螺旋のような思考の先に
「少しだけ待ってて。ちゃんと清算する。すぐ戻ってくる。そしたら答えを聞きにくるから」
矢子は、そう言って出て行った佳佑を思い出していた。
──もう、何回目。
なんで佳佑さんのことばかり考えてしまうんだろう。
あの日の記憶をなぞるように、何度も、何度も。
部屋に一人でいる時、食事している時、仕事中にまで。布団から佳佑の匂いがしてきた時など、居ても立ってもいられない気持ちになった。
最初は罪悪感だと思っていた。
今、彼は大変な思いをしていて、きっと誰かに寄りかかりたいに違いない。なのに、わかっていて突き放すような態度を取った。
彼はそれを責めることもせず、どうにかしようとしてくれている。そのことに対する罪悪感。
けれど違う。
「……好きだよ」
いつか言ってくれた言葉と長い口付け。
「……オレのこと好き?」
そう尋ねた佳佑の顔。
それらを思い出すたびに頬が熱くなる。
会いたい。なぜ会いたいのか。なぜこんなに不安になって、弱くなってしまうのか。
はげかけたエメラルドブルーの爪が切ない。
独りより、ずっとつらい。
その理由を、口にするのがこわい。
「矢子さん。いつか本当に、オレのこと好きになってね」
──もうなってる。好き。好きだ。大切だ。
でも、成長してゆく佳佑に、自分が釣り合うとは思えない。
たぶん何かが足りなくて。
普通の人にはある何かが足りなくて。
パーツの足りないロボットみたいに、どこかおかしな挙動をしていて。
普通に振舞っているフリをしていても、皆きっと気付いている。
友達が出来たことがない。誰かと深く関わったこともない。
バレているからだ。自分がカラッポで何もない人間だと。
佳佑は、そんな矢子の中を埋めてくれた。
出会った頃は情けなく弱々しくて、何もかも欲しがって拗ねる子供みたいだった。庇護する対象で、こんな自分でも埋めてあげられるものがある、そういう弱い存在だった。
きっと何も持っていないから、与えられる喜びに打ち拉がれたのだ。
でも今や、戸田望と相対し、自分自身と向き合おうともがき、胸を張って矢子に好きだと、愛して欲しいと言う。
普通になると言い、大人になろうとしている。
人は育つ。植物みたいに育つ。
大地に根を張りツタを絡ませながら、上へ上へ伸びて行く。
あの空を抜けて太陽に届かんと手を伸ばし続ける。
──でも、私はそこに影を落とす。
縛り付けて、目を塞いで、どこにも行かないでと泣いて。
自分の広がりのない人生を思う。
一時だけ深く関わって、体を許して、与え合った気になって、そして全てなかったことにして、そうやって寂しさを埋めて生きてきた。
どこか欠けた人々といるのは心地が良くて、そして何もない。先がないことへの安心感。出会いも別れもない。
与えたいと思ったら、それは愛だよね、たぶん────。
こんなもん、愛なものか。
矢子は自虐的に笑う。
ふいに、『りらっくす』の店長試験に落ちた時の、面接官の話を思い出した。
『矢子さんは、何でも自分でやってしまうね。
君は技術も接客態度も良いけれど、それだけじゃ人は付いてこない。我々は驚きと感動を売っている。店長は、スタッフに対してもそうであって欲しい。
甘やかすのと、手を差し伸べるのは別だよ。
君は────そうだな。
一度、植物か動物を育ててみたらいいんじゃないか』
その後、育てやすいというサボテンを買った。
しかし水をちゃんと遣っていた筈が、サボテンは枯れた。
植物すら、愛情がないと育たない。
──私の元で、佳佑さんは育たない。
だって私は、ちゃんとした愛を知らないから。
佳佑に貰ったネックレスが、胸元で虚しく揺れる。
自分が彼に言うべき言葉が、「さようなら」だと解っているのに。
****
ゆっくりと過ぎゆく午後。
リラクゼーション店『りらっくす』の店内。客足が途絶えたため、矢子は備品の補充をしていた。
正月休みも終わりに近付き、人で溢れかえっていたモールも再び落ち着きを取り戻している。静かな店内に、時折呼び込みの声が虚しく響く。
「あれっ、え、えっ!?!?」
その時、店頭から橋本の困惑した声が聞こえてきた。
何やら客と話しているようだが、おっとりした橋本らしからぬ慌てぶりに、どうしたのかと気になった。
そっと裏から受付を覗く────と。
「佳佑さん?」
そこには『佐伯ユカ』の会員証を提示する、佐伯佳佑の姿があった。
矢子が驚いて声をあげると、目をぱちくりさせながら橋本が振り返る。佳佑は矢子を見つけて嬉しそうに手を振ってきた。
その動作に、矢子の心臓がどくりと強く脈打つ。
「や、矢子さん……! えっと、佐伯様? ご指名でーす!」
「……いらっしゃいませ、佐伯様。こちらへどうぞ」
「はーい」
困惑しながら引き継がれ、矢子は平静を装いながら佳佑を中へ案内する。
──今日は木曜ではないし。なぜ、男の姿で?
矢子は内心混乱しながら、カーテンで仕切られた個室のチェアに佳佑を座らせると、そのまま待たせて別室で施術の準備をはじめた。
と、そこへ橋本が小走りに駆け寄ってくる。
「なになになに!? どういうことっ!?」
「佐伯様のことですか?」
「他に何がっ!?」
キラキラと瞳を輝かせて矢子に詰め寄る橋本。
「超ーーーーーーっイッケメン!!」
「あ、そこですか。確かに綺麗なお顔していらっしゃいますね」
矢子が頷いてみせると、焦れたように橋本が身をよじる。その動作が面白くて、矢子はちょっとだけ笑った。
「女の子だと思ってたわよう! なんで? コスプレ? お泊まりしたんだっけ、つまりそーゆーこと? ねえ、ねえ!」
「あの……橋本さん、たぶん筒抜けですよ」
薄いカーテンの向こう、申し訳程度の個室に佳佑がいることを、目線で橋本に知らせると、彼女は我に返ったように口を押さえて黙った。
そして小声で「あとで、あとで絶対!」と言いながら受付に駆け戻っていく。
「お待たせ致しました……」
仕切りのカーテンを開けて佳佑の元に戻る。
彼は俯いて静かに爆笑していた。
「騒がしくて大変申し訳ございません」
「いいよ。楽しい職場だね、矢子さんが楽しそうで嬉しい」
楽しい……。
考えたこともなかった。
そういえば、いつの間にか橋本とは色んな話をしている。あんな風に身を寄せ合ってはしゃいだり、笑い合ったりするような関係になったのは、ユカと一緒に過ごすようになってからだ。
なんだか不思議だな……。
微笑む佳佑を眺めながら、彼の素足を足置きに乗せ、ウェットティッシュで拭いてゆく。
今日の爪は、あの日と同じエメラルドブルー。そして、左足首には矢子の贈ったアンクレットが光っていた。
それがなぜか妙に嬉しく、切ない。
「……今日は、『佳佑さん』なんですね」
そう呟くと、佳佑は少し矢子の方へ身を乗り出した。
「びっくりした?」
「しました。すごく」
「ふふ。じゃあ、ドッキリ大成功」
にこにことご機嫌に笑って、矢子を見つめる。
「……答え、出た?」
その言葉に、ドキリと心臓が高鳴った。思わず手が止まり、小さく震えてウェットティッシュを取り落とす。さよならを伝えなくてはならない。
「ええ……佳佑さん、私は」
「待って。言わなくていい、大体わかってるから」
意を決して真剣な顔で答えようとする矢子を制して、佳佑が「話を聞いてほしい」と囁き、矢子をまっすぐに見つめた。
「離れている間、色々あって、そんで思ったの。──オレはずっと、独りで生きてると思ってた。だけど違うんだ、って」
佳佑はオットマンから足を降ろして、矢子へ近付いた。本来なら止めなければならないのに、矢子は跪いたまま彼を見る。
「出会った人すべての人と、きっとちょっとずつ触れ合いながら生きてるんだ。矢子さんの仕事みたいに、見知らぬ誰かに触れて、何かを感じながら生きてる」
目線が合い、佳佑は柔らかく微笑んで、矢子の手をとった。
「その中で、オレは矢子さんを見つけたんだよ。ちゃんと見つけたんだ。一緒に生きるならこの人がいいって思ったんだ。矢子さんに何か足りないなら補うよ。ふたりで継ぎ足していこう。……ねえ、最初から全部もっている人間なんていないんだよ。オレだって、人の愛し方なんて知らなかった。でも、矢子さんが教えてくれたんだよ」
その言葉に、矢子は戸惑いながら頭を振った。
「違う……もしそうなら、あなたが自分で学んだのよ」
「ううん。教えてもらったんだよ。何もかも全部、誰かが教えてくれたことなんだ」
人は一人では生まれてこない。生きてゆけもしない。
佳佑は矢子の右手を両手で温めるように包む。
「次は自分を愛する番だと思わない?」
首を傾げながら言って、にっこりと笑う。二重の大きな瞳が細まり、えくぼが出来て右目の下のほくろが持ち上がる。
まるで可愛い女の子みたいな笑顔────。
「普通になるって言ったけど、あれ、やめるよ。自分を嫌いになりたくないんだ。オレはこれから、自分のために好きな格好をして、自分のために生きる。自分で良いものを見つけて、自分だけの好きなものを大切にする」
そう言うと、両手を開いて矢子の手を解放した。
しかし矢子は、佳佑の手の上から自分の手を退けることも出来ず、ただ固まって彼を見つめている。
「矢子さん、考えないで」
固まって虚ろになった瞳を覗き込み、佳佑が囁く。
矢子の指先がピクリと動いた。
「考えないで、感じてください。オレはあなたが好き。あなたも、オレのことが好き……だよね?」
佳佑がにっこりと笑って、矢子の胸元のネックレスを指差した。
それは相手に束縛されてもいいと、お互い与え合った証だ。
答えなければ。答えたい。
矢子は焦りながら両手でネックレスを握りしめる。うまく言葉が出てこない。
ただ気持ちを言うだけなのに、色々な事が頭を駆け巡って矢子を口籠らせた。
「……わたし、私は……」
だけど、先程まで別れを告げようと思っていた事も間違いだとは思わない。自分はいつか佳佑の障害になる。人の愛し方だって、もう佳佑の方がきっと知っている。だったら、自分とではない誰かの方が、きっと幸せになれるはずだ。
だけど、それは嫌だ────。
「……矢子さん、大丈夫。オレは待ってる、待たせて」
佳佑が優しい声で囁き、ぎゅっと目を瞑り迷う矢子の頭を軽く撫でる。
そして、靴を履いて立ち上がった。
「えっ、佳佑さん、施術……!」
「あれ? もうやってもらったよね?」
慌てて顔を上げた矢子に悪戯っぽく笑うと、「気持ちよかった、ありがとう」と言って手を振り、カーテンを開けた。
「あれっ、お時間よりまだ早いですけど、お帰りですか?」
「はい。また来ます」
カーテンの向こう側で片付けをしていた橋本が微笑みながら会釈すると、佳佑は頷いて、上着を受け取って出て行く。
「矢子さん、お見送り────」
振り返らず去って行く佳佑を気にしながら、動かない矢子を不審に思い振り返った橋本は、驚いて目を見開いた。
「え、え、矢子さん、矢子さんどうしたの?!」
矢子の両目からは、ぽたぽたと涙が零れていた。
「あ、あれ……なんでしょう。なにも、なかったのに。何もなかった、あぁ……どうして」
自分の頬を伝う水に気がついて、矢子が戸惑いながら俯いた。
ただ、佳佑が好きだと伝えるだけでよかった。なのに、口に出せない事がもどかしく、歯がゆかった。
本心を言うのが、こんなに大変だったなんて。
つっかえていた何かが押し流されるように、涙が溢れる。
好きだという一言の強さ。
なんて強い言葉だろうか。その気持ちと向き合って、口に出して、本心をさらけ出すことの恐ろしさ、それを乗り越える強さに憧れずにはいられない。
──戸田望さんは、こんなすごいことを、たった一人でやっていたのか。
ふいに、佳佑に付きまとっていたストーカーである戸田望を思い出す。
好きな人に利用され、傷つけられて拒絶されても、それでも自分の気持ちと向き合おうとする戸田望を、少しだけすごいと思った。
人として褒められることではないし、迷惑なだけかもしれない。けれど、だからこそ、戸田望はすごい。すごいんだ。
「──何もかも全部、誰かが教えてくれたことなんだ」
そうか、そういうことか。
佳佑の言っていた意味がわかる。
戸田望の無謀な勇気と気概が羨ましい。私も、それに学んでみたい。
「ケンカでもした? 美少女でイケメンで女泣かせとは、ほんと、佐伯様ってば一体何者なの〜?」
笑いながら橋本が言って、泣いている矢子の顔をティッシュで拭った。そしてふんわりと抱きしめる。
そのあまりの自然な動作に、矢子は驚いた。
少し固まった矢子の体を、橋本が解すように擦る。赤ちゃんをあやすみたいに抱きしめる。親愛だけで充たされたその抱擁は、矢子の中の何かをいっぱいにさせた。力が抜けて、涙が止めどなく溢れた。
「橋本さん……あったかい」
甘えるように顔を肩にくっつけると、橋本は笑った。
「当たり前だよ、生きてるからね! 矢子さんだってあったかいよ。もー、可愛いなあ。恋してるんだね」
恋。
私、恋してるんだ。もう落ちているんだ。
そっか、これが恋。この苦しくてツライのが、恋。
そのあまりの衝撃的な言葉に、なぜか頭を殴られたような感覚になった。
当たり前すぎて、シンプルすぎて、驚きで涙が止まった。
「あ、泣き止んだ?」
「……はい。橋本さん、ありがとうございました」
そう言って、矢子は体を離す。
「迷惑ついでに教えて欲しい事があります」
「なあに?」
真剣に見つめてくる矢子に驚きながら、橋本が首を傾げる。
──私も現実を生きたい。
佳佑さんの横にいてもいいと、思えるようになりたい。
矢子は意を決して口を開く。
「自分を好きになるには、どうしたらいいと思いますか?」




