24話【フォーゼ】悪夢
メイドたちに案内されて寝室に入ると、すでに寝間着姿のヨハンシュがいた。
「ゆっくりできましたか?」
椅子に座って本を読んでいたらしいが、ヨハンシュが唇の端に笑みをのせて声をかけてくれる。
「はい、あ、あの。みなさんのおかげで」
ヨハンシュが寝間着姿で寝室にいる。
この現状にオタオタしながらも、フォーゼは背後に控えるメイドたちに頭を下げる。
「ありがとうございます」
「とんでもないことでございます」
メイドたちがさらに深く腰を折るからフォーゼはどうしたらいいのかよくわからない。
王城にいるときにもメイドはいた。ふたりだが。
彼女たちとは気心も知れていたので、いまから思えば割とざっくばらんだったのかもしれない。
侯爵家に来て、そんなことを痛感する。
まず誰もフォーゼとは目をあわせない。
視線を下げ、頭を下げてくれる。
それなのにフォーゼの表情や機微は見逃さない。
『こちらにいたしましょうか?』とすぐに選択肢や逃げ場を用意してくれる。
風呂にも仰天した。
フォーゼにとっての風呂とは「清潔に保つためのもの」だったが、こちらでは違うらしい。
バスタブには香油が垂らされ、洗髪後はメイドが数人がかりで髪を乾かし、いろんなスプレーを吹き付けられた。いったいそれがなんなのかはわからないが、髪はつやっつやで、さらっさらだ。
『どれがよろしいでしょうか』といろんな小瓶を示されるが、わからずに戸惑っていると、どうやらボディクリームのようだ。
(いやもう、こんな贅沢……。無理)
つい数日前までは、そんなものは義母や義妹が使用するものであり、自分は対象外だと思っていた。というより、そんなものを使用する必要性すらなかった。
それがいまや、湯水のごとく使われようとしている。自分に。
『あ……。いや、あの結構です』
もったいなくてそう言うと、メイドたちは鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。なので慌てて、
『きょ、今日は結構です』
と言い換えた。
いつか使うかもしれないが、今日は無理。これ以上の贅沢は無理。
さすがにそんなことは言えなかったが、メイドたちは納得したようだ。
『それでは明日、ご用意させていただきます』
そう言ってフォーゼの身支度を整え、侯爵家の別館2階へと案内してくれたのだ。
「ほかになにかご用はございますでしょうか」
メイドたちが腰を折ったまま尋ねるので、フォーゼは首を横に振った。
「ありません。ありがとうございます」
「かしこまりました。またなにかございましたらお呼びください。それではまた明日、お伺いいたします」
メイドたちはヨハンシュにも一礼をして退室した。
なんとなくほっとしたのは、ヨハンシュにも伝わったのだろうか。
「なにか気にかかることでも?」
声をかけられるから慌てて首を横に振る。
「いえあの! こんなによくしてもらっていいのかどうか、本当にもう!」
首の動きに合わせて髪がさらさらと動き、いい匂いまで漂ってくる。
「とんでもない。結婚が急でなければ新居も用意できたのですが……。しばらくは侯爵家の別館で我慢ください」
ヨハンシュが眉根を下げるからまた驚いた。
「え。ここでいいんですが……っ!」
「祖父母が住んでいたコテージがこの近くにあるのです。そこを手入れしていますから、いずれはそちらに引っ越すことになります」
ヨハンシュはにこりと笑う。
「ここは手狭ですし、なにより兄夫婦もまだ結婚して1年。新婚なので、あまり近くに住むのも……ねぇ?」
言われて顔が熱くなった。
(そ、そうよね。弟夫婦が同居している形になるんだし……! はっ! そんなことにも気づかず、ここでいい、ってどんだけ配慮のない妻なの!)
今度は顔が青くなる。
「どうしました⁉ 風呂に入って血圧が不安定に⁉」
ばね仕掛けのようにヨハンシュが椅子から立ち上がり、ひとりあわあわしているフォーゼに駆け寄った。
「とりあえず座って……!」
そう言ってベッドに腰かけさせ、自分はテーブルに足を向ける。
「水でいいですか? ワインもありますが……」
「いえあの、その」
「どっち?」
「水……で」
ヨハンシュは水差しを持ち上げ、ゴブレットに水を注いで戻ってきた。
差し出されて受け取り、ぎこちない手つきで唇を寄せる。口に含むと、自分でも気づかずに喉が渇いていたのか、ごくごくと一気飲みしてしまった。
「きっとまたお疲れなんですね。気づかずすみませんでした」
空になったゴブレット。ヨハンシュがさりげなくフォーゼの手から受け取り、テーブルに戻す。
「そんなことないんです! あの、本当によくしてくださって! とくにリリィ様など……!」
「いやあの人がほぼほぼ原因でしょう」
ヨハンシュはフォーゼの隣に座り、眉根を寄せた。
「とにかく元気で。いつでもフルスロットルですからねぇ」
「うらやましいです。私もリリィ様のようになりたいです」
真面目な顔でそう言うと、「ええぇ?」となんだか複雑そうな顔をされるから不思議だ。
「ヨハンシュ卿はリリィ様が苦手なのですか?」
「一緒にいたら疲れませんか? こっちの都合なんて無視ですから」
「そう……ですかねぇ?」
思い返してみるが、自分がぞんざいに扱われたとも思わないし、なんならフォーゼの意見をいつも大事にしてくれたような気がする。
「私はやっぱり、リリィ様のようになりたいです」
真剣に伝えると、ヨハンシュは苦笑いした。
「そうですか」
うなずくヨハンシュを見て、ふとフォーゼは目をまたたかせた。
「そうすると、ヨハンシュ卿は私のことを苦手になりますでしょうか?」
「俺が?」
「ええ」
そう、なるのではないか?
ヨハンシュは義姉が苦手。
そんな苦手な人物をフォーゼは目標にしようとしている。
これは妻としてどうなのだろう。
そんなことを考えたが、くすりとヨハンシュが笑った。
その笑いは、目の前でシャボン玉が割れたようなかすかな振動を産み、フォーゼのまつげに触れた。
「どんなあなたでも、あなたを嫌いになることなんてないですよ」
顔をのぞきこんで言われるから、困惑する。
つい反射的に背をそらし、ベッドに手をつくと、きし、と軽くスプリングが揺れる。
「あ、の。そう、いえば。ヨハンシュ卿は……その」
メイドたちからは「それでは寝室へ」と言われて連れてこられたが……。
(ヨハンシュ卿がいる、ということは……)
一緒の寝室を使用する、ということか。
「昨日も言ったでしょう? あなたになにかあったときにすぐ対処できるように今日からは一緒に寝ることにします」
にっこりと笑ってヨハンシュは言う。
急に心臓がバクバクと早鐘を打つ。
(よく考えたら……対外的には夫婦なんだ……ものね……)
兄夫婦の屋敷一角で間借りをしている状態で、ふたり別々の寝室というのもおかしな話だ。
ぎし、と。
ベッドが軋む。
ヨハンシュが前のめりになる。
フォーゼがさらに身をそらそうとするのに、さらに間合いを詰めてきた。
もう鼻先同士がくっつきそうになる距離で。
ふわりと彼は笑った。
「おそいかかったりしませんから、ご安心を」
そう言われて、からかわれたと知る。
フォーゼは「ご冗談ばっかり」とヨハンシュの肩を押し返す。彼は笑ながらも身を離してくれた。
「明日は初めて領民に会うことになります。今日はどうぞゆっくり寝てください」
言われて、フォーゼは返事もそこそこにベッドにもぐりこんだ。
もぐりこみながらも、考える。
(ヨハンシュ卿は壁際のほうがよかったかしら、それとも扉に近い方が?)
自分なら夜間トイレに行くときに出入りしやすいほうがいいし、だったら、やはり自分は壁際の方がいいだろう、とキルトケットに入ったままもぞもぞと移動する。
壁を向いて横になり、じっとしていたら。
ぎし、とベッドが揺れる。どきりとしたが、ヨハンシュは立ち上がったようだ。
室内の照明明度を落としてくれているらしい。
(……こういうのも私がした方がよかったのかしら……。なんて気の利かない娘だと思われてるかも……っ)
言い訳するわけではないが、フォーゼは一人暮らし歴が長かった。
なにをするにも自由であり、ある意味気ままだった。
今度からはちゃんとしようと心に決めると、ぎし、とまたベッドが軋んだ。
ヨハンシュがベッドに入ってきたようだ。軽くキルトケットがめくられる。
そのあと、じわりと温かさが伝わってきた。
特に背中をくっつけあったりとか、ましてや抱きしめあっているわけでもないのだが、それでも人がひとり入って来ると暖かいのだとフォーゼは知った。
(今日はいろいろあったな……)
義姉はきれいで強く、義兄はうつくしくて賢く。建前上は夫となる人は恰好よくて優しい。
まるで絵にかいたような幸せな家族。
とろりとした眠りにとりこまれ、ふう、とフォーゼは小さな吐息を漏らした。
するり、と。
身体が重くなる。
甘くやわらかな眠気にくるまれ、思考はどんどんと沈んでいく。
(いいひとばっかりで……)
王城内では考えられない。
冷酷な義母。いじわるな義妹。見つかればすぐに暴力をふるって来ようとした義弟。
こんな幸せな家族に囲まれ。
まるで夢のようだ。
そう思った瞬間。
『そんなもの、夢に決まっている』
囁かれて身体がこわばった。
『お前が幸せになれるとでも? 近いうちにまたあの父王が……』
ひひひひ、と軍務大臣の三男が耳元で嗤う。
『離婚だと言い出したら?』
ぞっとして目を開けた。
暗い。
当然だ、さっきヨハンシュが照明を落としていったのだから。
落ち着いて考えればわかることなのに、寝入りばなだったこともあり混乱した。
軍務大臣の三男の声がまとわりついていたこともあったのだろう。
あの、閉じ込められた薄暗い部屋と勘違いした。
悲鳴を上げて飛び起きる。
逃げなくては、とベッドに手をついた瞬間、足に激痛が走る。半ば半狂乱になっていると、がっしりと抱きしめられた。
「どうしました⁉」
「あ、足! 痛いっ!」
もがきながらフォーゼは思い出す。そうだ、あのときも足枷をつけられて……。あれが抜けなくて……!
「痛い! 外して! 痛い! 足枷やめて!」
「足? どっちです? 右? 左?」
「右!」
バタバタと暴れているのに、右足だけは棒のように硬直していた。膝からつま先までがぴんと伸びてしまい、曲がらない。痛い。
「攣ったんですね。待って、落ち着いて」
「痛い!」
「ゆっくり仰向けになって」
「外して! 足……! 逃げられない!」
「大丈夫ですよ、じっとして」
「外して!」
「外してあげます。そんなに動いたら外せませんよ」
そう言われてフォーゼは涙をこらえて我慢した。じっと動かずに、痛みをこらえる。
ヨハンシュの手が自分の足裏に添えられ、一気にぐいとつま先を上にして押し上げた。
「……っ! 痛い!」
「大丈夫。ゆっくり息をして」
しぃ、となだめられてようやくフォーゼは落ち着きをとりもどした。
頼りなく、何度も短い息を繰り返す。
ようやく。
痛みから解放された。
ほっとしたら。
安堵したら。
「もう大丈夫」
そう言われ、ぎゅっと抱きしめられる。
フォーゼはその背に両手を回し、しがみついたまま。
「うん」
うなずいて。
そのまま眠りの中に落ちて行った。




