77 ミタカ家の朝
(この状況で正体を明かしたら、どうなるかしら?)
モトキがセラフィナに転生した際に存在を隠したのは、簡単に信じてもらえない可能性が高いことと、信じてもらえた際に、関係が壊れることを警戒した為である。
全ての人が、ソフィアやアンネリーゼのように、受け入れてくれるとは限らないのだ。
そして今のセラフィナは、受け入れてもらえない可能性が非常に高い。
何故ならモトキの人格が行方不明だからだ。
(あの2人からしたら、モトキの気が狂ったか、幽霊に取り憑かれたと思われるわね。なにせモトキが居ないのだから……)
ソフィアとアンネリーゼも、セラフィナの存在が消えていたら、受け入れることは出来なかっただろう。
今は当時と似ているようで、前提条件が全く違うのだ。
(2人ともモトキを取り戻す為に全力を尽くすでしょうね。それはいいけど、その過程で私が疎まれるのは嫌ね……)
セラフィナは、イサオキとエアと初対面である。
しかも本人ではなく、夢の中の虚構である可能性が高い。
それでもモトキが愛する弟と妹に、嫌われたくはなかった。
モトキがセラフィナの愛している人を好きでいるように、セラフィナもモトキが愛している人を好きでいたいのだ。
(夢から覚めた時、いい夢だったと思えるように頑張らないとね)
セラフィナは、イサオキとエアの方に視線を向ける。
2人は、時折セラフィナに心配そうな視線を向けながら、着々と出かける準備を進めていた。
(イサオキは医者で、エアは学生だったわね。モトキはミタカ家の家事を一手に引き受けるお母さん。家事……は右腕に任せるとして、他にやることは……)
セラフィナは、モトキとの記憶を呼び起こす。
すると1つの日課を思い出した。
(モトキは毎日、エアの髪を結っていたと言っていたわね)
セラフィナは、さっそくエアの方へ向かった。
「エア、髪を整えてあげる」
「大丈夫? 無理してない? 辛いなら休んでいていいんだよ?」
「大丈夫大丈夫。ほら、座って」
「……ブラシは?」
「……どこだっけ」
セラフィナの大丈夫には、もはや欠片の説得力もなかった。
「エア、兄さんの好きにさせるんだ。それがきっと、兄さんの安らぎになるはずだ」
「う、うん……」
イサオキは、完全にモトキが心を病んでしまっていると思っている。
そうだとしたら、弟と妹との触れ合いこそが、モトキにとって一番の薬になることは間違いない。
「大丈夫! 本当に場所を度忘れしただけだから! 私」を信じて!」
「モト兄を疑ったりしないよ」
エアは即答する。
例えモトキがどれだけ狂ったとしても、その信頼が揺らぐことはない。
エアの懸念事項は、モトキの体調不良の一点のみなのだ。
(名誉挽回のチャンス! 頼んだわよ、モトキの右腕!)
当然セラフィナに、人の髪を結う技術などない。
全ては勝手に動く右腕頼りだ。
セラフィナは、エアが持ってきたブラシで髪をとかすと体の力を抜いた。
すると右腕が勝手に動き出し、エアの髪を結っていく。
例えそこに意識が存在していなくても、モトキのエアに対する愛は揺るがない。
右腕は、あっと言う間にエアの髪型を完璧に整えたのだ。
「どう?」
「うん、完璧だよ。ありがとうモト兄」
エアは、ようやく見せたモトキの普段通りの姿に、安堵と喜びの表情を浮かべた。
それからイサオキとエアは、出かける準備を終え、セラフィナは2人を玄関まで見送る。
「それじゃあ行ってくるが、くれぐれも無理はするな。連絡があれば即座に駆けつける」
「モト兄が助けを求めてくれたら、連絡する前に飛んでくるよ」
「大丈夫だって。2人とも心配性だなぁ」
「そうだ。今日の夕食は私が作るわ。だからモト兄はゆっくりしていて」
それは素直に助かった。
他の家事はまだしも、流石に右腕のオートだけで、料理を作ることは不安だったのだ。
転生した後のモトキも、片腕の調理には、慣れるまで時間が掛かっていた。
セラフィナは、それをモトキとして不自然ではないように了承する方法を考える。
「エアの料理か……。それは確かに魅力的だ。それじゃあお願いしようかな」
「うん、任せて! それじゃあ――」
エアはセラフィナの頬にキスをする。
あまりに突然のことに動揺するセラフィナ。
続いてエアは、イサオキの頬にもキスをする。
しかしイサオキは、当然のことのように受け入れていた。
「いってきまーす!」
「いってくる」
「いってらっしゃーい……」
セラフィナは、上の空になりながら、2人を見送った。
「……地球ではこれが普通なの?」
外出の際にキスをする行為には、様々な利点があった。
キスをすることで意識がハッキリし、交通事故に遭い辛くなる。
やる気が向上し、年収が平均で25パーセントほど上がる。
免疫力が向上し、病気になり辛くなり、寿命が延びる。
ホルモンが分泌されることで美容にも良い、等の効果があるのだ。
このように圧倒的な利点があるのだが、地球ではそこまで一般的なものではない。
精々、付き合いたてのバカップルや、ラブラブ新婚夫婦くらいのものだろう。
ましてや兄妹で行っているのは、かなり稀有な例である。
そしてエアが、このような効能を意識して、頬にキスをしているのかは不明である。
「……まあ、モトキの妹だしね」
愛情表現で抱きついたり、頭を撫でたりする、モトキの妹である。
そう思うと、大抵のことは受け入れられたのだ。
「さて、私も出かけようかしら」
2人からは遠回しに、家で大人しくしているように言われたが、それではセラフィナの好奇心は収まらない。
この夢の世界には、セラフィナにとって未知なる異世界なのだから。
セラフィナは出かける準備をする。
その際に必要なものである、玄関の鍵を探しているのだ。
「外出する再に、玄関の施錠は必須。なのよね?」
城暮らしのセラフィナに、玄関の鍵を閉める経験などない。
それでも蓄えた知識から、施錠の重要性は理解できた。
もっとも夢の中で泥棒が現れるかどうかは疑問だが。
「鍵穴の形から推測するに、玄関の鍵はおそらくこれ……。これ、本当に鍵?」
セラフィナが見つけた鍵は、凹凸のない、真っ直ぐで平たい棒。
その側面に溝が掘ってあるだけのシンプルなものだった。
セラフィナの知る鍵とは、掛け離れた形状をしているが、とりあえず玄関の鍵穴に差し込む。
「閉まった。どういう構造なのかしら? 不思議ね」
セラフィナは、玄関の鍵をバラしたい欲求を押さえ込み、家の外に出る。
アスファルトで舗装された道と、コンクリートブロックの壁。
どちらもアステリアでは見られない意匠だ。
少し歩いたところには車道があり、そこには自動車が走っている。
「あれがジドーシャ! 動物に引かせるのではなく、燃料を燃やすことで走る馬車!」
一応、青の国でも似たようなものは開発されていた。
しかし燃料の安定供給の難しさと、飛行船と違って、馬車に代わる利点が少ないことから、計画は凍結しているのだ。
通勤時間な事もあり 、車道にはかなりの数の自動車が走っていた。
それはモトキに聞き、想像していたものより早く、多く、精錬された形状をしている。
「あれって家庭や個人単位で所有しているものなのよね! しかも一般市民が! 凄いわ、地球!」
セラフィナの脳が、激しく活性化する。
セラフィナは、今ここで魔術研究が出来ないことを残念に思う。
それと同時に、これから待ち受けているであろう、未知なる世界に、胸の高鳴りを押さえられなかった。
(おっといけない。危うく夢中で駆け出すところだったわ。ちゃんと家からの道順を覚えておかないと)
迷子になったら一貫の終わりである。
セラフィナには、住所も電話番号も分からないのだから。
(あれ……看板よね? 文字が読めない。けど会話は出来るという事は、神の加護が働いてるということかしら?)
モトキの神の加護には、健康になる効果と、言葉を翻訳する効果がある。
しかし文字を翻訳する効果はないのだ。
(それにしても、夢の中にしては随分と法則がガッチリしてるわね。心の中の部屋みたいに、思ったものを出せるわけじゃないし)
セラフィナは、一度は切り捨てたタイムスリップの可能性を、再び疑いだした。
この世界が全て夢と談じるには、あまりにも現実的過ぎるのだ。
(夢ならいずれ覚めると思っていたけど、帰還方法を真面目に考えた方がいいかしら?)
しかしセラフィナには、原因に一切心当たりがなかった。
この世界で手掛かりを見付けるにしても、周りには未知なる物でいっぱいだ。
1つを怪しめば、全てが怪しく見えてしまう。
(……無駄な行為ね。成る様にしか成らないわ。せめてこの機会を有効利用しましょう)
希望的観測は危険だが、解明不可能な謎に拘り、身動きが取れなくなることは愚の骨頂だ。
セラフィナは、抱いた不安を心の隅に避けておき、当初の予定通り、夢という前提で楽しむことにした。




