後日談:結末の後に
ここからは、本編以降のお話や回想になります。
本筋のない小話もありますが、よければオマケとしてお楽しみ下さい。
『蛍の光』が流れている。
人が居なくなり、照明を落としたモール内は薄暗い。
季節は夏。空調を切られた店内は暑く、矢子は額にジワリと汗を滲ませながら、閉店後の締め作業を行なっていた。
「矢子さん、ちょっといいですか」
店長の橋本が、矢子の隣にやってきて改まった口調で言った。
彼女がこういう口振りの時は、何か大切な連絡事項がある時だ。
「なんでしょうか」
矢子も合わせるように姿勢を正すと、橋本は一枚の書類を差し出した。
「店長試験、受けてみませんか? これ推薦状です」
戸惑いながら用紙を受け取る。
そこには橋本のサインと、推薦理由が書かれていた。
「あなたには、店長としての能力はもう充分にあると思っています。前回落ちた理由も、本社から聞いていますが、私は問題ないと思う」
まっすぐに見つめられ、矢子は俯いた。
なぜ試験に落ちたのか、今はよくわかる。自分の問題を認識しているからこそ、自分に足りない物があまりにも多いことを知っている。
「矢子さん、チャレンジしてみない?」
「でも……私なんかが受けていいのでしょうか」
眉をひそめて呟くと、橋本は吹き出した。
「気負いすぎだよ! 店長って、そんなスゴイ存在じゃないからね?」
大笑いしながら矢子の肩を叩く。
彼女の明るさ、優しさが、この店の雰囲気を作っている事を矢子は知っている。
もし自分が店長になったとして、こんな風に励ましたり導いたり、そんなことができるだろうか。
「自信がないです……」
「そんなこと言わない。私が大丈夫って太鼓判押してるんだよ?」
優しく言って橋本が微笑むと、矢子は恥ずかしそうに視線を泳がせる。
背中を押してくれることが嬉しい。だけど……。
「それにもし受かったら、橋本さんとは別店舗に配属になってしまうし……」
同じ店舗に2人も店長はいらない。どちらかが別の場所へ異動になり、もう一緒に働くことはないかもしれない。
それを聞いた橋本は、「あら」と頬に手を当ててみせた。
「私と離れるのが寂しいってこと?」
「はい」
「なにそれ〜嬉しいなぁ!」
素直に頷く矢子に、橋本はニヤニヤしながら軽口を叩く。
「ね、私たちって、もう友達だよ。これからは用事がなくても電話やメールをしてもいいし、一緒に遊びに行ったり、ご飯食べたりしようよ」
「友達……」
友達。いつの間に。
矢子は顔を上げて橋本を見た。彼女は柔らかく微笑んでいる。
一体いつそうなったのか、どの瞬間から変わったのか。矢子にはわからないが、橋本が友達だと思うと、心がじんわりと染みるように温かくなった。
友達。……友達。
噛みしめるように心の中で復唱する。
「嬉しいです。ありがとうございます」
「ふふ。じゃあ、さっきの推薦状、考えて決めたら本社に提出してね」
「はい」
しっかりと頷くと、推薦状を大事に畳んでカバンに仕舞った。
****
家に帰ると、いい匂いがした。
「あ、おかえりなさーい」
可愛らしい動物柄のエプロンを着た佳佑が、台所で肉を焼いていた。
付き合いはじめて合鍵を渡してからというもの、帰宅するとたまにこうやって夕飯を作ってくれている。
最初は忙しい矢子のためにと始めたが、やってみたら存外面白くハマってしまったらしい。
「ただいま、佳佑さん。いらしてたんですね」
「うん、いらしてた。ご飯もう出来るから手洗ってきてね」
「はい。ありがとうございます」
手洗いを済ませダイニングテーブルに着くと、香ばしい香りを漂わせた生姜焼きと具沢山のお味噌汁が用意されていた。
熱いうちに食べよう、と促され、ふたりは「いただきます」をして食べはじめる。
甘辛いタレの少し濃いめの味付けに、わざと粗く千切りにしたキャベツが良く合っていた。
「美味しいです。また腕をあげましたね」
「ほんと? 嬉しいな」
「いいお嫁さんになれるわ」
「じゃあ、オレをもらってくれる?」
「もちろん。ふたりでウェディングドレスを着ましょうね」
軽口の応酬をして笑い合う。こんな食事も最早日常だ。
「佳佑さんは今、テスト前でしたっけ」
「そう。前期の授業がもうすぐ終わって、その後に定期テスト。で、夏休み──どっか行く?」
今は7月。もうすぐ佳佑は夏休みに入る。
けれど、社会人の矢子にはそんなに長い休みはない。しかも接客業なので、連休はずらしてとる場合が多い。9月になってしまうこともあった。
矢子は少しだけ思案しながら、間を置いて、口を開く。
「お休みの前に、私も試験があるかもしれません」
「矢子さんも?」
佳佑が食べ終わった食器を下げながら尋ねると、矢子は頷いてカバンから書類を出した。橋本に渡された推薦状だ。
「店長になる試験を受けないかって、橋本さんが」
「わあ、すごい! おめでとう!」
「いえ、まだ受かった訳ではないのですが。受けるかどうかも、まだ決めかねていて」
考え込むように俯いた矢子に、佳佑は首を傾げる。
「どうして? もし落ちたらなにか不都合があるの?」
「そういうわけでは……」
単純に自信がない。
技術や業務に関しては学んでいけるのだろうが、橋本のようにスタッフを導ける自信や、良い雰囲気の店を作れる自信がない。
それらはもっと人として根本的な、人徳とか、素質とか、そういうものが必要なのではないだろうか。
他店の店長も何人か知っているが、皆、会うとホッとするような魅力を持った人ばかりだ。
自分にはたぶん、それがない。
「あー……なるほど」
ダイニングテーブルに隣り合って座り、食後のアイスミントティーを作りながら悩みを打ち明けると、佳佑は納得したように頷いた。
彼も矢子と同じように、育ちや経験に普通とは違うものを抱えている。矢子の悩みが痛いほどよくわかった。
「矢子さんは、橋本さんのことを尊敬しているんだね」
そう言って、佳佑は矢子の髪をそっと撫でて微笑んだ。
「尊敬、してます。橋本さんから学びたいと思ってる」
「うん。だから悩んでるんだと思うよ。橋本さんと自分の『差』みたいなものを感じちゃってさ」
他人の良い所を見習おうとするあまり、自分と比べて萎縮してしまっている。
自分らしさとの狭間で、今はお互いが足掻いていた。
矢子はミントティーを一口含む。傾けられたグラスの中で、氷がカランと音を立てた。
「矢子さんは矢子さんのままでいいんじゃないかな」
「でもそれじゃ、足りないと思ってるんです」
だから悩んでいるのだ。そう言って少しむくれる矢子の髪を、佳佑は撫で続ける。
「私は全然、橋本さんみたいに気が利かないし、優しくないし、明るく笑えないし声に笑顔がないし、気を抜くとすぐ淡々としてしまって、スタッフをきっと恐がらせてしまうし、無駄にテキパキしているせいで、お客様がくつろげない」
それに比べて橋本は、彼女なら。
佳佑に頭を撫でられて、なんだかあやされているような気分になったせいだろうか。子供っぽく自分への不満を捲し立ててしまう。
こうだったら、こうなれたら、こうしたい。
意味のない比較は、そのまま願望へと転化する。
私は、そうしたいんだ。そうだ、私は────
「……私、橋本さんみたいになりたい」
自分では足りない。だから橋本のようになりたい。
そして出来るなら、今の店のような、ほっとして、元気になれる、優しい店を作りたい。
「橋本さんのような店長になりたい」
ポツリと呟いた言葉が、思いがけず自分の目標であると気付いた。
自分は決して店長になりたくないわけではなかった。
昔に落ちた面接での言葉も、当時は何が悪かったのかたくさん考えた。ただあの時は、足りないものがわかっても、補っていく方法がわからなかっただけだ。
今は違う。
佳佑がいる、橋本がいる、失敗しても相談して、ダメになったら怒ってくれる。慰めてくれる。そして、矢子は矢子らしくあればいいと、そう言ってくれる気がした。だから大丈夫。
目標が定まったら、後は目指すだけだ。
迷いが腫れていくのを感じ、矢子は目を見開いて顔を上げた。
その様子を見ていた佳佑は笑って頷き、撫でていた手を離す。
「いいね。素敵だね」
矢子がウジウジと悩みながら、子供みたいに不安を口にする様子が佳佑には愛しく思えた。
だいたいの事は即決してしまうところも好きだったが、切って捨てるような決断は、どこか自分を大事にしていないようにも感じていた。
悩むという事は、自分の未来について大切に考えているということだ。決して悪い事ではない。
そんなふうに躓きながらも進んでいこうとする矢子が、可愛くて、大切で、ちょっと羨ましい。
「矢子さんのお店かぁ」
佳佑は、『ユカ』として矢子と初めて会った時の事を思い出した。
その日は木曜日。
いつも通っていた行きつけのサロンは、担当者が告白してきたので行くのをやめて、別の店を探していた。
気紛れに入った店。担当者の矢子は、笑顔なのに無愛想だと思った。
嘘くさい張り付けた笑顔に、佳佑はどこか安心感を覚えた。
この人は、佳佑に、ユカに、他人に興味がない。大勢の人の中で、まるでひとりぼっちで生きてるみたいなこの人は、自分と同じだと思った。
初めて彼女と触れ合った時、それは確信へと変わった。
何の抵抗もなく体に入り込むような施術は、自我を感じさせなかった。彼女はここにいない、そう思った。
そして何より、その手の滑らかさと、特定の女性との肌の相性の良さみたいなものを、生まれて初めて実感して驚いていた。
吸い付くような彼女の手に触れられると、何もしていなくても、とても気持ちがよかった。
施術が終わって男だと気が付いたはずの矢子の、施術前とまったく変わらぬ笑顔を見て、佳佑はここへ通うことを決めた。
それが自分にとっての、矢子の店員としての『良さ』だった。
変わらぬ笑顔、確かな技術、不変の優しさ。
橋本を目指しても、その先で、ただの人真似ではない自分の良さに気付き、自分らしく自信を持てるように応援したい。
それが、矢子という店員に惚れた自分の役目だと思う。
「矢子さんなら、きっと良い店長さんになれるよ。頑張って!」
「ええ、頑張ります」
想像すると嬉しくなった。他人の夢を聞くのは嬉しい。ましてや大好きな人の夢ならば。
佳佑は矢子の目を見つめた。彼女は吹っ切れたように瞳を輝かせて、まっすぐにこちらを見つめ返す。
それが愛おしくて、そっと顔を寄せた。耳に指を掛け、親指で頬をひと撫でして、目を閉じながらゆっくりと唇を近付け──
「では、善は急げですね!」
「……っどわ」
急に立ち上がった矢子に、佳佑が体勢を崩してよろめいた。
少し拗ねながら唇を尖らせて彼女を見ると、ボールペンを取り出し先程の推薦状に丁寧に何か書いている。
「必要事項を記入して、サインをしています」
佳佑は矢子の淹れてくれたアイスミントティーを啜りつつ見守った。スッキリとしたミントの香りと、溶かした蜂蜜が甘く口内に広がる。
「住所、電話番号、生年月日……」
指で指し示しながら記入した箇所を確認していた矢子が、ふいにピタリと止まった。
「生年月日……そういえば」
11月と記入された自分の誕生日で指を止めたのを見て、訝っていた佳佑がギクリとして固まる。
「佳佑さんのお誕生日っていつです?」
「…………」
なぜか黙りこくった佳佑に、矢子は不思議そうに首を傾げる。
じっと見つめていると、ややあって、彼はしかめ面で口を開いた。
「……6月」
「え」
今は7月だ。
過ぎたばかりの誕生日に、矢子は驚きと少しのショックを受けた。
もっと早く知っていたら、たくさんお祝いしてあげられたのに。気付かなかったなんて、悲しい思いをさせてしまった。
「なぜ言ってくれなかったんです?」
「言わなきゃだめ? 誕生日なんて、1年のうちのただの1日だよ」
咎めた訳でもないのに、佳佑は吐き捨てるように言って、ミントティーをぐいと一気飲みする。
矢子は驚いて目を見開いた。
彼女が固まっている間に、佳佑はさっさと席を立つ。
急に不機嫌になり、それを隠そうともしない様子に、矢子は困惑した。
先程まであんなにご機嫌だったのに、どうしたというのだろう。
台所へ行って乱暴に洗い物をはじめた佳佑の背中をそっと見つめながら、いつもと違う彼になんと声をかけるべきか、矢子は戸惑っていた。




