17話【フォーゼ】理想の結婚
□□□□
フォーゼにとって、理想の結婚形態というのは「白い結婚」だった。
そこに性交渉はなく、ただ「王女を娶った」という名誉を夫に与えるために存在する。
愛や心の交流などいらない。
だって、夫の愛は誰かのものなのだから。
自分はただ、なんらかの功績によって与えられたモノでしかない。
自慢げに見せびらかすことはあっても、記念品に愛情を示すものなどいない。
「お待たせしました。特に問題はありません」
寝室の扉が開き、騎士が顔をのぞかせた。
「ありがとう」
ヨハンシュが礼を告げるので、その隣でフォーゼも頭を下げた。
騎士は室内の騎士たちに合図をすると、ふたたび一礼をして寝室を出て行った。
「さあ、どうぞ」
ヨハンシュがフォーゼの背をそっと押してくれる。
今日の宿泊地は侯爵領のほど近く。
この距離ならいっそ夜間も馬車を走らせて入領してしまえばいいのにと思うが、ヨハンシュは予定通り宿へと馬を向けた。
食事をとり、湯あみを済ませると、ヨハンシュは騎士たちに再度寝室に危険個所がないかどうか騎士たちに調べさせる。
これはいつものことだ。
フォーゼは室内に入った。
穏やかなランタンの光が照らす室内。
猫足の机がひとつと、椅子がふたつ。
それから小さめのチェストと。
大きめのベッドがひとつ。
「明日は我が兄が治める侯爵領へと入ります。兄や兄の妻と会っていただくことになりますので……。たぶん、その大変お疲れになるでしょう」
少しだけヨハンシュは口の両端を下げて困った顔をした。
なんだろう、と小首をかしげると、ヨハンシュはすぐにいつもの表情に戻した。
「なので今晩はゆっくりとおやすみください」
今晩《《も》》、なのだが。
そんなことをフォーゼが思ったのは。
毎晩、ヨハンシュはそう言って隣の寝室に行くからだ。
「俺は隣にいます。なにかあれば枕元のベルを鳴らしてもらうか、壁をノックしてください」
案の定、ヨハンシュは優しく微笑みながら言う。
「わかりました。いつも心遣い、ありがとうございます」
「そんな。夫婦なのだから当たり前ではありませんか」
言いながら、そうなのかな、とフォーゼは思う。
もちろんフォーゼは『白い結婚』を望んでいる。
互いに一定の距離を保ちつつ、互いに干渉せず。
願わくば仲良くそんな関係を維持できれば。
そうすれば、父王がなにか言い出した時にも、お互い傷を最小限にして離れることが可能だ。
今回で言えば、フォーゼは一年後にでも、「子ができない」ことを理由に離縁を切り出そうと思っている。
そのためには、性交渉があっては困る。
(……ヨハンシュ卿も私と同じ考えなのかしら)
穏やかに微笑むヨハンシュを見上げ、フォーゼはそんなことを思う。
体調が回復し、侯爵領に向かって出立した時、フォーゼが一番に頭を悩ませたのは、「寝室問題」だ。
ヨハンシュとフォーゼは結婚した。
結婚している。
対外的には性交渉を持ってもなんら問題がない関係性だ。
そういう行為をヨハンシュに求められても不自然ではない。
実際、三度目の婚約者はすきあらばフォーゼにそういったことを迫った。
父王から婚約破棄を突き付けられた時は、強引にことに及ぼうとした。そうやって既成事実を作ろうとした。
(ヨハンシュ卿はどのように思われているのだろう)
自分としては白い結婚を希望している。
そう切り出すのは変だろうか。
ヨハンシュを傷つけることになるだろうか。
この穏やかで優しい男性を困らせるだろうか。
「それでは、おやすみなさい」
ヨハンシュはそういうと、静かに寝室を出て行く。
「おやすみなさい」
フォーゼもそう返すと、扉口で足を止め、ヨハンシュは振り返ってにっこり微笑むのもいつも通りだ。
ぱたん、と扉が閉まる。
廊下では低い男性の声が複数。たぶん、護衛とヨハンシュが申し送りをしているのだ。
しばらくすると、隣の扉が開き、足音が消える。
ここまで。
いつも通りだ。
(私としてはありがたいのだけど……)
フォーゼはベッドに歩み寄った。毛足の長いじゅうたんが敷かれているので足音もない。
ベッドに座ると、雲の上のようにふわふわした心地だ。
ぽふり、と横向きに倒れる。
なんの衝撃もない。黴臭くもなく、むしろ淡く香るのはラベンダーだろうか。
(ヨハンシュ卿も、こんな関係を望んでいるのかしら)
あれだけの美丈夫だ。女性など引く手あまた。実際、社交界では大層騒がれている。
最初はナナリーのことが好きなのかと思ったが、そうではないらしい。本人が強く否定している。
(領地に、心に決めた方がいらっしゃるとか?)
その方に操を立てている、とか。
ありえそうな話だ。
そんなことを考えて、不意におかしくなって噴き出した。
(違うわ。私のことなどなんとも思っていらっしゃらないのよ)
自分だって、やせぎすの鶏ガラだという自覚はある。
華奢と言えば聞こえはいいが、ようするに栄養不足の発育不全。
二十歳だというのに、胸もお尻もぺたんこだ。
宮廷に出入りしている女官たちの方がはるかに肉感的で女性的だ。
「このままでいいじゃない」
小さく口に出してみる。
寝室を一緒にしないのなら、こんな好都合はない。
このまま一年を過ごせばいいのだ。
一年間だけ。
お父様、どうか一年間だけは離婚を切り出さないで。
そんなことを願いながら。
眠りに落ちたせいだろうか。
怖い夢を見た。
フォーゼは真っ暗な中、階段を駆け上がっている。
どれぐらいの時間、こうやって走っているのかはわからない。螺旋階段は無限に天にのびる蔓のようだ。
喉の奥が痛い。呼吸のたびにヒリヒリする。
だけど走ることやめられない。
足を止められない。
なぜなら。
すぐ近くまで真っ黒ななにかが追いかけてくるのだから。
かん、かん、かん、かん。
断続的に続く金属音は、真っ黒ななにかが持つ剣の音。
切っ先を下にしてぶら下げて歩くので、剣が階にあたり、かん、かん、かん、かん、かん、と無機質な音を周囲に響かせている。
フォーゼは息を切らしながら振り返る。
真っ黒いなにか。
それには。
首と思えるものがない。
身体と。
足と。手。
それだけ。
「ひひ」
真っ黒いなにかが笑った。
「お前は俺のものだ」
その声に聞き覚えがあった。
三人目の婚約者。
軍務大臣の三男。
「フォーゼ王女、こっち!」
遥か上方で、思春期特有の声音が聞こえる。
「こっちだ!」
「レオ!」
フォーゼは前を向いた。
レオのいるほうに。
さらに駆け上がる足に力を込めようとしたら。
ごろん、と。
上からなにかが落ちて来た。
ごろん、ごろん、ごろん、ごろん。
球体のそれは転がり。
そしてフォーゼにぶつかって止まる。
息をのんだ。
生首だ。
「なにを驚く?」
にやりと生首は嗤った。
「お前のせいでこうなったのに」
フォーゼは悲鳴を上げた。
喉から声を迸らせたつもりだったのに。
実際には。
「ひ……!」
喉奥がしまってそんな奇妙な声が漏れただけだ。
そして目を覚ます。
バクバクと暴れまわる心臓を寝間着の上から押さえて身体を起こした。
どうやらシーツに入ることもなく眠ってしまったようだ。
身体は冷え切っているのに、額や背中は汗をかいた感じがある。
「あ………」
夢だと思うのに。
喉が詰まってまだ声が出ない。
数年前にはよく見た悪夢だ。
目の前で斬首されたのだから。
自分で自分をなだめ、これは罰だと受け入れて冥福をずっと祈っていた。
(このところ、夢なんて見なかったのに……)
まだ落ち着かない心臓を押さえるように膝を抱えた。
(浮かれていたからだわ……)
美味しいご飯を食べ、王宮を離れ、新天地へ向かおうとした。
過去のことなど忘れて。
自分の行いなど忘れて。
「……ごめんなさい」
小さくつぶやき、涙をこらえる。
そうやってしばらく冥福を祈り。
そしてゆっくりと顔を上げた。
まだ眠ってからそんなに時間は経っていないのだろうか。
薄く開いたカーテンからは月光が静かに忍び入る。
ふと。
壁を見た。
『俺は隣にいます。なにかあれば枕元のベルを鳴らしてもらうか、壁をノックしてください』
彼はそう言っていた。
壁を、ノックしたら。
彼は来てくれるだろうか。
それはものすごい誘惑であり。
ものすごく罪悪感を伴う行為でもあった。
(どうしようか……)
さんざんためらっていたとき。
こつん、と。
硬い音が窓から聞こえて息をのむ。
どうやら甲虫が窓にぶつかっただけだと気づくが、それでも我慢できない不安が胸に充満した。
(ヨハンシュ卿は、ぐっすりと眠っているかもしれない)
自分にそう言い聞かせた。
ノックをして。
ヨハンシュがなんの反応も見せなければそれでいい。
ヨハンシュが眠っていればいい。気づいてくれない方がいい。
自分にはまだ《《罰》》が必要なのだ。
この恐怖や一方的な憎悪に向き合わなければいけないのだ。たったひとりで。
そうして祈りながら夜を過ごせばいい。
フォーゼは大きく息を吸い、震える手で壁をノックした。




