第33話:トラウマという名のシステムエラー
(また、失敗する……!)
俺の魂がついに完全に沈黙した。
その瞬間、俺の鉄の身体は凍りついたかのようにその場に立ちすくむ。
それはリリアの操縦を拒絶する俺自身の魂による完全な機能停止だった。
俺たちの本当の絶望が今、始まろうとしていた。
リリアが最後の力を振り絞って叫ぶ。
「避けて!
アルマ、お願いです、避けてください!」
(避けたいさ……でも、身体が……魂が、動かないんだ……)
俺の魂は完全に過去に囚われていた。
目の前に迫る疾風狼の牙が父の「失敗作」という言葉と重なる。
そうだ。
俺はこの一撃を受けるために生まれてきたのかもしれない。
この、あまりにも残酷な罰を。
世界がスローモーションになる。
とどめを刺すべく突進してくる疾風狼の美しい銀色の毛並みが一本一本、やけに鮮明に見えた。
その蒼い瞳に映る、無力に立ち尽くすだけの醜い鉄の塊。
それが俺の最後の姿。
「アルマ、動いて!
なぜ!? 魂の接続が……拒絶されています! アルマ!」
鎧の中からリリアの悲痛な叫びが響く。
彼女の魂が必死に俺の身体を動かしようと霊素の命令を送っているのが分かる。
だがその命令は、俺の魂という名の分厚い壁に阻まれ虚しく霧散していく。
違う。俺は拒絶しているんじゃない。
俺の魂が、俺自身の弱さが彼女の操縦を受け付けないのだ。
(ダメだ……動くな……!)
魂の奥底で俺の本能が叫んでいた。
(動けばまた失敗する。また間違える。また大切なものを傷つける……!)
そうだ。
動かなければ失敗することはない。
挑戦しなければ間違いを犯すこともない。
何もしなければ、これ以上誰も不幸にしない。
俺という「失敗作」がこれ以上、世界にエラーを撒き散らさずに済む。
それこそが唯一の正しい選択なのだと、壊れた心が結論付けていた。
俺の魂が自ら鉄の牢獄に閉じこもる。
リリアとの接続を断ち切り、外界からの全ての情報を遮断する。
もう何も感じたくない。
何も考えたくない。
俺の、田所陸の人生はここで終わるのだ。
そう全てを諦め、魂が永遠の眠りにつこうとしたその瞬間。
脳内にあの感情のない無機質なシステムメッセージが響き渡った。
それはこれまで俺たちを導いてくれた希望の声ではない。
もっと冷徹で残酷な、診断結果の告知だった。
《警告:精神防壁の影響により、鎧の運動性能が著しく低下》
(……精神、防壁……?)
その聞き慣れない言葉に、閉ざされたはずの俺の意識がほんのわずかに反応する。
《精神防壁:搭乗者の魂に深刻な精神的負荷がかかった際、魂そのものの崩壊を防ぐために発動する最終安全装置。鎧の全機能を強制的にロックし、外部からの刺激を遮断します》
(なんだ……それ……)
システムは淡々と説明を続けた。
それはあまりにも皮肉で、そして絶望的な事実だった。
(俺の……トラウマが……安全装置……?)
そうだ。
失敗を恐れる心。
挑戦から逃げる弱さ。
父に「失敗作」と罵られた、あの忌まわしい記憶 。
それらが俺の魂を守るための「防壁」として、この鎧のシステムに組み込まれているというのか。
失敗という名の致命的なダメージから魂を守るために、全ての機能を停止させる。
なんという欠陥だらけの安全装置だ。
(俺を守るための壁が……俺を、殺すのか……?)
これ以上の皮肉があるだろうか。
俺は俺自身の魂によって、この場に縫い付けられていたのだ。
失敗しないために何もしない。
傷つかないために死を選ぶ。
それこそが俺という「失敗作」の魂の設計図そのものだった。
その事実に気づいた時にはもう遅かった。
俺の鉄の身体は完全に沈黙していた。
関節はロックされ霊素回路はショートし、もはやリリアがどれだけ魂を注ぎ込もうと指一本動かすことすらできない。
ただの鉄の棺桶と化していた。
そしてその異常事態は、とどめを刺そうとしていた疾風狼の動きをも狂わせた。
俺の喉元を食い破る寸前だった銀色の弾丸がピタリと、ありえない挙動で俺の鼻先数センチのところで急停止したのだ。
「グルル……?」
疾風狼の蒼い瞳に初めて明確な「困惑」の色が浮かんだ。
目の前の獲物から生命の気配が完全に消えたのだ。
さっきまで必死に抵抗していた魂の輝きが、まるでスイッチを切ったかのようにフツリと消えた。
中にいる妖精の魂はまだ恐怖に震えているのが分かる。
だがこの鎧そのものは完全に「死んだ」。
それは死んだふりなどという生易しいものではない。
魂が完全に殻に閉じこもってしまったのだ。
もはやそれは戦士ではなく、ただの奇妙な形をした岩石だ。
疾風狼はその知的な瞳で俺の周りをゆっくりと旋回し始めた。
クンクンと匂いを嗅ぐように鼻先を近づける。
理解できないのだ。
なぜ獲物が戦うことをやめたのか。
これはどんな罠なのか。
だがいくら観察しても、俺の鎧からは何の殺意も抵抗の意志も感じられない。
ただ圧倒的な「無」があるだけだ。
やがて疾風狼はつまらなそうに鼻を鳴らした。
この鉄の塊が何なのかは分からないが、もはや自分の脅威ではないと判断したのだろう。
遊びは終わり。
あとはこの奇妙なガラクタを破壊して、中の妖精を喰らうだけ。
疾風狼がその前脚をゆっくりと持ち上げる。
その先端にはロックリザードの甲殻すら切り裂いた、剃刀のように鋭い爪が蒼白く輝いていた。
あれで殴られれば今の俺の鎧などひとたまりもないだろう。
「アルマ!
お願いです、戻ってきてください!
わたくしを一人にしないで……!」
鎧の中でリリアの魂が絶叫する。
彼女は鉄の牢獄の中でなすすべもなく、ただ迫りくる死を見つめることしかできない。
彼女の絶望が、恐怖が、俺の閉ざされた魂の扉を必死に叩く。
だがその扉は開かない。
《精神防壁》という名の、俺自身の弱さが作り出した最強の錠前がそれを阻んでいる。
(ごめん……ごめん、リリア……)
俺の魂はトラウマという名の泥濘の底で、ただ謝罪の言葉を繰り返すことしかできなかった。
疾風狼の爪が振り下ろされる。
スローモーションの世界の中、俺はリリアの魂の光が恐怖で砕け散る瞬間をただ見ていることしかできない。
(俺が……俺が、失敗作じゃなかったら……!)
(もっと、強く生まれていたら……!)
(挑戦を、恐れない心を持っていたら……!)
後悔が、絶望が、俺の魂を完全に塗りつぶそうとしたその時。
リリアの魂が最後の輝きを振り絞った。
それはもはや懇願ではなかった。
悲鳴でもなかった。
それは俺の魂を、このどうしようもない臆病な整備士の魂を、心の底から信じるという絶対的な「祈り」だった。
(アルマ……)
その声は驚くほど静かで、そして穏やかだった。
(聞こえますか。わたくしの声が)
彼女の魂の光が、俺の精神世界の泥濘の底にそっと差し込む。
(あなたは、失敗作などではありません)
その光は温かかった。
(あなたは、わたくしがこの絶望の底で見つけた、たった一つの希望の光)
その光は優しかった。
(だから、お願いです。思い出して。あなたが本当は何をすべきなのかを)
疾風狼の爪が俺の兜めがけて振り下ろされる。
もう間に合わない。
だがリリアは諦めていなかった。
彼女の魂が最後の引き金を引く。
「あなたは、わたくしの……!」
その言葉が俺の魂の最も深い場所に突き刺さった。
そうだ。
俺は整備士だ。
壊れたものを直すのが仕事だ。
そして今、俺の目の前で世界で一番大切なものが壊されようとしている。
(―――動け)
俺の魂が呻いた。
(動けよ、俺の身体……!)
《警告:精神防壁、作動中。機体制御、不可》
(うるさいッ!!)
俺の魂が初めてシステムに牙を剥いた。
(俺は、失敗作なんかじゃない……!)
(俺は……!)
(―――リリアの、騎士だッ!!)
その魂の絶叫が分厚いトラウマの氷壁に、ほんのわずかな亀裂を入れた。
まだだめだ。
まだ動けない。
だが俺たちの絶望は、まだ終わってはいなかった。
リリアの魂の祈りが次なる奇跡の引き金になろうとしていた。




