20話【フォーゼ】約束
フォーゼが目を覚ましたのは、小鳥のさえずりが聞こえたからだった。
温かく、そしてなんだか動きがとりづらいな。
そう思ってゆっくりと目を開く。
ぼやりとした視界。
まぶたが重い。それでようやく昨日、自分が年甲斐もなく大泣きしたことを思い出す。
泣きすぎたからか、頭の芯がなんだか痛い。
思考もぼやりとして、このところの目覚めのよさが嘘のようだ。
丸めたこぶしで目をこする。
視界が晴れた。
そして凍り付いた。
それなのに意識は急浮上する。くすんでいた世界が一気に色づく。
目の前にいるのはヨハンシュ。
フォーゼと向かい合うようにしてベッドに横たわっている。
というか。
抱きかかえて眠っている。
(……え、ちょっと待って)
昨日の記憶が一気に脳内になだれ込み、フォーゼは狼狽した。
そうだ。
自分は昨晩、どうしようもなくて壁をノックした。
するとヨハンシュがすぐに来てくれて……。
本当は自分一人で耐えないといけないのに。
本来は自分一人の罪であるはずなのに。
怖くて、つらくて、しんどくて。
そして甘えてしまったのだ。
逃げ出したのだ。
ヨハンシュに。
だから、謝った。
こんな自分のために駆けつけてくれた彼に。
まっすぐにやってきてくれた彼に。
その好意を受けるだけの人物ではない自分が情けなくて。
『優しくしないでください』
自分はそんな存在ではないのだ。
それで謝ったのに。
彼は、フォーゼを抱きしめ、『ごめんなさい』と謝ってくれた。
『気づけなくてごめんなさい』と。
そんなことはない。
彼には関係ないことだ。
これは自分一人で抱えなくてはいけない罪悪だ。生涯続く贖罪なのだ。
それなのに優しく背中を撫でてくれるヨハンシュに甘えて。
その手を振りほどけず、すがって泣いてしまった。
「あ」
固まっていたら、彼が目を開いた。
「おはようございます」
にこりと笑ってそんなことを言うから、フォーゼは飛び起きた。
そのままベッドの端まで移動し、キルトケットを頭からかぶって丸まった。
「お、おはようございます……」
自分がキルトケットを引っ張ってしまったから、彼の身体は剥きだしだ。
ボタンを外したシャツからは、鎖骨がのぞき、そのさらに下にはしっかりした筋肉がうかがえて、フォーゼは勝手に顔を熱くした。
「き、昨日はすみませんでした……! その、ご迷惑を……!」
ぎこちなく、かつ早口にフォーゼは言う。
言いながらいろいろ考える。
面倒くさい女だと思われただろうか。
だとしたらいいことだったのかもしれない。きっとヨハンシュは必要以上に自分に近づいてこないだろう。そうすれば一年と経たずに円満離婚だ。
「迷惑だなんて思っていませんよ」
ヨハンシュは身体を起こし、ベッドの上で胡座をした。
寝起きだと言うのにこんなに恰好いいのはどういうことだ。寝ぐせさえ可愛く思えてしまう。
「フォーゼ王女?」
「は、はひぃ!」
ぽう、と彼を見つめていたら、話しかけられて我に返る。つい変な声が出てしまったが、ヨハンシュはいぶかしむよりも、少し首を傾げた。
「まだ眠たかったですか? もう一度眠りますか?」
「いえ、違うのです!」
まさか見とれていました、というわけにはいかない。激しく首を横に振っていたら、ヨハンシュはほっとして笑った。
「昨日、俺は決めました」
はっきりと言われ、心に冷たく長い棘が刺さった気がした。
『折を見て離婚しましょう』
彼はそう言うのだろうか。
『兄のことや侯爵領のことがありますから、それまでは夫婦を演じますが、適当なところで王家に離婚を申し出るつもりです』
そんな風に言うのだろうか。
不思議だ、ともう一人の自分が客観的につぶやく。
自分から言い出すときは傷つかないのに。
ヨハンシュ卿から言われると、心が血を流していくようだ。
「これからは、一緒に眠りましょう」
「………………………………はい?」
ヨハンシュの言葉を受け止め、たっぷりな時間を使って反芻し、いろいろと考察してみたが、口から出たのは、「はい?」という問い返しだけだ。
あっけにとられるフォーゼの前で、ヨハンシュは座りなおす。
右ひざを立て、膝がしらに頬杖をついてフォーゼの瞳を見返した。
「いままでは、俺がいないほうが熟睡できるだろうと思って寝室を別にしていましたが……。今後もこのように悪夢を見る可能性もある。というか新生活が始まるんですからね、見続ける可能性の方が高いかもしれません。そうしたら、すぐに対処できるように俺が側にいるほうが安心でしょう」
「いやあのその! 昨日も申し上げましたが、そんなお気遣いは無用……」
「王女の方こそ無用です。それに俺たちは夫婦なのでしょう? 本来であれば同じ寝室を使うことが普通なのでは?」
そう言われればぐうの音も出ない。
「まあ、王女が望まなければ……その、子ができるようなことはしないつもりですが」
だいぶん配慮してヨハンシュが伝えてくれるが、フォーゼはその内容に顔を熱くした。
「ただ、曲がりなりにも俺は王女の夫です。夫なのだから、妻が幸せに暮らせるように努力する義務がある」
「夫といっても、父上が勝手に決めて……!」
「貴族なんて多かれ少なかれそういうものでしょう? 兄の結婚も、隣国の国王が強引に決めましたよ? まあ、あれは義姉がその後ろで糸を引いていましたが……」
ヨハンシュはにっこりと笑う。
「それでも仲良し夫婦です。俺達もそうなりましょう」
「あ、あの……! ひょっとして私のことをご存じないのですか?」
おそるおそるフォーゼは申し出た。
「モーリウスの毒婦ですよ」
声が震えた。
「知っていますよ。というか、知ったつもりでいました」
ヨハンシュはまた胡座になる。
「政略結婚の手駒として婚約破棄を繰り返し、国王の政敵をつぶす」
端的に言われると、またフォーゼの心臓は縮みあがった。
「その役割を甘んじて受けているのだと思っていました。王族の娘に生まれたのだから、そんな風に育てられているのだ、と。だけど」
ふと、ヨハンシュが言葉を止めた。
気づけばまたフォーゼはうつむいていたのだろう。
彼の手が頬にふれ、そっと顔をあげさせられる。
「あなたはずっと傷ついていた。そんなあたりまえのことに、昨日ようやく気づいたバカな夫を許してください」
「ち、ちが……」
「俺も兄も、王女との離縁は望んでいません」
「父はわかりません!」
フォーゼはこぶしを握る。拍子に頭からかぶったキルトケットが滑り落ちる。
「父が何を言い出すか……! そうなると侯爵領に危機が及ぶかも!」
ナナリーやダントンは田舎だとバカにしていたが、侯爵領は王国の穀物庫だ。
それを狙っているのだとすると、震えが起こる。
「王女は王都に戻りたいのですか?」
反射的に首を横に振る。
「婚約破棄と離婚は重みが違います。そりゃ国王が特権を振りかざせばどうなるかはわかりませんが……。結婚は、神の前で誓った契約。確たる理由もないのであれば、教会はおいそれと認めません。そうなると、教会と国王の争いになる。陛下もそこまでは望んでおられないのでは?」
「ですが……」
「もちろん、その大前提として『夫婦仲が円満』というのがあります。俺は王女とよき夫婦でいたいと思います。王女はどうですか?」
「それは……」
はい、と言っていいのだろうか。
フォーゼはそこで動きを止めた。
自分は。
幸せになっていいのだろうか。
犠牲者がたくさんいたのに?
「王女が背負っているものを、俺にも背負わせてもらえませんか?」
両頬を包まれたまま、彼が目をそらさずにフォーゼに言う。
「あなたのしんどさや苦しさや。つらさを俺が半分持ちます。それが夫の役割だと思うから」
「で、ですが……」
それは自分が……。
「あなたの家族が、あなたひとりだけに押し付けたその罪悪感を、俺が半分持ちます。残りの半分はきっと俺の家族が……兄や、兄嫁が持ってくれるでしょう」
「そ、そしたら私は……」
「その代わり、あなたは俺や俺の家族に笑いかけてください。一緒に過ごしてください」
ヨハンシュはにこりと笑った。
自分は。
許されていいのだろうか。
この重さを。
重荷を。
誰かに「つらい」と言っても許されるのだろうか。
「侯爵領で一生を共に過ごしてくれますか?」
意図せずにフォーゼの頬に涙が流れた。
ヨハンシュは苦笑いして親指でその涙を拭ってくれる。
「ああ、また泣かせてしまった。俺はふがいない夫だ」
「そ、そんなことはないんです!」
フォーゼは慌てて言ってから。
涙を流しながら、笑った。
「うれしくて……。ありがとうございます」
もう、離婚しなくてもいいのかもしれない。
フォーゼはそんなことを考えながら、もう一度「ありがとうございます」とつぶやいた。




