手を繋いで
矢子の部屋は、華やかな良い香りがした。
それがいつか嗅いだ催淫効果のあるアロマ、イランイランであると気付き、佳佑の顔は耳まで赤くなる。
「佳佑さん、どうぞあがって」
思わず玄関で突っ立ったまま固まっていた佳佑に、矢子が声をかける。
「あ、うん……ごめんね、なんか良い香りだなって」
「ええ、イランイランです。この香りの元は白い花で、新婚初夜のカップルのベッドに撒く国もあるんだそうですよ」
「へ、へぇー……。えと。つまり、準備万端?」
「なにがですか?」
上着をハンガーにかけながら首を傾げる。その様子を見て、佳佑も首を傾げる。
「だって、えっちな気分になるヤツだって前に……」
「そっ……!?」
言いづらそうにモゴモゴと呟いた佳佑の言葉に、矢子が目を見開いて驚く。
「そんな香り、ありません!」
「えっ」
矢子はぶんぶんと首を振りながら、佳佑に『催淫効果』について説明しだした。
曰く、「ムラムラする!」となるのではなく、「ハッピー!キスしたい!」となるのだそう。ムードを出すだけの香りだ。
幸せな気持ち、女性としての美しさを高めて、ひいては男性が手を出したくなる、だから催淫効果。
もちろん矢子の解釈ではあるし、世の中にはフェロモン香水なんてものだってあるのだが、それはともかくとして────
──なんで今更こんな、真っ赤になってるの。
目の前で早口で解説する矢子が面白かった。
しゃべればしゃべるほど、言い訳がましくなる。
だって、恋人になってさっさとしようとしていたのは、ずっと矢子の方だったのだ。
──なにこれ。めちゃくちゃ可愛い。
ニヤつく口元を隠しながら、矢子を見下ろす。
「……あ」
「どうかしました?」
矢子を、見下ろした。
「オレ、背ぇ伸びてる。会った時より」
「あら、ほんとう」
楽しそうに笑って、矢子が目を上げる。ほんの僅かだが、佳佑の方が高い。
まさか二十歳すぎて伸びるとは、と本人は驚いている。
「ちょっとは男らしくなったかな?」
「男らしくなりたいんですか?」
「わかんない。なってもいいし、ならなくてもいい。どうなっても、オレはオレだもん」
胸を張って笑うと、矢子も笑い返した。
だがすぐにハッとなって「サイズ、変わってしまったかしら?」と慌てだす。
「なんの話?」
佳佑が尋ねると、矢子は和室の押入れをガラリと開けた。
そこには────
「うわぁ! すごい、これブランドじゃん、高いやつだよこれ!」
ハンガー掛けの突っ張り棒を取り付けて、押入れいっぱいにユカの好きそうな洋服が掛けてあった。
「おかげで、お布団が入りません」
確かに布団が入るスペースはなく、部屋の隅に畳まれて置かれたままだった。佳佑は困惑しながら「なんでこんなにたくさん買ったの?」と尋ねると、矢子はにこにこと微笑む。
「似合うと思って」
「ちょ、ちょ、……高かったでしょ?」
「貯金を少々切り崩しました」
「もったいない!」
佳佑が慌てると、矢子は余裕の表情でフフンと鼻息を吐いて、「大人ですから」と得意げに言った。
そして佳佑の顔を覗き込み、真剣な顔をする。
「佳佑さん。これからも、好きな事をしてください。好きに生きて下さい。あなたが自由にあるがまま生きる場所を、私があげます。どんなにおかしな生き方でも、私、あなたを肯定します」
きっとそれが、この人の隣に居れる資格なのだ。
他の人ではあげられないものを、埋められないものを。そして、カラッポだった自分には、いくつもの幸せな思い出と自信を。
佳佑は、こちらを見つめる矢子の瞳を覗き返す。
「ありがとう。矢子さん、そうやって、どう生きたらいいかわからなくなった時、オレのこと肯定して。ずっと肯定し続けて。それで良いんだって。オレがオレのまま生きていて良いんだって。他の誰もが否定しても、矢子さんがいれば、きっと自分を見失わない」
自然と、矢子に向かって手がのびた。
頰に触れると、彼女は恥ずかしそうに目を伏せながら口元を緩ませる。
少し前までの無表情な彼女からは考えられないくらい、今は自分の前で微笑んでくれる。それが嬉しい。
触れていると安心する。そこに生きていると感じるから。
そうやって確認しながら、何度も何度も、彼女に触れる。
髪に触れ、頰に、耳をくすぐって、うなじを撫で、顎に指を滑らせて、唇を指で撫ぜる。
「……佳佑さん」
焦れたように顔を赤くしたのを見て、佳佑の頰が緩む。
「矢子さん、あなたをオレのものにしていい?」
顔を寄せて囁くと、矢子がこくんと頷いた。──刹那、両手で彼女の頰を包み、唇を奪う。
押し当てた唇をやわやわと食みながら耳元を指先でくすぐると、矢子が喘ぎながら口を僅かに開く。その隙間に舌を捻じ込んで、より深く齧り付くように口付けた。
しばらく舌を絡ませあい、やがてゆっくりと自然に離す。
矢子の唇に塗られていたグロスがはげて、佳佑の口元を光らせた。それをペロリと舐めとって、
「いつかこうなるって、わかってた」
もう一度軽く口付けし、矢子と額をくっつけて微笑む。
「佳佑さん……佳佑さん、好き」
「……もっと言って」
熱に浮かされたように溢れ出る本心に、佳佑は目を細める。
「好き。すきです……本当に好き」
うわ言のような矢子の呟きを聞きながら、頬や首筋にキスをする。丁寧に服を脱がしながら、露わになった火傷の痕に舌を這わせた。
「ほら、やめないで? もっとだよ」
意地悪を言って軽く噛むと、矢子が短い悲鳴のような声をあげた。
愛してる────。
そう言いたくて口を開くが、言葉は嬌声に飲み込まれてしまう。
けれど、きっと伝わっている。
肌に感じる全てが、それを伝えてくれている気がする。
佳佑に強くしがみついて、ぎゅっと目を瞑った。
目を瞑っても、佳佑との境界線は、もう曖昧にはならない。そこに確かに居て、存在を感じ、想いが伝わってくる。
「矢子さん、きれいだよ。世界で一番きれい。年を取っていく矢子さんも、変わってく矢子さんも、全部オレの中にちゃんとしまっていくからね。何も逃さないからね」
継ぎはぎだらけの体を撫でながら、佳佑が囁く。
今、彼に見られるのが少しだけ恥ずかしいと思っていた気持ちが、やんわりと和らいでいく。
矢子は心の底がじわじわと温かくなるのを感じた。
溢れかえる、胸を締め付け鼻先をつんと突くような痛み。それが涙となって外に出ようとするのを、快感と共に堪え続けた。
「オレは絶対、あなたからいなくならないからね」
どんなにすれ違っても、ムカつくことがあっても、嫌いになっても、憎く思っても。
矢子は、そんな『絶対』が存在しないことを知っていた。
佳佑も、その『絶対』が目標でしかないことを知っている。
だけど。
「……絶対?」
「うん、絶対。絶対に絶対」
だけどそれでよかった。それがよかった。
そうしていく、そういう未来を作っていく、そう決意することが、自分たちには必要だったのだ。
恐くても辛くても、立ち止まっても、この人の手は放さない。
一緒に生きていくって、きっとそういう事だ────。
****
佳佑の大学での友達は、結局戻っては来なかった。
矢子の存在で誤解は解けたような、そうでもないような。結局、そんなことどうだっていいのだ。どんなに取り繕おうと、普通ではない、そのレッテルは剥がれない。
女装についておおっぴらに弁解することもなかったし、しても意味がないことは分かっていた。
自分は彼らからすれば異端なのは間違いようもなく、けれど迎合することもできないということを、今ははっきりと認識している。
その上で、自分はこう生きたい。こういう風にしか、生きられない。
それを伝えた所で、彼らと自分の関係は変わらない。
だから佳佑は淡々と学校へ通い、淡々と講義を受け続けた。
タクヤとサキコだけが、時々の話し相手だ。
どことなくつかみ所のなかった友達と、風俗嬢みたいに振る舞う女友達。
なぜだかわからなかったことが、少しだけわかった。だから佳佑は黙っているのが辛くなかった。
誰かを深く知るということは、多くを浅く知るよりも、ずっとずっと価値のある事だと、自分は思う。
その人のために考え、行動できる。
そのための一歩が、知る、ということなんだと解った。
可愛いもの、綺麗なものが好きで、オシャレが好きで、あざとくて、キモいおっさんにモテて、だけど男で、女の矢子を愛していて、甘えたで、あけすけな欲求に従い愛を欲しがって足掻く。
そんな自分の捌け口であり、もうひとりの切り離せない自分、それが『ユカ』だ。
みんなの中にも、『本当の自分』が見つかればいい。
そう思いながら、上を見上げる。
高く広がった空は、近付く春の予感を孕んで、蒼く澄み渡っていた。
****
「矢子さん、似合う。ほら、まわって」
はにかみながら矢子がくるりと回ると、ひらひらと花びらのようにピンクのスカートが舞う。
「こんなの初めて着ました」
「かわいい。せっかく着せたけど、もう脱がせたくなる」
「出かけるんでしょう?」
「そうだよ。どこ行きたい? 水族館とかどう?」
「いいわね。映画も見ましょう」
「夜景でも見ながら食事しようか。で、その後は一緒にここへ帰ってきて、一緒に寝ようね」
「もちろんよ」
暖かい陽射しの中、並んで歩く。
手を繋いで、ちょっと気取った気持ちで背筋を伸ばして。
「細胞は約3ヶ月で生まれ変わるんだって。化粧品屋のお姉さんが言ってた。ターンオーバーとかいうやつ」
ふいに思い出したように言って、矢子を見る。
「ねえ、オレたちも毎日、ちょっとずつ新しくなってるんだよ」
「この服も、昨日までは無かった新しい私だわ」
「ヒールもね。とっても可愛いよ」
「さすが『ユカちゃん』ね」
矢子が笑って、彼の長い髪に触れた。
さらさらと流れるウィッグの黒髪。『ユカ』は得意げに口の端を持ち上げた。
「女同士の外デートなんて初めて」
「どきどきする?」
「するかも。──そうだ、観覧車に乗って、キスしませんか」
「他人が見たらビックリするね」
「驚かせてやりましょう」
「いい度胸だ」
そう言って、明るい春の光の中、矢子を瞳いっぱいに映した。
彼の愛らしい唇が、濡れた三日月を描く。光に透ける髪が揺れて、眩しそうに目を細め、頬にえくぼを作った。
この上なく美しく、蠱惑的に微笑む。
────彼は、可憐な偽りの少女。
おわり
読んで頂き、本当にありがとうございました。




