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続いていく毎日

 雨足は弱まり、街は静けさを取り戻していた。

 雨の届かない路地裏。呼吸を整えた矢子とユカは、お互いの姿を見て笑いあった。


 髪は乱れ、化粧は剝げてドロドロ、服には泥が跳ねている。

 ユカはウィッグがなくなって頭はぼさぼさ。それでも服装で女に見えているのが奇跡なくらいだ。

 そしてなんともみすぼらしく、全身から水滴をパタパタと垂らしていた。


「ひどい」


 第一声に、ふたりは揃ってそう言った。

 なにやってんだろう、私たち。


 そしてひとしきり笑った後、どちらともなく手を伸ばし、ぎゅうと抱き合った。体は冷えきっていた。夏の生温い空気の中、ひんやりとした肌を温めあうように背中を擦りあった。


「こわかった……」


 ユカが耳元で小さく呟く。矢子は頷いた。


「ごめんなさい、お父様とあまり関わりたくないのに、我慢できなくて……でも、許せなかったの。あなたは、愛されて大切にされてもいい存在だと、お父様がしなくても私がそうすると、教えたかった」


 そう言うと、彼はちょっとだけ笑って、首を振る。濡れた髪から水滴がこぼれ落ちる。


「違うよ。オレがこわかったのは、矢子さんがいなくなっちゃうんじゃないかってこと」


 殺されてから反省しても遅いんだからね、とむくれながら言って、矢子の耳朶にガブリと噛み付く。声が漏れそうになり、慌ててユカの濡れた肩口に顔を埋めると、雨の匂いがした。


「お父様は、殺し屋かなにかなんですか?」

「ふふ……そんなわけないじゃん。でも、普通ではないよ」


 ユカの父は、この辺りにも店をいくつか持っていて、管理しているらしい。「よく知らないけど、たぶんお金の回収に来ていたのかも」と彼は言う。

 かつてのユカの客も、父の店経由での知り合いや客らしい。彼の『娘』というのも、ユカの身の安全を保証するのに一役買っていた。


 それって────

 いや、口に出すのはやめておこう。これは知らなくてもいい事だ。


「だからもう、あんな無茶しないでね」


 そう言って額をくっつけると頬をつかんだ。軽くつねると、矢子が痛がって目を瞑る。それが可愛くて、鼻先に唇を押しあてた。


「矢子さん、雨の味がする」

「雨の味って、どんなですか?」

「舐めてごらんよ」


 それじゃあ、と遠慮がちにユカの頬を舐めると、彼はくすぐったそうに笑う。


「雨の味って、しょっぱいのね」

「それ、汗だと思う」


 益々笑いが止まらないユカを、矢子はきょとんとしながら見ていた。


 矢子の突拍子もない行動は、いつだって自分を救ってくれると、彼は思った。


 ──彼女のおかげで、やっと本当に呪いが解けたような気がする。


 愛されたいと願うこと。それが彼にとっての呪いだった。

 いつだって期待に応えたくて、見て欲しくて。

 でも、心から自分を『欲しい』と叫んでくれる人がいる。それを父に知ってもらう事ができた。


 父は矢子の行動に驚き、『佳佑』を呼んだ。佳佑はちゃんとそこに存在したし、父は普通の人間だった。そんなことに、心底驚く。


 そして何より、自分が父の前で、スカート履いたまま、彼にウィッグを投げつけるという暴挙に出れたこと。

 自分の矜持きょうじや父親より、矢子が大事だった。

 逆らってみたら、もうどうってことはない。


 冷静に見れば、父親は哀れな男だ。

 父は、美しく奔放な母をずっと追いかけていた。やっと手に入れて子供が産まれたら、閉じ込められた彼女はおかしくなり、その子供を憎んだ。

 ──お前さえいなければ。

 父は自分の子を愛することは許されず、母は当てつけるように他の男と子供を作り、見せびらかすように可愛がった。そんな女を、ずっと追いかけ続けている。


 ただ、もしかしたら。

 父が買ってきた誕生日プレゼントは、本当は佳佑にあげようと思ったものもあったかもしれない。青色のミニカーなんて、妹は喜ばない。

 確証はなくとも、佳佑はそれをどこかで感じていたから、離れることができなかった。


 けれど、もうやめる。

 執着を手放して、彼らを許し、求めない。

 目に見えないものを求め続けても、終わりはないのだから。



 まだポツポツと降っている雨が、ユカの頬に弾かれてきらめいた。

 空は鈍色に輝き、金の尾をたなびかせる。雨はあがっていく。


「暗くなる前に、帰ろっか」

「そうですね……」


 少し名残惜しそうに体を離し、手を繋いだ。

 ずぶ濡れの服はもう水滴を滴らせてはいなかったが、体にべったりと張り付いている。ふたりは人目につかないルートを選んで、家路についた。


 矢子の部屋の前で鍵を開けながら、彼女は残念そうにため息を吐く。


「もう帰って来ちゃった。結局、なにも出来なくてごめんなさい。いいお誕生日にしたかった……」


 今日の散々な出来事を思い出しているのか、矢子の眉根にシワが寄る。それを見て、ユカはクスリと笑った。


「いい誕生日だったよ。オレのために怒ったり泣いたりしてくれて、ありがとう」


 それが何よりのプレゼントなのに、「こんなんじゃ、私が納得いかない」と言って、矢子はドアノブに手をかけたまま思案している。

 ユカは目をぱちくりと瞬かせた。しかしすぐに悪戯っぽく笑うと、


「これからしてよ。12時には、まだ間があるよ」


 矢子の手に自分の手を重ね、彼女の手ごと、ぐいとドアノブを回した。



****



 体中びしょびしょのぐしゃぐしゃで、一刻も早くお風呂に入りたい。

 濡れた服は重たくて、張り付いて、気持ち悪い。


 そんな状態なのに、玄関に滑り込んだ瞬間、矢子とユカは唇を合わせた。冷えた体に冷たい指先が這う。吐息だけがやけに熱くて、温度差でのぼせそうだった。


 水滴が煌めきながら肌を滑り落ち、玄関に水溜りを作る。

 とろけていく矢子を薄目で見つめながら、彼女の濡れた髪を撫でた。


「……オレのこと欲しいんだっけ?」

「あっ……」


 父親に『佳佑さんをください!』と叫んだことを蒸し返され、赤くなる。


「今、それを言うんですか」


 むくれてみせると、彼は笑いながら「嬉しかったから、あげようかなって」と言って矢子の腰を抱いた。


「それじゃ逆だわ。あなたがお誕生日なのに」

「じゃあ、ちょうだい」

「……いいですよ」


 腰を押さえつけられ密着した体が熱を持つ。

 矢子は濡れた服を脱ごうと手をかけたが、張り付いた服はずいぶんと脱ぎづらい。まごついていると、ユカが笑いながら手伝った。


「矢子さんがこうやって慰めてくれるなら、オレは何度傷ついたっていいや」


 ふいに小さな呟きが聞こえた。

 聞き返そうとすると、唇を塞がれる。

 その交わりは段々と深く深くなり、言葉を挟む余裕などなく、そのままふたりは濡れた肌を夢中で温めあった。



****



 それから、月明かりの中、布団で抱き合って眠りながらポツポツと色々な話をした。

 嬉しい事、悲しい事、これからもたくさんあって、分け合っていこうねと囁きあった。


「辛い思い出なんて忘れてもいいと思うけど、矢子さんみたいに憶えてないのとどっちがいいのかなって、たまに考えるよ」

「そうですね……わからないけど、きっと、憶えているから今の佳佑さんが在るんだと思います」


 いい面も悪い面も、ぜんぶ含めて、今の佳佑を形作っている。


「大事なのは、今の自分でよかったと思って生きられるかどうか、なのかも」


 矢子の言葉に、佳佑は頷いた。彼女の背に回した手に力を込めて、ぎゅうと抱きしめる。柔らかい黒髪が頬をくすぐった。シャンプーの匂いがする。


「今そう思えるのは、矢子さんが居るからかな」

「私も、佳佑さんが居るからですよ」


 そう言って笑いあって、手を繋いで眠った。

 間違いなく、その日は佳佑にとって、最悪だけど人生で最高な一日だった。




 矢子の佳佑への誕生日プレゼントは、意外にも本だった。

 佳佑が好きそうな本、21冊。しかも凝った事に、絵本から始まって、児童文学、図鑑、小説、と年齢層があがる。


「生まれてから、今日までの分です。絵本は、一緒に読むわ。過去のあなたに」


 佳佑は、恥ずかしいような嬉しいような、くすぐったい気持ちになった。はにかんで微笑むと、矢子は嬉しそうに笑った。


「それから、お誕生日会もやりなおしましょう!」

「え、それはいいよ」


 やる気に満ちた矢子に佳佑が焦る。

 特にプラネタリウムの件は相当悔しかったようで、矢子は「お家で出来るプラネタリウムを買う」と意気込んでいた。

 仕方がないので、直火式のホットサンドメーカーも買って、プラネタリウムをしながら、畳の上でキャンプごっこをすることにした。


 森林の絵がプリントされたシートを壁に張ろうか。

 観葉植物でも買ってきて、部屋に置こうか。

 夢が膨らむ。

 やりたいことはまだまだたくさんあった。そしてこれからも増えていくだろう。




 ──夏の終わり。

 少しずつ涼しくなって、矢子が佳佑と出会ってから、1年が経とうとしていた。


 矢子は店長試験に合格し、今の店の店長になった。

 案の定、橋本とは店舗が別れる。ふたりだけで送別会をして、橋本が最近よく行くという、夜はバーになる喫茶店に連れて行ってもらった。

 マユミちゃんという猫を撫でまわして、毛をいっぱいつけて帰ったら、佳佑がとても羨ましがった。


 今のモールは改装工事に入り、リニューアルまでは他店での応援と勉強の日々だ。少し忙しいけれど、充実している。


 佳佑はというと、大学に通いながらしばらくメイクのことを調べていた。

けれど、いまいちピンとこないようだった。

 そのうち矢子のアロマやマッサージなどの本を読みあさるようになり、あるとき、


「もっと根本的な方に興味があるのかも知れない」


 と言って、解剖学や生理学を独学で学びだした。

 まだハッキリとは決まっていないけれど、きっとこの後は食事療法や栄養学、そして美容に帰ってくる気がする。

 つまり、彼の言う『根本的な方』とは、人間が日々生きる先に作られた、本来の魅力、健康や美しさなのかもしれない。


 そうやって模索しながら、佳佑も進んでいく。


 お互いが忙しく過ごしていた。

 会えない夜も多くなったけれど、気にはならない。会いたければいつでも飛んでいけるし、必ず迎えてくれる。長く時間を過ごすより、一回の濃密なキスでとりあえず今は大丈夫。


 それでも寂しくて手持ち無沙汰な夜は、矢子は最近、祖母のことを考えた。


 あの誕生日デート以来、佳佑の家族に対する意識が変わったのを、矢子は感じていた。穏やかに、無関心になった。

 彼は何かを許して、そして受け入れたのだ。


 ──ねえ、おばあちゃん。私ね、人生の終わりに、思い出したい事がたくさん出来たの。


 ──おばあちゃんは、どうだったんだろう。幸せだったかしら。


 彼女の固くて紙みたいにカサカサした手を思い出す。その手はいつだって柔らかくて、あたたかかった。

 蔵に入る時、名残惜しそうに撫でる手が離れる瞬間まで、その手は優しかった。


 ──きっとその手を忘れられずに、私は今の仕事に就いたんだわ。


 すべて繋がっている。だからいつか、佳佑のように彼女を心から許して、彼女のために泣ければいいなと思う。


 そうやって、変わっていくんだ。



「夜眠る時に、思い浮かべる顔があるって素敵」


 久々に一緒に過ごせることになった夜、布団を並べて敷いて、ごろんと横になりながら言った。


「目を瞑っても寂しくない。虚しくならない。明日なんか来なければいい、全部消えちゃえって、子供の頃はずっと思ってたの。だけど、今はそんなことない」


 佳佑は少し寒いのか、毛布にくるまりながら珍しく饒舌な矢子を見つめた。


「明日が楽しみよ。きっと良い事ばかりじゃなくて、嫌なことだってあって、路肩の石ころを思いっきり蹴っ飛ばしたくなる時だってあるかもしれないけど、それでも、この世界に佳佑さんがいるだけで、明日が敵じゃなくなるわ。年をとって、しわくちゃになっても、一緒にいましょうね。ユカちゃんの骨格が男らしくなってしまっても、私に、ドレス姿を見せて、ずっと綺麗だって言わせてね。ふたりで好きなことをたくさんしましょうね。一緒に毎日ご飯を食べて、手をつないで眠って、そうして年をとっていくの」


 きっと人生の最期に思い浮かべるものがあるとすれば、それは佳佑の顔に違いない、矢子はそう思う。

 とても穏やかで、優しくて、あたたかい。


「これって、なんていう気持ちなんでしょう」


 矢子が呟くと、佳佑は微睡みながら目を細めて笑う。


「たぶん、幸せ、かな?」

「しあわせ」


 何気ない日、何気ない一日の終わり。

 特別じゃないけど、特別な日。

 それが、ずっと続いていく。


 願わくば────


「どうか明日も、幸せでありますように」








おわり

番外編まで読んで下さってありがとうございます。

一気に更新できなくてごめんなさい。

このお話はこれにて終了です。お付き合い下さり本当にありがとうございました!

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