18話【ヨハンシュ】理想の結婚1
「夫」とはなんなのか。
ヨハンシュにとってはもう、なにがなんだかよくわからない状態になっていた。
「父親」ならわかる。
妻子を守り、家名を守り……。そして家族の成長を尊ぶ。
そんな感じではないだろうか。
だが「夫」。
夫となると途端にイメージがぶれる。
いや、ぶれはじめた、というべきか。
それまでの「夫」のイメージは、ジゼルシュだった。
隣国の姫君を娶った兄。
彼は妻を愛し、守り、妻の名誉のためになら戦うことを辞さない。
自分も妻をもらったらそんな夫になりたい。
少なくともそう感じていたはずだ。
だが。
もらった妻と実際かかわってみたら。
「夫」とはなにかわからなくなってしまった。
兄のように妻を愛そうにも、そこはかとなく距離を感じてしまう。
もっと距離を縮めようと会話をしてみても、ある一定のラインを引かれてしまう。
自分が軍人だから怖いのだろうか、となるべく穏やかな声音と微笑を浮かべるのだが、それでも越えがたいなにかがあると思っていた。
もっと強引に距離を縮めた方がいいのか、と思うが、今度は「妻、虚弱」という設定が邪魔をする。
そんな時に発覚した、「レオ問題」。
フォーゼが頑なに守ろうとしている距離感。
それは彼女の中にいる元婚約者のせいではないのだろうか。
彼女はレオのことが好きで。それで……。
「お待たせしました。特に問題はありません」
寝室の扉が開き、団長が顔をのぞかせた。
ヨハンシュは我に返る。
隣にいるのはフォーゼ。
彼女が今晩眠る寝室の最終チェックをしている間、ふたり、廊下で待っていたのだ。
「ありがとう」
ヨハンシュはぎことなく笑う。その隣でフォーゼが頭を下げた。
ちらり、と。
団長がヨハンシュに視線を送る。
『あんたたち、まだ寝室別なんですか』
無言で訴えてくる。
『俺だって一緒にしたいよ!』
フォーゼが頭を下げている間に、ファックサインを出すと、団長は吹き出すのをこらえる。
そしてその顔を隠すように振り返った。
団長室内の騎士たちに合図をすると、わざとらしく一礼をして寝室を出て行った。
「さあ、どうぞ」
降格させるぞ、あいつめ。
心の中でののしりながら、ヨハンシュはフォーゼの背をそっと押して室内に招き入れた。
フォーゼは珍しそうにきょろきょろと室内を見回している。
温度といい照明といい、睡眠にはぴったりだ。
フォーゼには今晩、ゆっくり眠ってもらわなければならない。
なぜなら……。
「明日は我が兄が治める侯爵領へと入ります。兄や兄の妻と会っていただくことになりますので……。たぶん、その大変お疲れになるでしょう」
兄は問題ない。いや、問題あるかもしれないが、許容範囲だろう。
頭が痛いのは、兄嫁だ。隣国の姫君リリィ。
いいひとだ。
いい人だと思う。
だが、感情表現が豊か、というか。
もうこれはお国柄故だろう。
あちらではとかくオーバーアクションだったりするので、これは個性ではなくお国柄と思っている。兄だって何も言わないし、最近は家中の者もみな慣れているのであれだが……。
とにかく騒がしい。
半日一緒なだけで疲れてしまう。
(フォーゼ王女とはできるだけ離そう。なにしろ彼女はまだ虚弱なんだから)
そんなことを考えていたら、視線を感じた。
なんだろう、と小首をかしげながらフォーゼが自分を見ている。
ヨハンシュはとりつくろうにように笑った。
「なので今晩はゆっくりとおやすみください」
今晩《《も》》、なのだが。
そう。
今晩に限らず、ずっとずっと毎晩、ヨハンシュはただただ、彼女を食わせて眠らせることに徹している。これが夫なのだろうか。最近はなにかの飼育員ではないかと思う気もする。
「俺は隣にいます。なにかあれば枕元のベルを鳴らしてもらうか、壁をノックしてください」
ヨハンシュは優しく微笑みながら言った。
「わかりました。いつも心遣い、ありがとうございます」
他人行儀な言葉。そのあと、ぺこりとフォーゼは頭を下げる。
「そんな。夫婦なのだから当たり前ではありませんか」
応じながら、自分だって他人行儀だなと思う。
こんな会話を兄夫婦が交わしているとは思えないし、実際見たことはない。
「それでは、おやすみなさい」
ヨハンシュが退室しようとしたら、背後から「おやすみなさい」の声が聞こえた。
ヨハンシュは足を止め、できるだけやわらかく微笑む。
敵意はないし、どちらかというと好意しかないのだと伝えるために。
伝わっているのかどうなのか。
フォーゼも応じるように笑む。
そしてヨハンシュは外に出た。
「とうとう明日、領地に着いちまいますよ、中将」
団長が腕を組み、ニヤニヤと笑っている。ヨハンシュはにらみつけた。
「うるさいな。だからどうした」
「いや別に。このままでいいのかな、と」
「団長の言う通りですよ。せめて寝室ぐらい一緒にしないと」
隣では副官もうなずいている始末。ヨハンシュはしっしっとばかりに手を振った。
「医者に言われているんだ、無理させるなって」
「なにも疲れるところまでしなくても」
「同衾するだけでも」
しつこいな、とヨハンシュは一喝する。
「王女だぞ? そんなお前……」
「情けない男だと思われてるっすよ」
「ですよねぇ、団長。女は強い男を求めてるもんですよ?」
押せ、押し倒せ、という団長と副官を無視して隣室に入る。
間取りはフォーゼの寝室と同じ。
猫足の机と椅子があり、ベッドがある。
ただ、隣とは対照だ。
壁を挟んで互いのベッドが並んでいる形になる。
(あいつらは実際にフォーゼ王女を間近に見てないから)
むかむかしながら、足を振って軍靴を脱ぐ。
毛足の長いじゅうたんが思いのほか心地よく、ささくれだった心が少しだけ和む。
押し倒すだのなんだの……。
したら、ぽっきり折れそうなのだ。
いままで見てきた令嬢とは雰囲気がまるで違う。
はかない、というのだろうか。
確かに細い令嬢は多い。
しかし、フォーゼはそれとは種類が違う。
病み上がり。
そんな言葉がぴったりだ。
最近こそ、騎士団の団員と会話したり、お礼を言ったりなんだりしているから団員も気を許して軽口をたたくのだろうが……。
(負荷をかけたら、あっさり諦めそうな気がする)
なにをあきらめるのか。
すべてだ。
彼女はほぼ、なにもかもをあきらめて生活してきているように見える。
この上、なんらかの重しがそこにかかってしまったら……。
あっさり生きることをあきらめる気がする。
(いま、持ちこたえられているのはレオという存在なのかもしれない)
珍しく生き生きとした表情で死んだ婚約者を語るフォーゼが脳裏によぎる。
自分にはみせたこともない嬉しそうな目。
「どうしたもんかなぁ……」
ヨハンシュは上着を脱ぎ棄て、どっかりとベッドに座った。
ネクタイを緩め、シャツのぼたんを二個ほど外す。
やれやれとばかりに口から漏れたのは、意外にも重いため息だった。
(そりゃ、レオとやらに操をたてるならそれでもいいが……)
ヨハンシュは「白い結婚」でも問題ない。
この結婚を維持し、王家に付け入る隙さえ与えなければ。
そしてそれをフォーゼが望むのなら。
兄は「惚れさせろ!」「溺愛せよ!」と発破をかけるが。
無理だ。
彼女の心の中には、どっしりとした存在感を持って、ひとりの少年がいる。
兄夫婦のように好き同士で夫婦になるのが一番だろう。
ヨハンシュだって、フォーゼの幸せを願っている。
フォーゼの好きな男と添わせてやりたい。
しかし致命的なことにフォーゼの場合、相手が死んでしまっている。
ぼすり、と背中からベッドに倒れこむ。
見えるのは天井。
淡い光に橙色に染まる。
「兄上になんと言おう……」
できそうにもありません、とはっきり言うべきか。
事情を説明すべきか。
そのためにはまず、「レオ」という伯爵家の次男のことを伝えなければ。
(もう少し、彼のことを調べてからでもいいのか。それとも……)
自分が惚れていた男のコピーのような男。
そんなものに惹かれるものだろうか。
だからといって、真反対の男が現れたとて、それはどうなのだ。
いまになって、『女は強い男を求めてるもんですよ?』という言葉がやけに耳につく。
(……もっと積極的になったほうがいいんだろうか)
どうもヨハンシュはフォーゼを観察しすぎているような気がする。
攻略すべき対象をよく見るのは大切だ。
だが、ただ見ているだけでは次の行動に移れない。
(でもなぁ……)
これ以上間合いに踏み込んだら、決定的に嫌われそうな気もする。
うんうんうなりながらヨハンシュはひたすらベッドの上で転がっていた時だ。
こつ、こつ、と。
音が聞こえた。
「……ん?」
がばりと上半身を起こす。
壁が、鳴った気がした。




