66 リセンへ
「カル、カル、ねえ、カル」
頭の中で自分をしきりに呼ぶ声が聞こえ、体がふわっとする感覚に慌てて上体を起こす。ベッドの脇にペトラが立っているのにかろうじて気づく。
何かしゃべっているようだが今度は何も聞こえない。その表情を見れば少し怒っている。
「ちゃんとベッドで寝ていたわ」
とりあえずしゃべった。言葉を出したとたんに、耳が何かで覆われていたような無音の世界が崩れ、周囲の喧噪が襲ってきた。腰に手を当てたペトラを見上げる。
「何を言ってるの? もうすぐリセンに着くよ」
声がやけに大きい。
思わず耳に手を当てる。少しの間、耳の入り口を手で押してから離すとやっと普通の状態に戻った。
「わかったわ。そんなに大声を出さなくてもちゃんと聞こえている」
ペトラが体をかがめて覗き込んできた。
「ねえ、カル、具合でも悪いの? なんか顔色がよくないよ。大丈夫? ソラの診察を受ける?」
慌てて否定する。
「もちろん正常よ。ただ、現実界に戻るにはそれなりの時間が……」
ペトラはさらに期待するような目つきを見せた。
「彼女の患者になる? そうすれば、わたしもいろいろ勉強できるし」
「何を言っているの。わたしはいたってまっとうよ」
ペトラはちょっとの間黙っていたが、ニヤッとすると言った。
「ふーん、今度、聞かせてね。カルの異世界のこと」
ペトラの言葉を聞き流して、しばらく深呼吸を繰り返す。
やっと心臓のバクバクが薄れた。もう何も思い出せないが、また変な夢を見たのだろうか。自分の名前が何度も呼ばれたような感じがする。
「それで、今までどこに行っていたの?」
「ソラのところよ」
「ああ、やっぱり」
ペトラは首を振った。
「大丈夫。邪魔はしてない……と思う」
「それならいいけれど」
すぐに、ペトラは抑えきれないと言った様子で勢いよく話し始めた。
「あのね、ソラは、正軍の軍医だけど、医術による治療の現場に何度も補助者として参加してるんだって。びっくりした。それに、手術の経験も何回もあるって。知らなかったことをいろいろ聞けたし、ためになる知識も得られた。今度また、現場での体験を話してくれるって約束してもらっちゃった」
「あら、それはよかったわね」
ソラが迷惑していないことを祈るしかない。
船室の窓から外を見てペトラが言った。
「ほら、そろそろ着くよ」
カレンは起き上がって下服を身につけ上服を着ると、ペトラに促されるままに外に出た。
船がまさに桟橋に横付けされようとしていた。急いで反対側に回って、船がゆっくりと滑っていくのを見る。
右側には町の景色が広がり、大勢の人が桟橋のたもとにいる。向こうの坂道からさらに数人が現れた。この村で一度にこれほど大勢の人を見たことがなく驚きだった。
いつの間にかクリスとフィオナがそばにいるのに気がつく。
すでに、何人かの乗員が桟橋に降り立っていた。渡り通路がかけられると、すぐに、正軍の人たちがぞろぞろと下船していった。
「クリス、あの人たちはどこに向かうのですか?」
「近くにある軍の補給所に派遣されるらしいです。さあ、我々も行きましょう。マーシャの家まで案内してもらえますか?」
船着き場からさほど歩かないうちに、モレアスがこちらに向かってくるのが見えた。カレンは両手を上げて大きく振った。
「モレアスよ」
ほとんど走るようにこちらにやって来たモレアスは姿勢を正して挨拶した。
「ペトラさま、お越しいただきありがとうございます。ご機嫌いかがですか」
「ありがとう、モレアス。マーシャはお元気?」
「それはもう、いつものとおりでして」
次にモレアスはカレンに向かって何度もうなずいた。
「カレンさん、ご無事で何よりでした。先ほどシャーリンさまのことをお聞きしたばかりで……」
「モレアス、ありがとう。先日はお世話になりました。あのう……」
「こんなところで話してないで、早く行こう」
あたりを見回していたクリスが促した。
マーシャは家から出た道路際に立ち皆が来るのを待っていた。
「カレンさん、それに、ペトラさまがおいでになるとは。さあ、姫さま、こちらへどうぞ」
家に向かう途中でマーシャが振り返った。
「今朝、作業船が来ましたよ。サンチャスを引き上げるんですって。先ほどから作業しています」
ペトラはピタッと立ち止まるとこちらを振り向いた。
「ねえ、カル、先に船の引き上げを見に行こうよ」
「ええ、ぜひ見たいわ。ボートで行くべきですか、マーシャ?」
「歩いていったほうがいいですよ。船の中のものは、ここまで運んでくれることになっています」
「それで、どっち?」
ペトラはすぐにでも駆け出しそうな勢いだ。
「ペトラ、ひとりで行ってはだめよ。クリスとフィオナが一緒でないと」
「うん、わかってるよ」
一同が上流に向かって歩き出すと、マーシャの声が後ろから聞こえた。
「船着き小屋の先にある丘の上に登るとよく見えるはずよ」
四人はカレンたちが何日か前に歩いた道を逆に辿っていった。途中で、船着き小屋の脇を通り、さらに進んで左側に見えてきた小高い丘を目指した。
結構急な坂を登ると平らな場所に出た。先に走っていったペトラが声を上げる。
「ああ、いたいた。作業船は見えるけど、船はまだ引き上げられてない。間に合ったみたい。マーシャの言ったとおりね。ここ、よく見えるわ」
こちらを向いてさかんに手招きする。
***
カレンは手を額にかざし開けた水路を見下ろした。このような場所があったのか。船が沈んだ場所も向かいの丘もよく見える。偵察するにはもってこいの場所だわ。
左にはゆるやかに曲がる川の水面がキラキラと光っている。右に目を向けたが生い茂った木が邪魔で上流はよく見えなかった。そうか、向こうからだと……。
「あれは何かな?」
突然のペトラの声に首を動かす。対岸に建物が見えた。
「もしかして、あれが、みんなが閉じ込められた建物?」
「あ、そうみたい」
クリスはいつもの単眼鏡を取り出して作業船を見ていたが、これを聞くと、向かい側の建物に向けた。
「あれは、何の建物かな。正軍の施設ではないな」
しばらく作業船の周りで動く人たちを見たあとクリスに尋ねる。
「船はどうやって引き上げるのですか?」
「通常は、潜って浮き袋を取り付けたあと、そこに空気を送り込むんです。すると船ごと浮いてくるわけです。ほら、ここから水中の袋がぼんやりと見えます。でも送風管がないな……」
カレンは、作業船から作用力を感じていた。破壊作用を使うの?
「破壊の作用者がいるみたいです」
「そうですか。それなら、空気を送り込むんじゃなくて、短時間で浮かせようとするみたいですね。おそらく袋の中の発気剤を分解するんです」
ペトラが感心したような声を出した。
「へーえ、破壊作用はこんなところにも役に立ってるんだ」
「そうね。破壊だけじゃない」
カレンは独り言のように確認した。
それを聞きつけたペトラはこちらを見て大きくうなずいた。
「今まで、医術以外はあまり考えたことがなかった。もう少し調べてみようかな」
「わたしはね、人の命を救うことのできる、生成はもとより破壊もとっても誇らしい力だと思う。ペトはその両方を持っているのだから、とても恵まれていると思うわ」
「うん。破壊が破壊でない使い方をされているのはとてもいいよ」
しばらくすると、急に水面が波打ち、あっという間にサンチャスが姿を現した。後ろ半分の屋根と壁がなくなっている。
作業船から何人か川に入り、サンチャスの周囲で作業を始めた。水中に潜っていく人も見える。
「誰かこちらに来ます」
背後からのフィオナの声に、クリスがさっと振り返ると、腰に手を伸ばした。フィオナは、少し離れたところで下を見ていた。カレンは丘の端まで走っていくと見下ろした。
淡い栗色の髪を頭の後ろでざっくりと束ねた女性が歩いてくる。
「あれは、フェリシアだわ。そういえば、リセンに来ていたのね。通信塔の修理の件かしら」
クリスは銃をしまうとばつが悪そうに咳払いした。
「フェリシアには以前お会いしたことがありました」
カレンはこちらに気がついたフェリシアに手を振りながら指摘した。
「両手に重そうな物をぶら下げているけど何かしら?」
「どれどれ、うーん、大きな手さげかごみたいだね。あれ? フィンと話してる」
いつの間にか隣にいたペトラが声を出した。
「え? いつの間にあそこに」
どの人も気がつかないうちに居場所を変えている。それともわたしがぼんやりして気づかないだけなのかしら。




