ネガティブガールは切りすぎる
「あっ」
ジャキン、という嫌な音とともに、髪の束がばさりと落ちた。
とりかえしのつかない事態に、私はハサミを片手に一人絶望する。おそるおそる鏡を見ると、明らかに前髪を切りすぎた、おでこ丸出しの私が映っていた。
「うわあああああ……や、やっちゃった……」
洗面所で一人、頭を抱えてしゃがみこむ。こういうの、なんて言うんだっけ。覆水盆に返らず、後の祭り、それから、切った前髪は元に戻らない。
ああ、どうして数十分前の私は、自分で前髪を切ろうだなんて思ったんだろう。ちょっと伸びてきて鬱陶しいな、少しだけ整えようかな、だなんて甘い気持ちでハサミを手に取るべきじゃなかった。そんなに器用でもないくせに……。
私は気持ちを落ち着けるべく、スマートフォンを手に取って、[髪の毛 伸びるスピード]で検索した。どうやら、一週間で2.5ミリぐらいで伸びるみたいだ。ああ、当たり前だけど遅すぎる。頭皮を引っ張ると多少早く伸びるらしい、なんて意見を見かけて、切りすぎたところをぐいぐい引っ張ってみたけれど、すぐに効果が出るはずもない。
どうにかしようと頑張ってみたけれど、どうにもならなかった。諦めた私は、絶望的な気持ちで眠りにつく。ああ、朝起きたら全部夢で、私の前髪が元通りになっていますように……。
当然のことながら、目が覚めても全然元通りにはならなかった。
いつものように髪をふたつ結びにして、前髪を分けてみたり、斜めに流してみたりしたけれど、丸出しのおでこは隠しようもない。お母さんから「紬、遅刻するよー」と言われ、泣く泣く家を出た。
ふとした瞬間に、じっと下を向いたまま、学校へと向かう道をトボトボと歩く。ああ、絶対絶対誰にも会いませんように。いや、登校中に誰にも会わなかったとしても、教室に行けば絶対みんなに会うんだけど……ああ、学校行きたくない……。
こんなに学校に行くのが憂鬱なのは、ずいぶんと久しぶりのことだ。一学期に、歌のテストがあった日以来だろうか。瀬那くんとお付き合いを始めてからは、早く学校で瀬那くんに会いたいな、と思う日の方が多かったのに。私は今、瀬那くんと付き合ってから初めて、瀬那くんに会いたくないと思っているかもしれない。いや、もう少し正確に言うと。瀬那くんに会いたくないわけではなく、瀬那くんに自分の姿を(具体的には前髪を)見られたくないのだ。
ああ、どうして私たちは同じクラスなんだろう。昨日までは、瀬那くんと同じ教室で勉強できる幸福に感謝さえしていたのに。今は、すぐにでもクラス替えをしてほしい。
信号待ちのあいだに手鏡を出して、こっそりと覗き込む。こんな私の姿を見て、瀬那くんはどう思うだろうか。ガッカリされちゃうかな……なんて考えてから、ハッとした。ガッカリという感情は、少なくとも今は好意的に見られている、という前提のもとに成り立つものだ。私はいつのまにか、瀬那くんから「可愛い」と思われることを当たり前のように受け入れていたのだ。ああ、なんて図々しいんだろう……今すぐ切腹した方がいい……。
「つーむぎちゃん!」
「ヒャッ!?」
ぽんっ、と背中を叩かれて、私は文字通りその場で飛び上がった。私相手にこんな挨拶をする男の子は、世界にたった一人しかいない。
「おはよ! 今日、ちょっとゆっくりじゃない? 朝から会えてラッキー!」
私の前に素早く回り込んできた瀬那くんは、いつもの光り輝く太陽のような笑顔を向けてきた。私は反射的に両手で前髪を隠して、「お、おはヨうごザいます」と裏返った声で挨拶を返す。
「せ、瀬那くん……えっと、今日、朝練は?」
「今日は監督の都合で休み! 紬ちゃん、何やってんの?」
頑なにおでこをガードする私に、瀬那くんは訝しげな視線を向けてくる。
「な、な、ななななんでもないです……」
「おでこ、どしたの? 怪我でもした?」
「いや、まったく……そのような事実はございません……」
「もしかして、前髪切りすぎたとか?」
「うぐっ」
名探偵瀬那くんが、あまりにも早く真実に辿り着いてしまった。どうしてこんなときだけ鋭いんだろう。俯いて黙り込む私のことなどお構いなしで、瀬那くんはぱあっと瞳を輝かせた。
「えー、見たい見たい! 紬ちゃん、いっつも前髪長めだもんな!」
「む、むむむむむむりです……! 瀬那くんだけには見せられない……!」
顔を覗き込んでくる瀬那くんから逃れるように、ぶんぶんと必死で首を横に振る。図々しいけれど、烏滸がましいけれど。私はこの世界でたった一人、瀬那くんにだけは、「可愛い」と思われていたいのだ。みっともない前髪を見せて、幻滅されたくはない。
「そんなこと言っても、今日その状態のまま授業受けるつもりなの?」
「う……」
「どうせ後から見るんだから、今見ても同じだって! それなら、クラスの奴より先に見たい! 絶対!」
ダメ? と甘えるように首を傾げる瀬那くんに、私はぐぬぬと声を漏らした。もう、ずるいよ。私、瀬那くんのそういう顔に弱いのに。期待のこもった視線に押し負けた私は、おずおずと口を開いた。
「……わ、笑わないって約束してね?」
「ん、誓います」
「ほんとに、前髪切りすぎて……あの、こけしみたいになってるっていうか、いや、こけしの方がまだ可愛げがあるというか……こけしに例えるのはこけし職人さんたちに申し訳ないというか……」
「もーいいから、大丈夫だよ。ほらほら、早く」
焦れた瀬那くんに急かされて、私は渋々両手を離した。隠されていた額が露わになる。うう、笑わないでって言ったけど、いっそ笑ってくれた方がマシだったかもしれない……。
耐え切れずに下を向こうとすると、むぎゅっと両手で頬を挟んで止められた。瀬那くんの黒い瞳が、まっすぐに私を見つめている。オロオロと視線を泳がせる私に、瀬那くんはまっすぐ私の目を見つめて言った。
「え、めっちゃ可愛いじゃん!」
「……ありがとう、優しいね」
気を遣ってくれてるんだよね、という言葉が喉元まで出かかったところで、瀬那くんが私の言葉を遮るように口を開いた。
「あのさ! 紬ちゃんのことだから、どうせオレが気ィ遣ってる~とか思うだろうけど、本気で言ってるよ」
「……ほ、ほんと……?」
「うん、ほんと。超可愛い」
瀬那くんはニコッと八重歯を見せて笑うと、愛おしそうに私の額を撫でた。その表情と手つきだけで、彼の言葉に嘘がないことが伝わってきて、頬が熱くなる。彼の「可愛い」の一言だけで、さっきまでの憂鬱なんて、いとも簡単に吹き飛んでしまった。瀬那くんは、やっぱり不思議な人だ。
「いつものやつも可愛いんだけど、やっぱ顔が見えてる面積が広いとお得な感じするよなー」
「お、お得……なの?」
その感覚は、私にはよくわからない。瀬那くんはキョロキョロと周囲を見回して、誰もいないのを確認してから――私の額に軽く唇を押し付けてきた。
「フギャッ!?」
突然の出来事に、私はおかしな叫び声をあげて後退りする。瀬那くんはケタケタ笑い声をたてると、「ごめんて」とちっとも悪びれない様子で謝った。
衝撃で口をぱくぱくとさせている私の手を、瀬那くんは笑って掴んでくる。掴信号が青に変わると同時に、足取りも軽く歩き出した。こちらを振り向いて、悪戯っぽく笑う。
「その前髪、オデコにちゅーしやすくていいかも!」
「ヒエエ……」
もちろん嬉しくないわけではないけれど、こんなことを頻繁にされたら、そのうち心臓が止まってしまいそうだ。私は瀬那くんに手を引かれて歩きながら、もう前髪を自分で切るのはやめよう、と心に誓った。
書籍版がことのは文庫より発売中です! よろしくお願いします!




