橋本のお話:本庄さんは告白ができない
店長橋本とフロアマネ本庄のお話。
めちゃくちゃ長いです!そしてラブコメ色強いです。
本筋に絡まないので、読み飛ばしても問題ありません。
「橋本、きいてくれ」
「はい」
「好きなんだ」
「……はい」
「マユミちゃんが────」
はい、知ってます。
橋本みなみ は、心の中で深いため息を吐いた。
彼女の働くモールの中のテナント、リラクゼーション店『りらっくす』のある階層を総括する責任者が、今、目の前でうだうだ言っているスーツ姿の男、本庄俊明である。
本庄は、マネージャーの中でも厳しくてデキる男として有名だった。
けれど今、橋本の目の前にいる男は、どう見ても情けない、少々顔の良いだけの30代半ばの中年である。
彼と仕事場以外で会うのは、今回で5回めくらいだろうか。
なんでこんなことになったのか────。
初めては、『りらっくす』の締め作業が異様に遅かった日だ。
「まだ残ってんのか……」
帰る前の見回りをしていた本庄が、うんざりした顔で店を覗き込んで言った。
その日、少し難しいお客様に散々詰められたせいで営業時間を過ぎても施術が終わらず、やっとお見送りをして他のスタッフを帰し、たったひとりで片付けをしていた。
事情をなんとなく本庄に話した。クレームになるかもしれないと思ったからだ。
「矢子は?」
「矢子さんですか?」
その日、彼女は早番でもう帰っていた。その時はまだ、橋本は矢子のことを『技術は優秀だが少々問題アリなスタッフ』と認識していた。
だから本庄がなぜ矢子の名を一番に出したのかわからなかった。
「あいつなら、きっとなんとかしただろうなと思って」
そう呟く本庄の言葉を聞いた瞬間。
なぜか、張りつめていたものが一気に弾けて溢れ出した。
自分が腑甲斐ないから、店長の私より、ただのスタッフの矢子さんの方が、アテにされてるんだ────。
「矢子さんなら、どうにかできたんですか」
硬い声でそう呟いた橋本の目からは、大粒の涙がぽろぽろと零れていた。
あのお客様も、私が相手じゃなかったら、きっと怒らずに気持ちよくお帰りになられたんだ。私みたいな未熟者じゃなかったら。私だったから、怒ったんだ。
「な、なん!? どうした、おい?」
「ふぇ……っく、ううぅ」
思わず声をあげて泣き出した橋本に、本庄が慌てた。どうしていいかわからないというようにオロオロする。
そのとき、足音と共に暗がりから懐中電灯の光が漏れるのが見えた。
警備員の巡回だろう。
「ちっ、めんどくせぇなぁ」
号泣している女の店員とふたりきり、瞬時に面倒くさい想像をしてしまった本庄は、思わず橋本の手を引くと奥のフィッティングルームに無理矢理詰め込み、自分も押し入ってカーテンを閉め隠れた。
「え、なに、本庄さん……!」
「黙れ」
狭いフィッティングルームで、ふたりは密着している。さらに、慌てて暴れる橋本を、本庄が抱きしめるように押さえつけた。
抱きしめる必要はあるのか。そう思いながら、押さえつけるという大義名分に本庄は従う。
足音がゆっくりと近付き、そして去って行くのを、息を殺して耐える。
警備員が通り過ぎてしまうと、本庄は我に返った。
腕の中で真っ赤になって固まっている橋本を見下ろし、小さくため息を吐く。
「なんで俺はこんなことを……?」
泣いている店員を慰めたり、もしくは逆に大泣きさせることは、彼の仕事上珍しくない。冷静に考えれば、隠れる必要なんて全然なかったはずだ。
「おい、これは、セクハラじゃあないからな」
「わ、わかってます……」
ビクリと震えながら答えると、本庄は片眉を吊り上げた。そして緩めかけた両腕を再び戻すと、今度こそなんの意味もなく橋本を抱きしめる。
「ふへぇ……っ?」
「アホみてーな声出すなよ……話くらい聞いてやるから、泣き止め。この後飲みに行くぞ」
「え、でも、締め……」
「明日にしろ。んで、社員を早く帰らせてくれ」
「すみません……」
謝りながら、橋本はひとつ、大きなシャックリをした。
後になぜ抱きしめたのかと尋ねたら、「俺にビクついたあげく泣いた橋本にイライラしたから」という答えだった。意味が分からない。
その後、本庄の車に乗せられ、結局飲みには行かずに缶コーヒーを奢られて、車の中で話をした。彼は橋本の話を聞きながら、つまらなそうに運転していた。
溜まっていたものをある程度吐き出した頃、本庄はポツリと、先程の「矢子だったら」の発言の意図を弁解しはじめた。
「変な意味で言ったんじゃねぇんだ。矢子とは、付き合い長いんだよ。5年くらいか。同じ時期に配属されてきたからさ」
緩やかにハンドルを切りながら、本庄は言う。
「あいつは、そういう、意味もなく刺々しいクレームつける奴の気持ちに寄り添うのがうまいんだよ。まあ、普通の客からは逆にクレームもらったりしてたけど、最近はうまく誤摩化せてるな。だからさ、橋本ができないって意味じゃなくて、矢子が変だって意味」
「変って、失礼です」
「だって変だもん、あいつ。でも、そういう時は頼りにすれば。適材適所だろ」
入れ替わり立ち代わる人材を扱いながら観察してきた。人には特性がある。それを総括して流れを促すのが彼の仕事のうちの一つだ。
「また話きくよ」
そう言ってくれたものの、橋本はそれ以来、客ともスタッフともうまくやれていたので、たいして話すことはなかった。開店前の朝礼で目が合うと、意味有りげにニヤっと笑われる程度の関係で収まっていた。
そんな折、橋本は再び彼の車に乗ることになる。曰く、
「カフェ店員のマユミちゃんに一目惚れしたんだけど、年下すぎてどうしていいかわからない。相談に乗れ!」
……らしい。
「マユミちゃんって誰ですか。どこの店の、どんな子ですか」
困惑しながら尋ねるも、本庄は口を尖らせてそっぽを向いた。
「守秘義務って知ってるか」
「相談する気あるんですか」
「あるさ。お前、癒しが仕事なんだろ? ちょっと俺を癒せ」
「んな無茶苦茶なぁ!」
しかし前回は自分がお世話になったのだからと、律儀な橋本は渋々、彼の車に乗ってドライブへ出かけた。
「レインボーブリッジとスカイツリーと、どっちがいい?」
「え、どっちでも……えと、相談は?」
「じゃあお台場まで行こっと」
ご機嫌に呟いて車は走り出す。
しばらく流れる景色や均等に配置された街頭の光を眺めていた橋本に、高速に乗った辺りでようやく本庄は口を開いた。
「なあ、なんでお前スカートじゃねぇの」
「はい?」
口を開いたと思ったら、関係ないことだった。
「いや、俺のフロアってレディースだから、スカートの子多いじゃん。でもお前等とかって私服もパンツスタイルだなって」
なんでそんな事きくんだろう。本庄さんだっていつもスーツじゃん。
そう思いながら、なんとか相談の方へ話を持っていこうと考える。
「……マユミちゃんはスカートなんです?」
「え? あー、うん。そう、たぶん」
たぶんてなんだよ。
心の中でツッコミをいれつつ、要領を得ない本庄の話を、なんとか質問しながら聞き出し、脳内でまとめる。
──ええっと。マユミちゃんは、21歳(わっか!)で、カフェ店員で、赤がよく似合う、スカートをよく履いてる、足が綺麗で、顔は可愛くて、コーヒーいれるのがうまい…………。
「本当に?」
「なにがだよ」
本当に、そのマユミって子が好きなのか。情報が少なすぎる。そして、どこが好きなのかサッパリわからない。
35のオッサンが、21の子にそんな理由で惚れるだろうか。照れているにしてもおかしい。ましてや、本庄みたいなタイプが。
「というか、なぜ私に? 若い子相手なら、アパレルの子に相談した方が絶対いいのに」
橋本も若いが、20代半ばを過ぎている。ましてやアルバイトの21歳なんて、別世界の存在だ。
そう素直に口にすると、本庄は少し考えてから、いつになく柔らかく微笑む。
「だって橋本なら馬鹿にしないだろ?」
「そりゃ、馬鹿にはしませんけど……」
しないというか、恐くて出来ない。と、橋本は思うが、言えない。
「だからだよ。俺は臆病なんだ」
「えー、本庄さんイケイケなのに?」
「ふ。死語だな」
橋本の発言に本庄こそが馬鹿にしたように笑う。
それに少しムッとするが、実は「イケイケ」の意味がよくわかっていないので黙っておく。
「知ってるか? 今の子は『超』とか言わないんだってよ」
「マユミちゃんが言ってたんですか?」
「……おう」
「ふぅん」
それから、要領を得ない謎の『マユミちゃん』への相談という名目で、橋本は度々連れ出された。
ドライブの途中、どこかのサービスエリアのコーヒー店で休憩しながら愚痴を聞くこともあった。
話してみると、本庄は意外と人懐っこい。そして、訳のわからない恋バナをする彼は、ちょっと情けなかった。
それでも橋本はどうしても、威圧感というか凄みのある彼にビクついてしまうのだった。
数度の『相談』を経て、本庄と橋本の距離が少しだけ縮んだ頃。
──『りらっくす』に、戸田望という客がやってきた。
そのお客様は、矢子を目当てに来店した。
最初から不遜な態度で、橋本は嫌な予感がしていた。むっと不機嫌な顔をして、でも文句は言わず溜め込むようにして、ギョロギョロとスタッフを見渡す。こういう人は、急に爆発することが多い。
橋本はそれとなく注視しながら受付を離れないようにしていた。
そして──思った通り。
彼はとつぜん爆発し、矢子を突き飛ばしたのだった。
本庄が戸田望を連れて行った後、両隣の店舗に騒動を謝罪し、矢子を帰らせ、店内でひと息つく。
騒ついていた他のスタッフも落ち着き、店は何事もなかったかのように、いつもの雰囲気を取り戻していた。
「店長、大丈夫ですか?」
「え?」
ふいに、スタッフの1人が心配そうに声をかけてきた。
その時はじめて、橋本は自分が青くなっていることに気がついた。
「あれ? 貧血かな?」
「今空いてますから、よかったら休憩とられます?」
お言葉に甘えて、フラフラしながらスタッフ用の通路へ入り、社員食堂へ行った。何も食べる気が起きなかったが、とりあえずウドンを注文する。
冬になり裏手はかなり冷えるせいか、温かいウドンを食べても、橋本の体はちっとも温まらなかった。
「やばい、やばい。この後、施術があるのに。手が冷えたままだとクレームになっちゃう」
焦れば焦るほど、体は冷えていく。
どうしよう、どうしよう。
橋本は店長にしては気が小さい。男性もどちらかといえば苦手で、怒鳴り声や大声にも弱かった。
普段は気を張って毅然とした態度でいるが、一度その虚勢が崩れれば、元に戻るのには時間を要した。
「お店に戻らなきゃ……」
仕方なく、食堂を後にしてスタッフ用の通路へ戻る。ズレた休憩時間のせいか人はほとんどおらず、橋本は壁伝いに歩きながら店内へ向かった。と、
「橋本?」
ふいに、声をかけられた。
「どうした? 顔色悪いぞ」
振り返ると、本庄がこちらを覗き込むようにして見ていた。
いつもなら、「ヒッ、本庄さん!」とビクつく橋本は、なぜかこの時、心底ホッとして本庄を見つめ返した。
「本庄さん、あのお客様……」
「ああ、帰した。お前のとこは出禁にした。話してみたらそんなに悪い奴じゃなかったよ。反省してたし、たぶんもう大丈夫だろ」
カラリと笑った本庄に、橋本は「そうですか」と言って俯く。
解決したのだ、よかった。そう思うのに、気持ちが浮上するのに時間がかかる。
「……恐かったか?」
様子の違う橋本の目を見つめながら、少し心配そうに本庄が訊いた。その瞳を見て、橋本の気はさらに緩んだ。へろへろと壁に寄りかかって、無茶苦茶に話し出す。
「はい。こわかった……私、こわいのだめなんです。男の人とか、怒鳴り声とか。でも、店長だし、シッカリしなきゃって、思ってたけど、ちょっと気が抜けちゃったというか。この後も仕事があるのに、手が、全然あったまんなくて、どうしよう、って。焦ってるの。またお客様を怒らせちゃったらどうしよう。私、こんなに弱くて、スタッフに、申し訳ないです。本庄さんにも迷惑かけてしまう」
涙目で訴えると、本庄は少し黙って一瞬考え、
「店長がそんなんじゃ困るな。俺は、勝手にお客様に惚れられて店に乗り込まれて首締められて泣きながら辞めた奴を知ってるぞ。そこまでいきゃあ仕方ないと思うが、今回、お前は見てただけだろ?」
「え、えぇー……」
正論だが、あんまりなエピソードと共にスッパリと言う彼に、若干引きぎみになる。すると本庄は大げさにため息を吐いた。
「あのな。矢子のが恐かったはずだ。こんなんでビビってどうする」
「それはまあ、そうですけど……」
そう答えながら項垂れると、本庄が周囲に誰もいないことを確認し、「ほら」と手を差し出してきた。
「はい?」
「手、冷えてるんだろ? かせ」
橋本が黙って手を出すと、彼はためらいなく握って両手で包んだ。そして唇が付きそうなくらいに顔を寄せて、はあ、と息を吐く。
生温い吐息で手が湿る。橋本の手をさするようにして摩擦し、温める。
橋本の頬に、一瞬で火が灯った。
この寒さの中、なぜか彼の手は火傷しそうに熱い。
「本庄さん、あったかい……」
「興奮してんだよ。やっぱクレーム処理はどっかカッとなるんだろうな。橋本は、冷たくて気持ちいいよ」
言いながらもう一度、はあ、と息を吹きかけた。
本庄の両手の中に、大切そうに包まれた自分の手。なんだか子供扱いされているようでおかしかった。
ふふっと微笑むと、お腹の底からじわじわと温かさが戻ってくる。
「いいか、セクハラじゃねーからな?」
本庄は橋本を睨みながら、念を押すように言った。
昨今、どこもセクハラにはうるさい。ましてや女性ばかりのフロアで、上の立場が男性となれば特にうるさい。彼ら経営側の男性社員は、女性店員には絶対に触れたりなんてしなかった。
なんだかおかしい。私たち、すごくおかしい。
橋本はくすぐったさを我慢できずに、またちょっと笑った。その顔を見て、本庄が安心したように手を離す。
「気合い入れろよ、橋本店長!」
そう言ってニッと笑うと、彼は去って行った。
なぜだろう。恐いはずの男性の、しかもあの本庄さんなのに。顔を見てホッとして、胸が熱くなる。
──やばい、ときめいたかもしんない。
今まで眼中になかったのに。
でもよく見たら、彼は男らしくてスーツが似合って背筋が伸びていてタイプかもしれない。少々年上だって、若々しければ全然アリだ。
そう思ったら、一気にブワッと目の前に大輪の花が咲いた。
男性は苦手だが実は惚れっぽい橋本の視界は、ぽーっと一気に恋愛フィルターがかかりはじめ────いやいや、ちょっと待て!
はた、と我に返る。
だめだ。ちょっと待て。散々聞いてるじゃないか、彼の想い人の話。
21歳、赤がよく似合うカフェ店員への片思い。
そうだ。彼には、マユミちゃんがいるんだった……。
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「さっさと告白したらどーですか」
本庄の謎のお誘いも5回め。
サービスエリアのカフェでなんちゃらフラペチーノを飲みながら、目の前でウダウダやっている彼に投げやり気味に言った。
本庄を好きかもしれないと思ってから、誘われるのは嬉しく感じはじめた。だが、マユミちゃんの話を聞かされるたび落ち込む。そしていい加減それも面倒くさくなってきた。
だから橋本は思い切ってそう提案してみたのだ。
マユミとやらと上手くいくなら諦めるけど、フラレたなら手負いの虎を狩り落とす勢いで特攻してやるから、さっさと告れ、本庄!
「告白ね……。大人になってからしたことねぇな」
「え、なんでです?」
意外な呟きに純粋に首を傾げると、本庄は「ガキか」と、嘲るように鼻で笑った。
「どういう……?」
「だから……いちいち確認なんかしないってことだ」
それが大人の恋愛らしい。
橋本にはよくわからない。好きだと言わなければ、気持ちは伝わらないのに。
「でも現状、告白でもしなきゃ、はじまりようもないんじゃないですか?」
「う……」
本庄はモゴモゴと口籠ると、きょろきょろしてから「サービスエリアうまいもん選手権だって。どれか行ってみようぜ」などと話題を逸らす。
まったくもって、不可解だ。
本庄ともあろう人が、小娘相手に何もしないでただただ気持ちをこぼしているなんて。
帰りがけ、車の中で他愛のない話をしながら、持ち帰りのホットコーヒーを飲んだ。
思えばカフェインまみれだ。橋本は普段そこまでコーヒーを飲まなかったが、彼といる時は夜通し一緒なので、眠気を覚ますためにがぶ飲みしていた。
一度、「寝てもいいぞ」と言われたが、なんだかもったいなくて、強がって必死に瞼を開けていた。
「そういえば、うち、改装するかもってよ」
「へ?」
「駅の開発が進んでるし、たぶんそうなる。まだ噂だから内緒な」
「そうなんですね」
ふいに、何気ないことのように本庄が言った。
「テナントはともかく、そうなったら俺達は異動になるかもしれん」
「えっ……」
異動? 本庄さんがいなくなる?
そうしたら、もう、こうやってふたりでドライブも、なくなってしまうの?
「……やだ」
思わず呟くと、本庄が驚いたようにこちらをチラと一瞥する。
橋本は子供のようにむくれて涙目になっている。
「俺に会えないのがそんなにやなの?」
「はい。寂しいです。嫌です」
「へぇ……」
素直に答えると、本庄は思案するようにぼんやりとした声を漏らす。
急に恥ずかしくなって、橋本は俯いた。これではまるで告白したみたいじゃないか。
「お前さ、なんでスカート履かないの」
「は?」
そんな橋本の気持ちを無視するように、彼は話題を急転換した。
「いつもさー、車に女乗せたら、スカートの中にこう、手を入れるわけ」
「……はい?」
「隙だよ、隙。寝てもいいよって言ってるのに、寝ないし」
なぜだかわからないが、急に砕けきった口調になり、口を尖らす。片手をハンドルから放して、指をうねうねといやらしく動かしてみせた。橋本が思い切り困惑する。
「これじゃ、真正面から取り合わなくちゃいけなくなるじゃんか。言葉は苦手なんだよな」
「責任持ちたくない、みたいな?」
「いや……拒否されたら恥ずかしいだろ。俺は臆病だからさ」
そう言って、ほんの僅か、耳を赤くした。
「…………」
これは、どういうことだろう……。
つまりそういうことなのか? 今まで、そういうつもりでいたってことか?
じっと本庄を見つめるが、彼は黙りこくったままだ。肝心なことは、やはり言ってはくれないつもりなのか。
「……マユミちゃんは」
仕方がないので、ずっと気になっていたことを口に出す。と、本庄がニヤリと笑って、「見に行く?」と訊いてきた。
見に行くって、なんだろう。……見に行く?
しばらく走って、車はパーキングに停まった。
夜だから静かにな、と言われて連れて行かれたのは、住宅街の間にひっそりとあるバーだった。
「昼間は喫茶店、夜はバーなんだ」
そこはなかなか小洒落た内装の店だった。
飴色のニスが塗られた木の壁に、植物がふんだんに飾られた壁やテーブル。ライティングも拘っていて、少し歪んだガラス窓に、光と植物のツタの影が反射してとても綺麗だった。
本庄が扉を開けると、バーなのにカランという喫茶店のドアベルが鳴る。
「こんばんはー」
「おや……いらっしゃい。珍しいね」
マスターらしき、しゃんとした素敵なロマンスグレーの男性が、本庄と、その後ろを着いて入った橋本を見て言った。
本庄は店内でシェイカーを振る若い男の店員にも手を挙げて挨拶すると、窓際の席に陣取った。少しして、彼が本庄にコーヒーを、橋本にメニューを持ってやってくる。橋本はカンパリオレンジを頼んだ。
「あの……」
「ああ。マスター、マユミちゃんいる?」
「おるよ。ちょっと待ってな」
そう答えたマスターが裏へ下がり、少しして、赤いスカーフを首に巻いた、可愛らしい、スレンダーな黒猫を連れて戻ってきた。
「……猫」
「そう。猫。マユミちゃん」
橋本が呆気にとられて呟くと、本庄がコーヒーを啜りながら言った。
これが、本庄の片思いの相手。
赤が似合って、スカート、は履いてないが、足が細くて、1歳の若いメス猫のマユミちゃん。
彼女は裏で寝ていたのか、おおあくびをしてマスターの手からぴょんと逃れると、カウンターの上でグンと伸びをしながら爪をにぎにぎと伸ばした。
「一応聞きますけど、本庄さんって、変態ではないですよね?」
橋本が真剣に尋ねるので、本庄は思わず大声をあげて笑う。
「馬鹿だろ」
笑いながら目頭を押さえてヤレヤレとでも言いたげに首を振った。
「これで気付かないなら、お前は馬鹿だ、橋本みなみ」
くっくっと笑いながらも、しかし肝心なことは、何も言ってはくれないのだった。
結局、そのバーで楽しく飲んで帰ってきてしまった。
すでに家の前まで送ってくれるのが通例だ。マンションの前に本庄が車を停車する。ハザードランプがチカチカと周囲の壁を照らし、照り返しで暗闇に彼の輪郭を浮かび上がらせた。
「次はどうする? 行きたい方角だけ決めとけ」
「方角て」
アバウトさにツッコミながら、なんの相談もなしに次回の約束をしようとする本庄に苦笑した。もう『マユミちゃん』という口実は使えないので、さらりと恒例行事に移行しようという魂胆だ。
卑怯な人だ。私はやっぱり、なにか欲しい。なあなあは嫌だ。
橋本は無言でシートベルトを外し、扉を開けようとインナーハンドルに手をかける。
「みなみ」
「え、はい──……っ」
ふいに、下の名前を呼ばれた。
驚いて振り返る、その瞬間────ぐい、と腕を引かれ、本庄が伸し掛かるように覆い被さった。
視界は彼の影に奪われ、唇に、生温い感触。
押し当てられたそれは、少し濡れていて、コーヒーの匂いが仄かに香る。
もの言いたげに一度吸い付き、そして、剥がすようにゆっくりと離れた。自然と吐息が漏れる。
目を上げると、真剣な瞳がじっとこちらを見つめていた。
言葉なんかより、その双眸が雄弁に語っている。少し蕩けたような、名残惜しげな甘い眼差しが橋本を射抜く。
「……おやすみ」
「はい……おやすみなさい」
低い声を響かせて、甘く囁くように本庄が別れの挨拶をした。
橋本はクラクラしながら、なんとか立ち上がって車のドアを閉めた。走り去る車のテールランプを、呆然としながら見送る。
そっと唇に触れてみると、彼の温もりと残り香をかすかに感じた。
……仕方ない。
次のドライブの日には、臆病者の彼のためにスカートを履こう。
隙が欲しいというのなら、くれてやるんだ。




