52 ひたすら待つ
「いま何か聞こえなかった?」
耳元でささやき声がした。
カレンは首を動かしてあたりを見回す。視界には何の動きも入らず、耳を澄ましても、ただ静まり返っているのを確認しただけ。たまに、かすかな風のそよぎを首筋に感じる。
「何も聞こえないけど」
「上のほうのどこかで、ガサッという音がしたような気がするんだけど……」
空を見上げる。晴れ渡ってはいるけれど、うっすらと白いベールに覆われていて、青空とは言いがたい。宙を飛ぶものも目には入らなかった。
「鳥じゃないの? まあ、どっちにしても、この上に人はいないわ。少なくとも今はね」
「あ、そう」
隣でペトラがもぞもぞと体の向きを変えるのが伝わってきた。
「それにしてもクリスは遅いな。どこまで行ったんだろう?」
「ねえ、ペト、クリスが出かけてから、まだそんなに時間はたっていないわ」
「今、クリスがどこにいるかは、わからないの?」
諦めて、頭をゆっくりと右に回すと、こちらを向いたペトラの、透き通った紫色の目をしばし見つめる。隣に妙にぴったりくっついて座っていることに気がついた。
思わずため息が出る。
「わたしは超能力者ではないの」
雨上がりで地面が冷たいせいか、確かに少しばかり寒い。
ペトラはぷいと前を向くと、頭をぐいっと後ろに下げて、そのまま地面に倒れこみ目を閉じたが、すぐに体をブルッと震わせた。
「冷たい。凍えそう」
カレンは、ペトラが暇を持て余していらいらしている様子をしばし眺めた。頭を戻して眼下の吸い込まれるような景色に見入る。
ここまで登ってくるのはけっこうきつかったが、そのかいあって眺めはとてもすばらしい。このあたりは比較的緩やかな斜面になっていて、間違って転がり落ちる心配もない。
左右に伸びる川がずっと向こうで曲がるところまで見渡せる。今は行き交う船もなく、穏やかで透明感のある水面だけが広がっていた。ここからでも川底のゴツゴツした岩がところどころに見えるのは、まったく風のないのどかな日だからかしら。
ペトラのまねをして、頭の後ろに手を組むと、背を倒して短い草むらの中に体を沈めた。
確かに地面がやけにひんやりと冷たい。昨晩の雨がまだ完全には乾いていないためか、何となくジメッとする感触も伝わってくる。
つんつんと伸びた草に縁取られた動きのない空をしばし眺めてから、目を閉じて周囲の気配を感じ取っていく。
近くに作用者が大勢いると疲れるが、今は隣のペトラだけなのでとても静かで楽だ。ロイスのような田舎で暮らしていると、町中の喧騒への対処がわずらわしいことを国都滞在中に再確認してしまった。
感知の手を徐々に広げていくと、離れたところでかすかに自己主張しているさまざまな精分、生き物たちの営みを示すざわめきを感じた。静かで何もいないかと思われた場所でも、こんなにも多くの生命が宿っているのだとあらためて認識する。
またも、ひそひそ声がした。
「カル、今度は聞こえたでしょ、カサカサという音」
「きっと、鳥が飛び立ったのよ」
上の空で答える。
「クリス、遅いね。もう戻ってきてもいいと思うんだけど」
どうやら、ペトラはただじっと待機しているのが耐えられないらしい。
こうやって、誰もいないところで周囲の生あるもののざわめきを感じ、その中に自分を埋没させるのは、すごく神秘的で感動的ですらあるのに。
ペトラの力が感知ではなくて、このすばらしさを伝えられないのはとても残念だわ。
「あなたのクリスは偵察に行ったのよ。それも、大きく迂回して川の先に通じる道を調べに。そんなにすぐ戻ってくるわけないでしょ」
「あのね、カル、第一に、わたしのクリスじゃない。第二に、クリスが出かけてから相当時間がたってる。カルの時間感覚は少しおかしいと思うけどなあ」
ペトラは崖の上を見ながら付け加える。
「それから、わたしたちも、ここを登って少し歩いていったほうがいいんじゃないの。そうすれば早くマイクの船と合流できるし、クリスもここまで戻ってこなくてすむ」
顔を戻して川に目をやったあと、こちらを見て話を続けた。
「カルがこの先の川で待ち構えている作用者たちを見つけた。だから、船だけを先にやって、わたしたちはその人たちを避けて陸路を行こうとしているのでしょ。だったら、カルについて行けば簡単に先回りできる。クリスが偵察にいくよりも、よっぽど論理的だと思うけどな」
カレンはペトラと目を合わせて説く。
「論理の問題ではないの。あなたの護衛たるクリスが、ここで待てと言ったのよ。きっと、ちゃんとした理由があるの。このあたりにも軍が配備されているだろうし、その上、ほかの何かが待ち構えているのかもしれないわ」
「うん、まあ、兵たんはクリスの専門だけど、でも、すごーく退屈。わたし、冒険がこれほど時間を持て余すことだとは知らなかった。こんなにも退屈だと、わたし……」
「死んでしまうの?」
澄んだ声が頭の中に響いた。
「うわああ、びっくりした」
ペトラの裏返った声のあとに、激しく咳き込む音が続いた。
慌てて体を起こすと、すぐそばにシアのかすかに光る姿を発見する。今日は何の前触れもなく現れた。
「シア、何もすることがないと、人は時間がたつのをとてもゆっくり感じるの」
「カレン、それにはすなわち遅滞作用が……」
「いや、そうじゃなくて……」
何度かの咳払いのあと、ペトラが話に割り込んできた。
「シアは前にもそう言ってたよね。人は退屈すると死ぬのかって?」
「ペト、それはシア流の冗談……」
シアは、ふたりの間に膝を抱え込んで座った格好のまま浮かんでいたが、いたってまじめな顔をして答えた。
「死というものを経験したことがないから」
風もないのに、シアが着ている、透かした薄い服の裾が波打って回転するのが見えた。
ペトラは口を開いたまま目を大きくしたが、一度深く息を吸い込んだあと反論した。
「でも、シア、死を体験するってのは、それは死んでしまって生きるのをやめること。だから、そのあと生き返らない限り経験とはならないよ」
少し考え込む仕草を見せたペトラは、シアを覗き込むように顔を寄せた。
「シアは、えーと、シアの仲間は長生きなの?」
「通常の生物の死のようなことは生じない」
「生じないって、つまり、永遠に生きるってこと?」
「永遠の意味がわからない。時間は相対的なものであるから、いくらでも……」
ペトラはすぐに口を挟んだ。
「時間は時間であって、誰にとっても同じでしょ」
シアが細い首を小さく横に振ると、川から登ってきたかすかな風を受けて薄緑色の髪が踊った。すぐに、空中でくるりと向きを変え頭をのけ反らせると、両手を髪にあてて何度もすく仕草を見せる。それから反対を向いたまま話を続ける。
「この姿を作り出したレイが消滅しない限り、この姿を保持できるし、すべてが倒れたらあたしも消滅する」
シアの高いまろやかな声が妙に重々しく感じられる。
「ふーん、それは、シアはレイと一体だという意味だね……」
何度も考え込むペトラの仕草が妙に大人っぽいことに突然気がついた。
ペトラは空を見上げて何かを思い出しているような感じだったが、もはやシアを見ることなく話を再開した。
「人はそう簡単に死なないよ。ううん、そうじゃない。死ねないよ」
さらに、ほとんど聞き取れないような声で続けた。
「自分が信頼できる、自分と思いを共有できるものが、この世界のどこかに必ず存在するはずだから。そう信じてる。誰しもそういう何かと出会うまでは、生き続けたいと願うもの」
驚いてペトラの横顔を確認する。どういう意味かしら? いつもの持って回った言い方とは少し違うようだ。
シアはくるっと体を回すとペトラと向き合った。
「それは、ペトラの家族のこと?」
「そこに血のつながりはまったく関係ないよ。家族にもね。とてもうまくは言えないけど、心と心が共鳴する、出会えばその瞬間に自然とそうだとわかるものなの」
ペトラの考え方、ものの見方は独特だわ。それに、自分の考えをこれっぽっちも曲げたりしないわね、きっと。
それにしても、本当に時間はそんなに経過したのかしら。振り返って、太陽の位置で確認しようとしたが崖の向こうで見えない。
シアは何度かうなずいた。
「なるほど。それで、ペトラの探し求めているものはすでに見つかった?」
「うーん、見つけたような、でも、まだ足りないというか、完全じゃないような……」
静かな空間に木のざわめく音が満たされると、シアのスカートが翻りその体が揺れた。
ペトラは一度体を震わせたあと、吹き上げる風に翻弄されるシアを眺める。
「寒くないの? そんな薄っぺらい服で」
空中で体を捻って起き上がったシアは自分の服を見下ろした。
「温度の変化は正しく感じられるけど、もちろんその影響を受けることはない。この服が必要なわけでもない」
「あ、そう……」
シアは組んでいた手をほどくと、浮かんでいるのが飽きたかのように、カレンの膝の上に降り立った。それからひょいひょいとおなかのほうに歩いてくる。
ペトラはシアの動きを追っていたが、きっぱりと声にした。
「わたしも、シアの神秘の森に行ってみたい。シアのレイを見たい」
シアは膝を折って座るとペトラに顔を向けた。
「ペトラ、ひとつ大事なことを指摘しておくと、レイは集団であって、個々の木のことではない。だから、シアのレイというのも存在しない」
「あ、そうなの。じゃあ、シアの仲間はみんな家族ってこと?」
「ペトラが言ったように、家族が縦のつながりを前提としないなら、レイは家族の集まり。あたしと同じ姿の家族もいる。あたしは一番新しいけど」
ペトラが目を回すのが見えた。
「あ、新しい? 若いってこと?」
「そう」
その瞬間にまた青色に光ったシアをペトラはまじまじと見つめる。
「へーえ。シアの家族かあ。なんか想像できないなあ。あ、そうだ。わたし、シアと同じ姿の家族に会いたい」
「それは無理。許されない」
「やっぱりそうか……とても残念。どっちにしても、メリデマールへの訪問は難しいかも。こんなところに釘付けになってちゃ」
ペトラの長いため息が聞こえた。
その時、シアの姿がぱっと消えた。
カレンは、ペトラの肩をつかんでぐいっと後ろに倒すと、耳を引っ張ってささやいた。
「上に人が来る」
ペトラは目玉を動かして上に向けると、頭を少しのけぞらせて崖上を見ようとした。ふたりが息を殺して待ち構えていると、すぐに、男の声が聞こえてきた。
「いやはや、ここは見晴らしがいいな」
「本当だ。ここまで来るとだいぶ高いな。下の川がよく見える」
これを聞くとふたりとも微動だにしないように固まった。
ちょっとでも動けば、きっと、男たちの視界に草むらに横たわる小さな人影が見えてしまうに違いない。どうか見つかりませんように。
「今日は船の通りがやけに少ないな。今のところどこにも見えない」
こういうときに限って、足がむずむずしてきた。手を伸ばしたいが必死に我慢する。早く、早く、さっさと移動してちょうだい。
「ほかのやつらは見回りを終えたかな?」
「いや、いくら何でもまだ早すぎるだろう。でも、そろそろ戻りの道に入ってる頃じゃないか」
「なんで今日に限って、総出で巡回するんだ?」
「さあな。こんな歩きにくいところをわざわざ移動する連中なんていないだろうに」
「でも、命令だからな。さて、次は、あっちの森を調べないと」
靴音が遠ざかるのを待つのが永遠のように感じられた。突然、息を無意識に止めていることに気づき、フーッと吐き出す。次の瞬間、反動で心臓がバクバクしてくる。
「ここ、場所がよくないかも」
すでに隣で腹ばいになって崖の上を見ていたペトラが言った。
「それに、下がジメジメしてて気持ち悪い。服がぬれてるし」
「そうね。上からは丸見え。よく見つからなかったわ。もうちょっと、そっちに移動しましょ。そこなら木の枝が張り出しているし葉っぱも多くて少しはましかも」
また、長い待ち時間に入った。




