16話【ヨハンシュ】カフェ
「あ……。オレンジピールですか」
向かいに座るフォーゼが目を丸くする。そして満足そうに微笑んだ。
ヨハンシュはほっとした。どうやらこの店はあたりだ。
なにしろあの、パン粥を食べたときのようにフォーゼの瞳孔がぎゅっとしたのだから。
「お好きでしょう、そういうの」
そう声をかける。
彼女はじっくりと堪能しながら、深く、そしてしっかりと味わってから返事をした。
「はい」
と。
ヨハンシュはこんなに大切に食事を味わう令嬢を知らない。
村娘ならいざ知らず、フォーゼはどんな食事でも大事に大切に食べる。とても美味しそうに。
もちろん苦手な味付けもあるのだろう。そんなときはかすかに首を左右に揺らす。
だけど残すことはない。「これはこういう味付け」。それを楽しむように味わう。
こうやってカフェに連れ出し、食事以外のなにかを彼女に与えるのは、もちろん栄養を補うためでもあるのだが。
いつの間にか、ヨハンシュは彼女が嬉しそうに食事をする姿を見るのが楽しみになっていた。
ふと店内にいる女性客の視線や、自分の外見に関する小声が聞こえてきた。
だがまったく興味がない。
彼女たちはこんなにおいしそうに、そして大事に食事をしないからだ。
だが。
チョコタルトの味を全身で味わっていたはずのフォーゼが急にうなだれ始める。
さっきまでふわふわとしていた髪の毛まで、しょぼぼんとしおれ始めた。
なんだ、どうした、と。
ヨハンシュは彼女の頬に手を添えた。
この王女は、ときどきしなびた植物のようになってしまう。
「またなにか考え事ですか?」
「いえあの……。なんか申し訳なくて……」
「申し訳ない?」
「私みたいなのがヨハンシュ卿のおそばにいてもいいんでしょうか……」
何を急に、と思うと同時に噴き出したくなる。
身分差からいうと、彼女の方が高位であるというのに。
「それを言い出したら、俺のほうが確認したいですよ。王女を娶るような資格はありますか、と」
「それは武勲を立てられたのですから!」
「よかった」
「……ですが、金銀財宝のほうが価値がありますよね……。王女だとしても、ナナリーのほうがきれいで……」
ナナリー王女?と内心で首をかしげる。
そういえば披露宴でもそのようなことを口にしていたな、とヨハンシュは思った。
ここはしっかりともう一度否定しておかねば。
「なんだか以前もそのようなことをおっしゃいましたが、ナナリー王女のことはなんとも思っていませんから」
さすがに、あんな意地悪女は嫌いだと言えない。
「いや……あの、でも花束を……」
「花束? ああ、あれはフォーゼ王女のために持参したんです。途中でナナリー王女にお会いして、『姉に渡しましょうか』とおっしゃったのでお渡ししただけで……」
そうだ、あのあと花束は捨てられたんだっけ、と思い出す。
最悪だな、あの女。
あのときもしヨハンシュがそのまま屋敷に帰っていたら。
フォーゼと出会っていなかったら、きっと好き放題言っていたのだろう。
『せっかくヨハンシュ卿が花束をくださったのに、お姉さまったら捨てたのよ』とか。
いや、ひょっとしたら自分が知らないだけで宮廷では吹聴していた可能性もある。
「そ、それはなにか手違いがあったようですね」
「でしょうね」
「あ、あの。このケーキもそうですが……。その……。私の好みをすごくよくわかってくださって……」
「よかった。なにより嬉しい言葉です」
「やはり軍人さんという方は、よく人を見ているのでしょうね。レオが……」
不自然にフォーゼは黙り込む。
しまった、とでも言いたげな顔だ。
(レオ……? 男名か?)
もちろん『レオナ』という場合もあるだろうが、一般的に考えればこれは男の名前だ。
しかも彼女はかなり親し気に呼んだ。
(ここはつっこんだほうがいいか……?)
あとから気になって「あの、あのときのレオって誰です?」というのは不自然だ。
「レオ?」
ヨハンシュはおうむ返した。
「その……、えっと」
「王女の口から個人名をお聞きするのは珍しいな、と。無理強いはしませんが、どなたなのか気になって」
一応、逃げ道も用意した。
彼女が話したがらなければ、兄に相談して「レオ」なるものを探せばいい。
ヨハンシュがじっと待っていると。
フォーゼは腹をくくったように目をすえ、チョコタルトを全部口に放り込んで食べた。
「私が二度目に婚約をしたひとで……。伯爵家の次男でした。レオという少年で」
あ、とヨハンシュは心の中で声を上げた。
(なるほど、婚約者か!)
最初の婚約は確か6歳かそこらだった。おそらくそんなに覚えてはいまい。
だが、二度目となると12歳だったはず。多感なころだ。
(まじかよ……。婚約破棄を繰り返しているときいたから……)
まさか心が通い合うような存在はいないと思っていた。
思い込んでいた。
兄だってそうだろう。だから『溺愛せよ!』としきりに言う。
ヒナが殻をやぶって初めて見たモノを信頼するように。
そうやって愛情を注いだ初めての男になれ、と兄は指示しているのだろうが……。
(レオ……? 俺とそんなに年が違わないはずだよな)
どんな奴だ、と記憶をたぐる。
「彼は将来、どこかの騎士団に入りたいと言っていました。そのために剣技も磨いていて……。当時からヨハンシュ卿のことを尊敬していて」
「俺、ですか」
意外だ。向こうはこっちを知っていたらしい。
「ヨハンシュ卿はそのころから有名で。レオはよく口にしていました。『ヨハンシュ卿のようになりたい』と。そのためには、相手をよくみなくては、と」
「確かに剣技は……というか、剣技に限らず、武芸というのはみなそうかもしれません。自分がこうしたい、と思ったら、まず相手にそうしてもらわなくてはいけない。そのためにどう相手に働きかけるか、それが」
言いながら、だんだん情けなくなってきた。
これはつまり今の状況にも当てはまるのではないのか。
フォーゼに惚れてもらいたくて。
そうしないと侯爵領があぶないから。
だからよく見て、観察して。彼女が自分に惚れるようにと相手に働きかけているが……。
(兄上……。ちょっと厳しいかもしれません)
落ち込んだ顔を隠すように、お茶を飲んだ。
そうやって時間を稼ぎながら、ふと思う。
(だが、そのレオとやらのようにふるまえばいいのでは?)
彼女はレオを好いているようだ。であるならば、レオっぽく行動すれば、フォーゼも次第に自分に心を許すのではないだろうか。
(だが、念のために確認をしておこう)
ヨハンシュは、そっとフォーゼに話しかけた。
「そのレオ卿のことが、とても大事なのですね」
フォーゼはきょとんとヨハンシュを見つめたが、にこりと笑ってうなずいた。
「ええ。とても」
彼女の笑顔を見て、ヨハンシュは愕然とした。
(もうだめじゃん! まだ惚れてるんじゃねぇか、これ!)
途端に喉が渇き、脱力感に襲われる。
ヨハンシュは頬を引きつらせて、カップのお茶を飲み干した。
(ひるんでばかりはおられん! 敵を攻略するには、まず知らねば!)
座りなおすと、フォーゼに言う。
「よろしければ、ですが。そのレオ卿のことをお話いただけませんか? もちろん、お断りいただいても……」
「そんな! 私もお話を聞いていただけるならこんな嬉しいことはありません! レオもきっと喜びます!」
そしてフォーゼは話し始めた。
めちゃくちゃ話し始めた。
止めるところがわからないぐらい、話し始めた。
うんうんと相槌を打っていたが、そんなものは必要がないほど彼女はしゃべりまくった。
どちらかというと憑かれたように話し始めた。
そして唐突に。
ボロボロと涙を流したのだ。
「あ……王女」
ヨハンシュはハンカチを差し出す。彼女はそれを受け取り、ぐすりと鼻を鳴らした。
「ご、ごめんなさい」
「俺の方こそ、無理させたようで……」
「いえ、違うんです。嬉しいんです。だって、レオのことを話すことで、ヨハンシュ卿も彼のことを知ってくれて……」
彼女は非常に安堵した様子でヨハンシュを見つめる。
「私だけしか彼を知らないなんて……。そんな悲しいことがもうなくなったんですもの。ありがとう、ヨハンシュ卿」
晴れやかに笑う彼女を見て、内心、ヨハンシュは絶望した。
もう、これ無理だ……と。
彼女の心の中にいるレオに勝てそうにない、と。




