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15.#風呂が好きだ!(4)

「――……ああ、すんごい、気持ちいー! ほら、マリー。もっとのびのび足を伸ばしていいのよ」

「ほら、こうしてタンジェの皮を身体にこすりつけると、いい香りがするぞ。……マリー、髪を上げないと、湯の中に広がってしまう。気持ちが悪いだろう。結わえてやろうか?」

「い……いえ! いいです! も、もう、髪ごとオンセンに浸かる感じで! これでいいんです!」


 湯を跳ね上げる音とともに、そんな女性陣の声が響く。

 きゃっきゃっと華やかな感じから察するに、三人ともこの温泉を大いに気に入ってくれたらしい。


 そう。

 彼女たちは熱心にマンティコア温泉の検分を終えて、無毒無害どころか、目の前のそれが、実に体によさそうな自然の風呂であることを理解すると、その場で入浴すると主張しはじめたのだ。


 彼女たちとて、女の子。

 マリーに気を使ってなにも言わなかったが、本当はあの宿に着いた時点で、俺と同じかそれ以上に、身をきれいにしたい欲求は高まっていたのだろう。


 そんなわけで、現在、いまだ日も高い時間でありながらも、湯けむり旅情な展開は敢行されている。


 真っ昼間とはいえ、情緒豊かに漂う白い湯気。

 ごくわずかに熱いと感じるくらいの湯、華やいだ三人の美少女。

 実に、実に完璧である。


 ――俺と彼女たちの間に、無粋な流木の壁さえなければ。


「くぅ……っ」


 俺は流木を睨みつけながら、湯をばしゃんと叩いた。


 この壁、ちょうどマンティコア像から向かいの岸に伸びるような形で、一直線に風呂を二分割しているのだ。

 おかげで、向かって左側の湯に浸かっている俺は、先ほどからマンティコアの左の横顔ばかりを睨みつけているような格好だ。


 俺の馬鹿野郎、世界の馬鹿野郎!

 なんで混浴にデザインしなかった!

 この流木の壁、隙間から女湯が見えなそうで見えそうで――見えないんだよこんちくしょう!


 肉体的にはものすごくリフレッシュというか、生き返る感じがするんだけれども、精神的には生殺し。

 まさに生と死が凝縮された現場だ。


 あんまり間仕切りに近寄っては、聞き耳を立てていることがばれてしまうため、やむを得ず女湯とは反対の端で体育座りをしている俺なのだったが――


 今マリーがほうっと息をついて呟いた「アメリアさん、どうしたらそんなに大きく……」とか「エルヴィーラさんも、本当に色がきれいで……」とかのね、微妙に漏れ聞こえる声がね、もう気になって気になってしょうがない。


 マリー、そういうことは、もっと声を大にして、微に入り細を穿って描写してくれないかな!?

 頼むから!


 しばらくの間、遠距離から耳をダンボにしていた俺だが、やがてのぼせてきてしまい、もう上がろうと考える。


 隣を流れる川はもう少し温度が低いので、ちょいと水風呂でも、とざばざば温泉の中を横切りマンティコア像のほうに向かっていたら、その像の向こう側からひょいと、マリーが顔だけを覗かせた。


「あっ、ターロさん、もう上がりますか?」

「うおあ!」


 突然のことに度肝を抜かれ、思わずざぶんと肩まで浸かる。

 いや、腰に布は巻いてたし、男だから胸くらいは見られて全然問題ないんだけど――マリー!

 描写はしてくれと言ったけど、突然実体が現れるとなるとね、心の準備が!


 念願の風呂に浸かれた彼女は、いつも以上に愛らしい顔で、こちらに笑いかけてくれる。

 身体が温まったためか、色白の頬はほんのり上気し、湯で湿った髪が額や首筋に張り付いているさまは、ただひたすら眼福でしかなかった。

 ぴょこんと生えた狐耳も、先っぽをしっとりと濡らして、つやつやと毛並を光らせている。


「私たち、もうちょっと長く浸かってていいでしょうか?」

「いいい、いいもなにも、そ、それはもう、うん、個人の自由だから! うん、ぞんぶんにどうぞ!」


 無意味に顔を拭いながら、盛大に言葉を詰まらせて答えると、マリーはふわっと笑みを深めた。


「うれしい」


 その至近距離のはにかみに、もう心臓がどかんと爆散しそうになる。

 だってあなた、こんな美少女が、ケモ耳をぴこぴこさせながら、頬を染めて、ちらっと見える鎖骨にぽたりと湯の滴をつたわせて、とろけそうな笑みを浮かべてくれるなんてシチュエーション、俺の人生にはなかった。

 全部の要素が……尊い。


「マママママリーが、そんなに気に入ってくれたんなら、よ、よかった。ア、アメリアやエルヴィーラは?」

「アメリアさんは、こんなに広くて深い浴場は初めてなので、ちょっと泳いで回りたいとのことで。エルヴィーラさんはこの湯だと髪がしっとりするということで、念入りに髪を洗っています」

「あー……」


 それ、外国人がやらかしがちな、温泉でのNG行為の代表例だけどね。

 この世界では咎める人も俺しかいない。

 俺は少しだけ考えてから、


「はしゃぐほど気に入ってくれて、よかった」


 そんな控えめなコメントをするに留めた。

 と、マリーがふふっと上機嫌に笑みをこぼす。


 彼女は流木の壁に両手を掛けると、そっと顔を寄せ、こちらを見つめてきた。


「あの」


 下ろしたままの柔らかな髪から、ぱた、と滴がこぼれる。

 それを無意識に目で追ってしまった俺に、彼女は囁くように告げた。


「ありがとうございます」

「え……?」

「お風呂に入りたいっていう夢を、叶えてくれて。いえ、そもそも、スペルで私たちを守ってくれたお礼を、まだ言えてなかったですね。……ターロさん、ありがとうございました」


 面と向かって言われ、思わず言葉に詰まる。

 俺は、ちょっと照れて、頬を掻いた。


「いやまあ……こんなスペルに、お礼を言ってもらう必要はないっていうか……」


 ONSEN、だなんてスペルがこんな風に作用するなんて、もちろん願った展開ではあるものの、もはや奇跡だ。

 偶然まぐれ当たりを引いただけであって、自らの力で敵を倒し仲間を守ったのだという実感は、俺にはなかった。


「どっちかっていうと、俺は……、謝りたい気分だよ。せっかく異世界人なのに、全然スペル、使えなくってさ」


 先ほどの場面が蘇る。

 剣を振り、魔術を紡ぎ、人をかばって立ちはだかった三人とは裏腹に、ただ無様に尻もちをついていた俺。

 英語圏の人間なら、子どもだって簡単に唱えられるだろう単語を、発音できないばかりか、思いつきもしなかった俺。


 もっと……もっと、英語が得意だったなら。

 もっとスペルを自在に操れたなら。

 こんな棚ぼた的なシュール系魔術ではなく、火や水を操って、きっと格好よくマリーたちを守れていたのに。


「……さっきだってさ、マリーたちに守ってもらってばかりで。スペルも全然上達しないし、チキンだし……はは、あのときは尻もちなんかついて、すげえカッコ悪かった――」

「ターロさん」


 自己嫌悪の言葉は、凛とした声に遮られた。

 いつの間にか俯いていた顔を上げる。マリーが、じっとこちらを見ていた。


「カッコ悪くなんか、ないです」

「え…………」

「私、ちゃんと見てましたよ」


 戸惑う俺に、彼女は小さく微笑んだ。


「ターロさん、制止系のスペル、かなり上手に唱えられるようになっていたじゃないですか。今回はたまたま効かなかったけど、でも、教師もいないのによくそこまで、って思いました。練習の成果、ですね」


 練習、と言われ、思わずまじまじとマリーのことを見返してしまう。

 すると彼女は、ぺろっと桃色の舌を出した。


「見ちゃったんです。私たちが寝た後、ターロさんがスペルの練習をしてるところ」

「え……っ」


 虫相手にウェイウェイ言ったり、ふぁぃあぼーぅとか、えせネイティブな発音を追求しては恥ずかしさに悶絶したりしている現場をか。


 硬直してしまっていると、マリーは濡れた手を伸ばし、そっと、俺の腕に触れた。

 それから、ものすごく集中するような顔になって、こう俺のことを呼んだ。


「――たろぅ、さん」


 どくん、と心臓が高鳴る。

 それは、この世界にやってきてから、初めて太朗と名を呼んでもらえた瞬間だった。


 マリーは、「合ってます?」という顔つきで、ぴょこんと耳を動かした。

 そして、ちょっとだけ笑った。


「外国語を正確に発音するのって、難しいですよね。名前を正しく呼ぶだけでも、こんなに大変」

「…………」


 俺はただ、ぼうっと彼女のことを見つめていた。

 マリーは、きゅ、と腕に縋りつくようにして、続けた。


「私たちからすれば、スペルは『異世界の言葉』だけど、ひとくちに異世界語とは言っても、それは、ターロ……たろぅ、さんの母国語じゃないんですよね。母国語じゃない言葉を話すのって、すごく、気を張ると思います。それも、下手に発音したら、どんな事態に陥るかわからない状況で」

「…………」


 優しい言葉に、なんだか込み上げるものがあって、慌てて口を引き結ぶ。

 まさか、そんなことを言ってもらえるだなんて、思ってもみなかった。


 そう。

 俺は、ずっと怖かったのだ。


 米を再現するつもりで、虱を大量発生させてしまった先人。

 入浴するつもりで宿を壊し、パーティーに迷惑をかけてしまった俺。


 ひとつひとつは笑い話のような失敗だけど、でも、次に自分の唱えるスペルが、どんな事態を引き起こしてしまうのかがわからなくて、それが恐ろしかった。


 下手にスペルを開拓することもできず、それに落ち込みながら、わかっているスペルをおっかなびっくり練習するも、やっぱり発音がうまくできなくて。


 馬鹿みたいにウェイウェイ言いながら、その進歩のなさや、情けなさが、見知らぬ土地での孤独や不安と混ざり合って、ときどき泣きそうになったりもしていた。


 それを、見られているだなんて、思わなかったのだ。


 マリーは、労わるような顔で笑った。


「魔術は使うたびに、ものすごく疲れが溜まるんだとエルヴィーラさんが言っていました。ただでさえ見知らぬ土地で、見知らぬ私たちに囲まれて、不慣れなスペルを練習して……。すごく、しんどいことだと思います。それでも頑張るター……たろぅ、さんは、偉いです」


 オンセンのスペルそれ自体ももちろん素晴らしいけれど、と彼女は続ける。


「制止のスペルがすんなり出てくるようになったり、とっさに新しいスペルを試そうとしてくれたりすること。それこそが……だから、私は、すごいなって、思いましたよ」


 頑張りましたね。お疲れ様でした。

 最後にそう付け加えられて、――俺は完全に、言葉を失った。


「……って、なれなれしく触っちゃって、すみません! というわけで、私だけでなくアメリアさんたちも感謝を――……ターロさん?」

「…………お」


 顔が熱い。

 心臓がうるさい。

 再び流木の壁を握りしめたマリーからぱっと距離を取り、俺は叫んだ。


「俺……っ、俺ももう少し、浸かってくる……!」


 そうして、「え?」と戸惑いの声を上げる彼女を残して、ざばざばと湯の中を引き返していく。

流木の壁から最大限距離を取り、ぶくぶくと顔の下半分まで湯にうずめながら、俺は必死に興奮を抑え込んだ。


 ――私、ちゃんと見てましたよ。


 マリーの愛らしい声が、ぐるぐると脳内を渦巻く。

 ざばっと顔を上げて、今度は自分の濡れた掌を見つめた。


 じわじわと込み上げる喜びを噛み締めながら、小さく呟く。


「――……『wait』……『stop』……」


 ぽたぽたと垂れていた滴が、とたんに、空中でぴたりと止まる。

 俺は馬鹿みたいに、何滴も何滴も、滴を宙に散りばめつづけた。


「『wait』、『stop』……」


 地球人を召喚しているというレーヴラインの各国の王たちには、どうか覚えておいてほしい。


 日本人はたしかに、英語(スペル)が苦手だし、主張が下手だし、潔癖症で、頭でっかちで、生命力も乏しいかもしれない。


 でも、――まじめなんだ。

 たった一言、ねぎらいの言葉をもらえるだけで、馬鹿みたいに頑張れるんだよ。


 俺たちを利用するのに、勇者だなんて大層な肩書も、ハーレムだって本当はいらない。

 ただ、偉いねとか、ありがとうとか、そんな言葉だけで、身を粉にして働こうって思えてしまうんだ。


「……『fire ball』」


 ふと呟いたスペルが、初めて世界に認識されて、掌の上にぽうっと小さな火が灯る。

 周りを囲む水滴にきらきらと光を反射させる、一番星のような火の玉を見て、


「――…………っ」


 俺はほんの少し、泣いた。


 こちらに来てから、初めてのことだった。

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