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テクノブレイクしたけれど、俺は元気です  作者: 水月一人
4章・分速12メートル
119/124

そして世界は暗闇に包まれた

 騒然とする部室棟前から、俺は弾かれるように飛び出すと、わき目もふらずに一目散に逃げ出した。振り返ることは出来なかったが、背後から怒声を上げながら、教師が数人追いかけてきていた。しかし、橋を越えてバス通りに入ったらそれ以上追いかけてはこなかった。


 そこからどこをどう通ってきたかは定かではない。ショックを受けたせいか記憶が飛び飛びで、気がつけば俺は、学校から何キロも離れた自然公園の入り口に、ぼんやりと佇んでいた。


 先ほどからパトカーのサイレンが鳴り響いているのは、もしかして俺を探しているのだろうか。考えようによっちゃ、不審者が学校に忍び込んで女生徒を殴りつけたわけだから、通報されていてもおかしくない。


 しかし、捕まったら一体どうなってしまうんだろう……成美高校の生徒だと言っても、多分学籍は残されちゃいないだろうし、小町と幼馴染だと言っても、それを証明する手立ても無い。


 その時、ポケットの中で倖に渡されたプリペイド携帯がブルブルと震え出した。


 着信を見るまでもなく、この携帯番号を知っているのは、世の中でたった一人しか居ない。出たほうがいいのは分かっていたが、俺はそれを手にしたまま、どうすることも出来ずに、ただ呆然と突っ立っていることしか出来なかった。


 やがて携帯のバイブレーションが切れると、まるでそのエネルギーが乗り移ったかのように、自分の体がブルブルと震え出した。そんなことをしても意味無いだろうが、俺は公園の茂みに身を潜めると、その場にへなへなと腰を下ろした。


 クラスメイトたちの突き刺さるような視線を思い出す。倖の必死の呼びかけが脳裏を過ぎる。迷惑をかけた晴沢成美や玉木老人は、一体今頃自分のことをどう思っているだろうか……怒ってるんだろうか……軽蔑されてるんだろうか……


「う……ううぅ……」


 自然と嗚咽が漏れた。ボタボタと涙が零れた。視界が滲んで何も見えない。耳障りなサイレンの音が、俺の神経を揺さぶる。手で顔を覆うと、指の隙間から止め処なく涙が溢れ出していった。

 

 

 

 普段であればなんでもない山道で遭難しかけて、偶然にも崖下に転落したバスを見つけて、その生存者たちを救助して一夜明けても、藤木藤夫が目覚めることはなかった。


 正確には、藤木の体には俺が乗り移っていたので、もしかして自分が憑依を解いたら、彼が目覚めるんではないか……? と思って、再三にわたってそれを試みてみたのだが……何度やってみたところで、彼が突然目を覚ますといったような奇跡は起こらなかった。


 救助活動で助けた乗客たちから感謝され、地元の警察からも表彰されると言われたのだが……冷たいようだが、自分が一番助けたかった人物を助けることが出来ず、なおかつその人に憑依しているというような、有り得ない状況の中で、そんなことを言われても喜べるわけも無く、俺は逃げるように東京へと帰った。


 名前も告げずに逃げ帰ろうとする俺に、駆けつけた小町たちは戸惑っていたが、すぐに理解して賛同してくれた。何しろ、その時には、事故現場の崖の上で、俺自身の死体が発見されていたからだ……立場は逆であったが、友人を救えなかったという哀惜の念を、彼女らは汲んでくれたのだろう。


 いや、しかし、これも正確ではない。


 驚いたことに、俺は生きていた。


 一晩中、素人の掘った簡易的な雪濠の中で、魂が抜けた状態で放置されていた俺の体であったが、発見された当初こそ、心肺停止状態で死亡と判断されたが、収容先の病院で脳波が確認されると蘇生措置を取られた。すると心臓が動き出し、間もなく身体的には健常者と変わらないまでに回復した。しかし、その大脳機能が広範囲において機能していない。植物状態であった。


 もしかして、自分と藤木が入れ替わってしまったのではないか?


 淡い期待を抱いてはみたが、それもすぐに否定された。


 試しに元の自分の体に戻ってみたら、あっけなくそれが可能だった。しかし、元の体に自分が戻れば、藤木の体が動かなくなる。検査したわけじゃないから、はっきりとは分からないが、多分、この藤木の体も、同じような状態なのだろう。


 つまり、今、俺の目の前に二つの体が存在する。俺はそのどちらかを選ばなければならない。もし、俺が元の体に戻れば、藤木が植物状態になる。だが、藤木の体の中に留まっていたところで、藤木の魂が戻るという保障はない。


 スキーから帰り、春休みが明けて新学期が始まった。様子のおかしい息子のことを心配して、藤木の母親は学校にはまだ行かずに休んでいたらどうかと聞いてきた。


 しかし、俺はそれを断って学校に通った。彼女がおかしいと思うのは当然で、今息子の中に別の人間が間借りしているのだ。家に居たら、いつボロが出るか分からない。


 旅先の救急病院に収容されていた俺の体は、休みが明けると七条寺市内の市立病院へと移された。ほぼ、孤立無援の孤児状態の俺が、死亡ではなく植物状態になってしまったことに、後見人が困惑していた。見たことも聞いたこともない、俺の親戚だと言う者たちが次から次へと現れて、俺の面倒を見ると言い出した。俺の銀行口座がどこにあるのか、しきりに気にしていた。


 俺は病院に俺自身を見舞うという、馬鹿みたいな行為を続けていたが、俺が病室に顔を出すたびに、毎回違った顔が、毎度同じようなことを聞いてくる。天王台元雄に、何か託されたりしなかったか。何か困ったことがあったとき、どうしろと言われなかったか。


 当の本人に言ってるとも知らず、金の無心を続ける胸糞の悪い連中をあしらい、病室に入って陰気な自分自身の顔を見ていると、どうして俺は生まれてきてしまったのだろうかと、何ともいえない気分になった。


 そうだ、これは好都合じゃないか。


 俺に生きている価値などない。死んで悲しむ者も居ない。やりたいことだって、何にもない。


 幸い、体を支配しているからだろうか、それとも魂が馴染んできたのだろうか、いつの間にか、俺は藤木の記憶を自分のことのように理解していた……


「……あんた、一体何者よ?」


 ゴールデンウィークが近づく四月下旬。ついに小町にばれた。


 思春期特有の反抗期と捉えられ、思いの外、母親のことは避けられたのだが、幼馴染はそうはいかなかった。特に彼女は藤木のことが好きで、元気の無い俺のことを気にしていたから、ばれるのは時間の問題だった。


 俺はもはやこれまでと、彼女に自分の秘密を漏らした。


 彼女はショックを受けながらも、俺の最近の様子と照らし合わせてそれが事実だと理解すると、


「それで、藤木は一体どうなったの?」


 と聞いてきた。だから俺は、それまでに用意しておいた言葉を告げた。


「藤木の魂は、多分消えた。ただ、藤木の記憶は俺の中で生きている……」

「どういうこと?」

「生まれてきてからあの雪山事故まで、全ての記憶が俺の中にある。例えば小町、おまえと出会った廃工場跡のことや、中学に入っておまえを別の男に取られて苦しんだこと。文芸部に入部して、俺たちが出会って、サークルを作ったこと。卒業して、成美高校で過ごした1年間のこと。全て、自分が体験したように感じられる」

「…………それで?」

「つまり、この体に必要ないのは、俺の記憶だけなんだ」


 小町は始め、俺が言ってることを理解できないようだったが、段々と意味が分かってくると、困惑した口調で言った。


「そうしたら、あんたはどうなるの?」

「どっちにしろ、俺か、藤木か、どっちかしか生き残れないんだ……だったら、俺なんかより、藤木が生き残ったほうがよっぽどいい」

「そんなことないでしょう? あんたにだって、死んだら悲しむ人が居るはずよ」


 俺はゲラゲラと笑った。


 腹がよじれそうだった。


 おかしすぎて涙が出る。


「俺の親戚だっていう連中を見ただろう? 俺が死んだら悲しむどころか、遺産が入ってくるって大喜びだぜ」

「…………」

「もしも、悲しんでくれる人が居るとするなら……それは、藤木くらいのものだよ」


 だから、自分の魂を藤木にやる。それは偽者かも知れないが、本物の天王台元雄よりも、偽者の藤木藤夫のほうが、俺にはよっぽど大切に思えた。


 小町は何かを言いたげにしていたが、結局は何も言えず、目を伏せた。


 俺はゴールデンウィークに入ると、小町に協力してもらって、一時的に自分の体に戻って目を覚まし、すぐさま自分の遺産を処分した。


 それからまた藤木の体に戻ると、今度は自分の記憶を消すように自己暗示をかけた。


 素人だから、そんなに上手くいくわけがない。しかし、俺には確信があった。能力によって藤木の記憶を得られたのだから、能力によって俺の記憶を消すことも可能なはずだ。他人の記憶をのぞき見るなんて、普通なら出来ない。記憶は一人ひとり別々に分けられているはずで、本来なら二つの記憶を持つことなどありえないだろう。


 そして、その試みは上手くいった……

 

 

 

 涙のせいで視界がぼやけて何も見えないと思っていたら、とっくに日が暮れて夜になっていた。さっきからしゃくりあげる横隔膜のせいで、上手く呼吸が続かない。


 震える体で公園の外の道路を見たら、強烈なヘッドライトをつけた車の群れが流れていった。その光がレーザービームのように見えるのは、きっと雨が降ってるからだろう。


 木陰に入って息を吐くと、それが白く霞んだ。体が震えているのだが、それが何のせいなのか、もう良く分からない。体はガチガチに冷えていたし、頭の中はぐちゃぐちゃで、涙は止め処なく溢れてくる。まるで子供みたいだ。


 ポケットの中で、携帯がプルプルと震え出した。


「もしもしっ! 藤木っ!?」


 それを耳に当てると、立花倖の声が聞こえた。それはまるで何年も会ったことが無かったかのように、懐かしく聞こえるのだった。


「あ……ぁ……」


 俺は彼女に伝えなくてはならないのに、言葉が詰まって上手く喋れない。


「あんた、いまどこに居るの?」

「…………自然公園……」


 すぐに向かうから、そこから動かないでと言って彼女は電話を切った。


 だらりと垂れた腕から、携帯電話がポロリと落ちる。


 藤木の体を乗っ取った俺は、初めは上手く行っていた。俺の記憶は綺麗さっぱり消去されて、あの雪山で起きたことも忘れていた。


 長期休暇明けと言うタイミングだったので、俺の様子がおかしいと気づいた者はいなかったのか、問題にされることは無かった。小町は知っていたが、彼女が口を出すことは有り得無かった……


 すべてが上手く行くはずだった。だが、俺には能力があった。それは藤木には無いものである。


 元々、俺の能力は二つの世界のどちらか一方を選ぶというもので、幽体離脱はそれに付随するオマケだった。だが、それを知らない俺は、こいつは便利だと言って、何度も何度も繰り返した。


 自分が幽体離脱をする度に、世界が書き換わっているとは気づかずに。


 初めは部室占拠事件……藤木ならこういうことをやるのは間違いなかったが、能力を使ったせいでそれがチャラになった。藤木は能力を使えないのだから、当たり前だ。


 続いては旧校舎の殺人事件。これで俺は四月に晴沢成美と出会わない世界に戻してしまった……そうなのだ。俺は元々、四月に晴沢成美に出会ってない。出会っていたのは、もしも藤木藤夫が生きていたら……というイフの世界での出来事であったのだ。


 これが何を意味しているのか……俺は藤木藤夫として生きていこうと決めたときに、自分自身の存在を消したつもりだった。


 しかし、俺は自分の記憶を、自分でも気づかないうちに取り戻していってたのだ。


 それが尤も顕著に現れたのが、天使が消えたあとの、自力での幽体離脱に成功したときだ。これによって、俺はほぼ完全に能力を取り戻した。それは絶対に藤木藤夫の人生では有り得ないことであり……このとき、俺はもう藤木藤夫ではなくなり、藤木藤夫の記憶を持った何かになってしまっていた。


 それでも、まだ学籍も残っていたし、母親も俺のことを覚えていた……それが崩れ去ってしまったのは……


 俺が、立花倖のことを、好きになってしまったからだ。


 馳川小町ではなく、立花倖のことを好きになってしまったから。


 それは藤木藤夫では絶対有り得ない。


 立花倖を愛していいのは、世界中でただ一人。


 だからその瞬間、俺は俺に戻ってしまい……


 世界から藤木藤夫が消滅した。


 この世界は、藤木藤夫が死んだ世界なのだ……だから、死んだ息子が突然現れた母親は、それを認識できなくて半狂乱になった。死んだ男の学籍なんて、もちろん存在しない。俺を覚えているのは、俺が世界を騙し始めた後に出会った人たちばかりなのだ。


 戻さなくてはいけない。


 だって、この体は藤木藤夫の物なのだ。天王台元雄の物ではない。


 母親の恐怖に慄いた顔が頭に浮かんだ。


 小町の殺意を孕んだ瞳を思い出した。


 また、元通りにしてやり直さなければならない……


 そのために……


 俺は、やっと巡りあった最愛の人と別れなければならない。


 生まれて初めて知った気持ちを、忘れなくてはならない。


 なんと愚かなことだろうか。俺はいつも選択肢を間違える。でも自分で決めたことじゃないか。自分を殺すってことは、そういうことじゃないか。

 



 ザーザーと雨脚が強まり、木陰に入っていてももう意味が無いくらいに全身がずぶ濡れていた。空は雨雲で真っ暗で、繁華街のネオンを反射して、絵の具を洗ったバケツみたいな色をしていた。渋滞の車列が赤いテールランプを等間隔で繋いでいる。さっきからまったく動きが無いのは、夕方の帰宅ラッシュに事故でもぶつかったのだろうか。


 さっきまでずっと聞こえていたパトカーのサイレンはもう聞こえなかった。変わりに渋滞の車列から、引っ切り無しにクラクションが鳴らされる。


 もう隠れる必要も無いので木陰から出ようとしたら、つま先に何かが触れた。見れば自分が落としたプリペイド携帯が、雨に濡れて転がっていた。


 手にとって電源を入れようとしたが、それはもう、うんともすんとも言わなかった。これではもう、倖と連絡を取ることは不可能だ。さっき、ここへ向かうと言っていたが、この渋滞では近づくことも出来ないし、彼女が困ってるのではなかろうか……


 そう考えたとき、俺は何か言いようの知れない不安を感じた。


 公園から出ると、渋滞の車列がずっとどこまでも続いている。


 さっきから一向に動こうとしないその先頭を確かめようと、俺は駆け出した。クラクションの音にイライラした。余所見しながら歩く通りすがりの傘を飛ばすと、激しい罵声が聞こえてきた。女子高生が俺の形相に身を竦ませている。やがて前方に赤い回転灯の光が見えた。


 交差点を遠巻きに眺める人垣に飛び込むと、対向車線に壁に突っ込んだ、どこにでもある有り触れた白いエコカーが見えた。


「うわあああああああああああああああああ!!!!!」


 その車は世界のベストセラーだったし、色だってよくあるものだった。だから何かの間違いだと思いたいのだが、それを確かめるよりも前に、俺は叫び声をあげていた。


 その声に人垣が割れる。俺は事故現場へと一目散に飛び込んでいった。交通整理をしている警官に止められたが、家族だと言ってお構い無しに車に飛びつくと、運転席に座る女性の顔を覗きこんだ。


「…………藤木……電話、出なさいよ……もう」


 立花倖がそこに座っていた。


「うわああああああああああ!!!」


 俺は驚いて、扉に縋りつくと、中から彼女を出そうとそれを開けようとした。しかし、事故った時にひしゃいでしまったみたいで、押しても引いてもびくともしない。倖の車は壁に減り込んでいた。助手席側は半分以上つぶれ、エアバッグが彼女を押しつぶしていた。


 警官が何か言っていた。だが、そんなこと関係なしに、俺は必死に扉を開けようと何度も何度も引っ張った。


「待ってろ、今助けるから!」

「……ありがとう。でも聞いて……時間がないの」


 辛うじて動くらしい彼女の右手が伸びてきて、俺の頬に触れた。どうしていいか分からずに、それを握ると彼女は言った。


「藤木……あんたに隠れてずっと調べていたんだけど……」

「違うんだ! 俺は、藤木じゃなくって……本当は……本当は」


 そういうと、彼女はふっと柔らかく笑って、


「そっか……自分で気づいちゃったのね……あんたは、いつもあたしより先に気づくのね。形無しよ」

「そんなこと、どうだっていいだろ。それより、すぐに助けるから」

「……ううん、大事なことなの。聞いて……」


 彼女がギュッと俺の手を握り返してきた。何か、ザラザラとしたような違和感を感じて、俺は咄嗟にその手を開いてみる。思わず、背筋が凍りついた。そこには、数日前に見た料理のときの傷とは比べ物にはならないほどの、夥しい数の傷跡があった。


「……何日か前から、あんたに関する記憶がどんどん抜け落ちて行ってるの……」

「……え?」


 事故のせいなのか? 真っ赤に染まるその傷跡に身震いしていると、彼女はもっととんでもないことを言った。


「最初、知らない男が自分の部屋にいると思って、ビックリしたのよ……でも、流石あたしね……大事なことはいつも手書きにして、ノートに書いてあるの。お陰で助かったわ」

「忘れている? どうして?」


 なるみは覚えていた。玉木老人も俺のことを知っていた。小町だって、気づいている。


「分からない……ノートを頼りに記憶を取り戻していたんだけど、段々限界が近づいてきちゃってさ。もし、あたしが落ちちゃったら、多分、あんた困ったでしょ。で、寝て起きるたびにそれが起こるようだったから、もういっそ寝ないでおこうって……えへへ、ドジッちゃった」


 右腕の夥しい切り傷を見てぎょっとした。彼女は、眠くなるたびに自分を傷つけてそれに堪えていたのだ……


「そろそろヤバかったから、頑張ったんだけどね……先を越されちゃったか。でもいいわ、そんなことどうでも……聞いて、あんたは藤木じゃない」

「……知ってる。知ってるから、もうしゃべるな。今助ける」

「藤木じゃないあんたが、このまま藤木の体に留まるのは、限界があるのよ」

「分かってる。だから……」

「だから、それを回避するためにも……あんたは、藤木に戻りなさい」

「……え?」

「あたしのことは、忘れなさい」

「なにを言って……」


 ぎくりとして、思わず口をついた……何を言っているかって? さっき、俺自身が自分でそう決めたじゃないか。どうして、驚くことがある。彼女は、俺が言い出す前に、それを言ってるだけじゃないか。


「あんたのことだから、とっくに気づいてるんでしょう。このまま無理をしたら、多分、また前みたいに幽体離脱を繰り返して、知らない誰かに憑依してって……いずれ、自分じゃいられなくなる……藤木ですらいられなくなる」


 彼女の言うとおりだった。既に、自分は何か良くわからないものになっている。藤木藤夫の体を持ちながら、天王台元雄の記憶を持った、得体の知れない何かだ。そんな存在が、ずっとこの世に存在していられるだろうか……


「そんな風にはなって欲しくないのよ。どうせ、あんたがあんたじゃなくなってしまうと言うのなら……」


 倖は言った。


「一日でもいいから、長く生きて? あたしのことを忘れてもいいから。他の子を好きでも良いから。一日でも長く……生きて……」

「……い、嫌だ……」


 即答だった……


 彼女に会ったら、別れようと言うはずだった。


 だって、この体は藤木の物なのだ。自分勝手にして良いはずが無い。だったら、あの時……病院のベッドに横たわる自分の体を前に、どちらの人生を選ぶか決めた時……藤木を見捨てれば良かったじゃないか。


 どうしてそうしなかった?


 自分の人生がみすぼらしいからって……藤木が生きていたほうがよっぽどいいからって……逃げてきたんじゃないか。


 その人生を無茶苦茶にしてしまう。現に今、無茶苦茶になっている。


 愛する人にまで、やめろって言われてる。


「……どうせ、あたしは忘れてしまうわよ。多分、もうじき眠ってしまって、起きたらもう、あんたのことなんて、何も覚えてない」


 藤木として生きると決めたときから、もう選択肢なんて無かったんだ。


「……それでも、やだ」


 なのに、なんでその一言が飲めないんだ。


「我がまま、言わないで……」


 倖の瞳が閉じられた。元気そうな素振りをしていたが、本当はとっくに限界だったのだ。多分この寝顔は、自分が見ることの出来る、最愛の人の最後の寝顔になるはずだ。明日になったら、それは永久に失われる……


 俺は車に取り付くと、必死になって扉をこじ開けようとした。


「絶対、嫌だっ!!」


 車のドアを引っぺがそうとガンガンと叩いた。角に当たったのか、腕から血しぶきが上がった。割れたフロントガラスをバリバリとどけて、前から引きずり出そうとしたら、後ろから警官に羽交い絞めにされた。


「もう止めないか。家族だとしても、やりすぎだ。レスキューを待とう」

「はなせっ!!」


 どこにそんな力が残っていたのか、俺が振りほどくと自分よりもずっと体格の良い警官が尻餅をついた。それを見た、他の交通整理の警官が、あちこちから駆けつけてくる。


 俺は車のドアにしがみ付くと、最後の力を振り絞ってドアを思いっきり引っ張った。しかし、無情にもそれはびくとも動かない。


 やがて警官たちが俺の腰にしがみついて、ずるずると車から引き剥がした。懸命にすがり付こうと手を伸ばした時、


「……いかないで」


 ポツリと、彼女の声が聞こえた。


「――――――――――――っっっっ!!!!」


 俺は半狂乱になって何かを叫んだ。


 警官たちが必死になって押さえつける。遠巻きにこちらを見ていた野次馬が、携帯カメラを取り出してパシャパシャと撮影し始めた。雨脚が増して、水が耳の中でじゃりじゃりと音を立てた。


 どんなに頑張っても、もう体は動かなかった。どんなに手を伸ばしても、彼女にはもう届かなかった。


 渋滞の車列から届くヘッドライトがキラキラと輝いて綺麗だった。


 じくじくと痛む腕には、いつの間にか包帯が巻かれていた。


 やがて、レスキューがやってきて、あっという間に彼女を連れ去っていった。

 

 

 

 いつの間にか雨は上がって、星空が輝いていた。


 なのに、水が滴るくらいずぶ濡れになって歩く俺の姿は目を引いたのか、すれ違う人々はみんな避けて通り過ぎていった。


 もう、金も持っていないので、駅からの道をべちゃべちゃと音を立てながら歩いた。体が重いのは、多分、水浸しの洋服のせいだけじゃない。さっきから、頭がガンガンと痛かった。


 懐かしい我が家は灯りが灯っていたが、俺の部屋は真っ暗だった。いや、あそこは俺の部屋ではない、藤木の部屋だ。


「小町っ! 小町ぃぃ~~っっっ!!」


 夜遅いのに大声で叫ぶ俺に苛立ったのか、関係ない家の窓がガラガラと音を立てて開いた。だが、中から出てきたおっさんは、俺のみすぼらしい姿を見て、ギョッとしてすごすごと部屋に戻った。


「こぉーまぁーちぃぃぃぃ~~~~~っっっっ!!!!!」


 やがて、小町が部屋から顔を覗かせると、彼女はすぐ引っ込んで、部屋の電気を消した。暫く経っても動きが無い。無視するつもりだろうか……


 どうしようかと迷っていたら、棟の影から彼女の姿が現れて、俺の元までやってくると、持っていたデイバッグを放って寄越した。俺の……藤木藤夫の私物だった。多分、母親の目を盗んで、最低限のものだけ持って来てくれたのだろう。


「……俺は、藤木藤夫には戻れない」


 俺はバッグを受け取りながら、改めて言った。


「おでは……も゛う、もどれだいっ!!」


 鼻がツンとして、うまく言葉を発せなかった。


 それは最悪の選択だった。彼女を共犯に巻き込んで、世間どころか、世界を騙してまで続けてきた、およそ半年の出来事を、全て否定しようとしてるのだ。


 その結果、何が起きるか分からない。


 多分、藤木は死に、俺はわけの分からないものになるのだろう。


 でも、もう嘘はつけなかった。


 どうしてもこの気持ちに嘘はつけなかった。


「ごべんだざいっ!!!」


 ボロボロボロボロ涙を流しながら、俺は小町に頭を下げた。


 みすぼらしい格好と、情けない顔と、汚い言葉で……しかも、それは彼女の大好きな人のものなのだ。


 最低だ。俺は踵を返し、彼女に背を向けた。


 とんでもないことをしてしまった。とんでもないことに巻き込んでしまった。いくら謝っても謝り足りない。


 もしもやり直せるのなら、俺は非情に藤木を捨てて、自分が生きる道を選べるだろうか……


 いや、仮にその選択をしたところで、何になると言うのか。俺が俺だったら、彼女とは出会うことが出来なかったはずだ。俺が藤木藤夫であったから、俺は彼女に出会えたのだ……


 始めから詰んでいたのだ。


 団地の街灯が一斉に消灯した。


 多分、日付が変わったのだろう。


 明日、朝起きたとき、どれくらいの人たちが、俺のことを覚えていてくれるのだろうか……


 俺自身、いつまでこの体のまま自我を保っていられるだろうか。


「あんたは悪くないわよ」


 背後から声がかかった。


「あんだば……わ゛る゛ぐない゛っっ!!」


 振り返ると、顔をくしゃくしゃにした小町が、真っ赤な顔でそう叫んだ。


 彼女は両手で顔を覆うと、嗚咽を漏らさないように歯を食いしばって、そのまましゃがみこんで小さく丸まった。


 半年間も待たせてしまったが、彼女の藤木藤夫は今死んだのだ。


 それもこれも全部俺がまいた種だった。俺はその事実に打ちのめされるかのように、足早にその場を立ち去った。


 月が煌々と夜道を照らしている。行くあては無い。だったら、あの月が沈むまで、がむしゃらに追いかけてみようか……


 俺はデイバッグを背負うと、人通りの少なくなった夜道を歩き始めた。


 やがて、意識は混濁し……


 俺は自分がどこの誰かも分からなくなっていた。


 そして世界は暗闇に包まれた。




Initializing interactive core system

Setting up window server

Setting up multi socket directory

Entering runlevel : 2

Loading udev: ok

Loading ACPI driver...ok

Starting System log daemon...ok

Starting System message bus...ok

..........

..........

..........

***Welcome to AYF_OS release 92248542362***

command >



(4章・分速12メートル・了)


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