妻を愛するのはいいことだが、一方通行ではいかん。お前ばかりが遂げようとするなど、それは紳士のふるまいではない。相手が痛い、と言っているのに……」
「誤 解 で す !!!!!」
「うおっ」
腰を折り、座っている兄に顔を近づけたものだから、頭突きでもするのかと勘違いされたらしい。
背をのけぞらせて椅子の足を浮かせたが、そこは執事が華麗に受け止めてくれた。
「昨日、お伝えすべきでしたが……。その、王女はよく悪夢にうなされるのです」
「悪夢」
ジゼルシュが小首をかしげる。そのうしろでは執事もきょとんとした顔をしていた。
「たぶん、いままでの婚約者がみな、処刑されていることと関係していると思われます」
ちらりとジゼルシュと執事は視線を合わせた。
ヨハンシュは続ける。
「みんな死んだのに、自分だけ幸せになってもいいのか、と尋ねられたことがありました。昨晩、飛び起きて口走ったのは、『足枷を外して』でした」
「足枷」
「どこかの婚約者がそのようなことをしたのかもしれません。随分とその、根が深いのです」
ヨハンシュの声は次第に重さと暗さを帯びた。
「レオという伯爵家の息子には、ずいぶんと心を許していたようでした。それなのに婚約破棄のとばっちりで殺され、その傷も癒えぬすきに、次の婚約。そして破棄」
「確か最後は軍務大臣の三男だったな」
ジゼルシュが独り言ちる。執事がまた耳打ちした。
「そうだ。襲われかけたところを近衛兵に助け出されたのではなかったか」
「お、襲われ⁉」
ヨハンシュが目を剥くと、ジゼルシュが眉根を寄せた。
「既成事実が欲しかったか、無理やり子をなそうとしたか。いずれにしても鬼畜の所業」
「……そのとき、逃げ出せないように足枷をはめられたのでしょうか」
かもな、とジゼルシュがつぶやく。
そのあと、穏やかで暖かな温室に湿って冷たい沈黙が落ちた。
「まだ王女は眠っているのですが」
ヨハンシュが切り出すと、ジゼルシュは無言で視線を上げた。
「体調によっては会合を欠席しても?」
「当然だ。リリィにも伝えておく」
「ご配慮ありがとうございます」
一礼をし、ヨハンシュは踵を返した。
そのまま半ば駆け足になって別館へと戻る。
寝室を出るとき、フォーゼはよく眠っていた。
もうしばらくは起きないだろうとそっと抜け出してきたが……。
(その間に目を覚まして)
自分がいないと気づいたとき、彼女はどう思うだろう。
昨晩の自分の行動を思い返し、悩むかもしれない。
あんなことを言うべきではなかったとか。そもそも一緒に眠るのではなかったとか。そんなことを悔やむかもしれない。
そんな心配などしてほしくなかった。
誤解のせいで深く心を閉ざしてほしくなかった。
ヨハンシュはいてよかったと思うし、一緒に眠っていたからこそ、こうやって対処ができるのだから。
別館に戻ると、執事やメイドたちが朝の準備をしていた。
「まだしばらく寝室には来ないように」
そう言うと、「あらあら♡」とばかりに意味深に微笑まれたが、無視して二階へと駆け上がる。
そっと扉を開けると。
まだフォーゼは眠っているようで、ほっとした。
足音に気を付けながらベッドに近づき、端に腰かける。
そして気づく。
フォーゼが起きていることに。
というのも。
ヨハンシュが寝室を出たとき、彼女は左を横にして眠っていた。
すうすうと寝息を立て、肩から上はキルトケットから出ていた。
だがいまの彼女は。
キルトケットをすっぽりかぶって丸まり、石像のように動かない。
「おはようございます、フォーゼ王女」
そっと声をかけると、しばらく無言だった彼女がうめく。
「もう私のことなど忘れてしまってください……」
くぐもった声はキルトケットの中から聞こえてくる。
地獄から聞こえるような声音ではあるが、意外にも芯はある。元気だ。ほっとしてヨハンシュはそっと背中を撫でた。
「忘れられません。なにしろあなたは俺の妻なんですから」
「もうこんな面倒くさい女は放っておいてもらっていいんです……」
「面倒くさくありませんよ」
「毎日毎日寝ぼけて大騒ぎして……」
「あなたが背負った荷物は、俺の荷物でもあります。半分でも全部でも持ちますよ」
「もう私のことなんて……」
「昨日のことで疲れたでしょうから、今日の郷士会は欠席しても構わないと兄から許可を……」
「それは参加します!」
がばりと跳ね起きるからヨハンシュは驚く。
「リリィ様ともお約束しましたし、なにより妻としてポンコツなのに、手仕事でもおそまつなど目もあてられません!」
こぶしを握り、必死に訴えるフォーゼ。
その髪は静電気のせいなのか、ふわふわと逆立ち、まるで長毛種の猫が真っ向から風を受けたときのようになってしまっている。
ぷ、と。
つい吹き出してしまったのは。
なんともその風情が愛らしかったからだ。
「は……、わっ!」
そのヨハンシュの仕草を見て、髪の状態に気づいたのだろう。フォーゼは真っ赤になってキルトケットに頭からもぐりこんでしまう。
「ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったんです」
慌ててヨハンシュが言うが、フォーゼはもうなにを言っているのかわからない状態で亀のように丸まってしまった。
「猫みたいに可愛いなぁって思ったんです」
「もう放っておいてください……っ」
「そんなこと言わず許してください。一緒に朝ごはんを食べましょう」
「私に構わず、どうぞお先に」
「戦場で深手を負った兵士みたいなこと言わないで」
ヨハンシュはベッドに膝立ちになると、「よいしょ」と声をかけてキルトケットごとフォーゼを抱き上げた。
「きゃあ! おろしてください!」
「このままバスルームに行って、メイドに身支度を頼むことにしましょう。そのあと、一緒に朝食を」
「自分で歩けます! こんなところ人に見られたら、なんと言われるか!」
みのむしにようにキルトケットにくるまった彼女が、腕の中で真っ赤になる。
ヨハンシュは苦笑いした。
「それがねぇ、フォーゼ王女」
「は、はい?」
「どうやら屋敷中がみんな大誤解をしていましてね」
「……大誤解……?」
「昨晩、フォーゼ王女が寝ぼけて。ついでに足を攣って『痛い』とか。俺が『大丈夫、力を抜いて』とか言っているのが、偶然廊下にいた執事たちに聞こえたようで……」
「…………もしや」
「そのもしや、で」
いやああああああああ、とフォーゼが顔を覆い、腕の中で悲鳴を上げる。
「だから俺があなたを抱えてバスルームに連れて行ってもなんの問題もありません。さ、参りましょう」
ヨハンシュは笑い、彼女を横抱きにしたまま寝室を出た。




