45 何かが忍び寄る
誰かがしつこく話しかけてくる。
「おまえは本当の自分を知っているか? カレナリア」
「あなたは誰?」
「自分の過去を知っているか?」
「どうして、わたしの名前を知っているの?」
「これまでに、どこで、何をなしてきたかを」
「わたしの過去?」
「おまえのことはすべてわかっている」
「何を知っているというの?」
話しかけてくる声の出どころが、だんだん後ろに移動していき、聞き取りにくくなった。聞こえるように体を回していくと、突然、まぶしく青白い光に襲われ、反射的に手を顔の前に上げて目を細めた。
「おまえのすべて」
黒い顔が近づいてきた。その声もはっきりしてくる。
「自分の過去が知りたいか?」
この光をもう少し弱めてくれれば、相手の顔が見えるのに。
目の前の存在は何と言った?
そうだ、わたしの失われた過去。もうちょっとで手が届きそうなのに、いつも手からするりと抜け落ちて、いつまでたってもつかみ取れない記憶。
あなたがわたしの記憶を持っているというの?
目の前の相手に手を伸ばして触れようとした。
「まだだ。今はまだ」
黒い顔が少し遠ざかった。
「待って。わたしは知りたい、すべてを。そして昔のこと……」
頭にかすかな圧迫を感じる。この感触は、あのときと同じだ。そう、あのとき。突然、悟った。
「あなたは強制者なの?」
再び手を伸ばす。
「おまえにはそう見えるのか?」
「まぶしくて何も見えない」
何も見えないはずなのに、目の前の黒い顔が笑ったように思えた。
「おまえには、たいへん興味がある」
声も黒い影も少し遠くなったような気がする。
「ちょっと待って。もっと教えて」
前に進もうと、もがいた。黒い影が徐々に遠ざかっていく。
「待って!」
「また会おう」
手を前に出すと、足がもつれてつんのめり、がく然となって下を見る。足に根が生えたように全然動かない。
考える間もなく、そのまま顔から落ちていった。漆黒の闇の中へ。
「カル? どうしたの?」
今度はいったい誰?
「ねえ、カル?」
ああ、だめ。いなくなっちゃう。わたしの記憶を取り戻さないと。黒い人を追いかけないと。
「シャル、待って。あの人を追いかけないと」
「どの人? それに、わたしはシャーリンじゃなくてペトラ。ねえ、目を覚まして、カル!」
ペトラ? だれ? シャーリンは?
目を閉じていることを突然思い出した。ぱっと目をあけると、小さな黄色い明かりに一瞬目がくらんだ。妙に明るい。また目を細める。
ここはどこ?
カレンは片手をついてゆっくり上体を起こした。すぐ目の前にベッドがある。なんでここにベッドが?
突如、女の子の顔が視界ににゅっと入ってきた。すごいしかめっ面をしている。
「カル、どうしちゃったの?」
怒った声がした。
カレンは、しばらく頭をぐるぐる回していた。首を傾けたまま、はたっと動きを止める。頭を上げて目の前の心配そうな顔を見つめる。
「あら、ペト、いったいどうしたの?」
「いったいどうしたのって、それは、こっちのせりふなんだけど」
ペトラは膝を起こして立ち上がると、目の前のベッドを指差した。
あれ? ベッドから落ちた?
わたし、そんなに寝相が悪かったっけ?
カレンは、目の前のベッドに手をついて立ち上がるなり、くるっと向きを変えてベッドの縁にすとんと腰掛ける。ギシッと音が鳴った。
腰に両手を当てたペトラが、心配そうにこちらを見下ろす。
突然、思いだした。
強制者、過去、落下。
口を開きかけたペトラを手で制して目を閉じると、すばやくあたりに意識を集中した。慎重に少しずつ感知範囲を広げる。
しばらくすると、覚えのあるかすかな圧迫を感じた。
間違いない。強制者がいる。しかも活動している。遮へいが強くてそれ以上はわからない。思わず全身に寒気が走った。
あの人がここまで来たの?
カレンは、目をあけると、目の前に立って辛抱強く待っていたペトラを見上げた。
その不安でいっぱいの顔を見たとたん、彼女の所作は大人のようでも、内側は純真な子どもであることを強く感じる。
「強制者がいる。あっちのほう。……遮へい者も」
壁の下をさっと手で示した。
ペトラは、口を半開きにしたまま、しばらく動かなかったが、ゆっくりうなずいた。自分のベッドのところまでパタパタと歩いていき、サイドテーブルに置かれていた装置に手を伸ばす。
カレンは、再び目を閉じると、感知の手を広げた。
おそらく感知者もいるに違いない。見つからないように気をつけないと。いったい何をしに来たのかしら? しばらく意識を漂わせる。
以前よりは、作用の加減の仕方が、だいぶうまくなったような気がする。
あたりは静まり返っていて、何の物音も聞こえない。これ以上はもっと近づかないと無理かしら?
目をあけると、目の前に再びペトラが立っている。
両手で前に抱えていた外服と下衣を押しつけてきた。これはフィオナが用意してくれたもう一組のほう。
見ると、ペトラはすでに外服に着替えていた。昼間に着ていた青いのではなく、落ち着いた亜麻色で丈の短い服だった。
どのくらいこうしていたのかしら?
カレンは、積まれた服を受け取ると、そのまま脇に置いた。
再び、外の気配に耳を研ぎ澄ませながら、ベッドに座ったまま機械的に、内服をするりと脱ぎ捨てる。
彼はここまで何をしに来たのかしら? そういえば、また会おうとか言っていたっけ。それにしても本当に現れるとは考えもしなかった。
その時、ペトラの隣にディードが立っているのに気づく。
見上げたカレンと目が合った彼は、慌てたように後ろを向いた。ペトラにふくらはぎを思い切り蹴飛ばされたディードは、そのまま前のめりにドタッと倒れるとうめき声を上げた。
こちらをちらっと見たペトラが顔をしかめる。
カレンが急いで下衣を身につけ、栗色の外服を着込んだとたんに、部屋をノックする音に続き扉が開いて、クリスが現れた。
床に転がってうめいているディードに気がつくなり、すたすたと近づいた。
「ディード、いったいそこで何やってるんだ?」
クリスは、手ですねの裏側を押さえて床にうずくまっているディードを見下ろした。
「こむら返りか?」
「厚顔の君には、少々刺激が強すぎたらしい」
ペトラが代わりに答えた。
カレンは、まだ低い声を漏らしながらへたり込むディードを見つめ、ペトラが不機嫌な理由を考えていた。
わたしは何かいけないことをしたのかしら。
「ん? 何の刺激だ?」
クリスは、不愛想な態度のペトラから、こちらにちらっと目を向けると、再び、足を押さえているディードを眺めて、何度も首を振った。
いくら考えても、人前で服を脱いだことしか思い当たらない。
いつもやっていることだけれど、ここでは不作法なのかしら。そういえば最初のころ、アリッサに教えてもらった。
あれっ? 彼女の困惑した顔ははっきりと思い浮かぶが、何を言われたのか出てこない……。
とにかくここは国都の執政館。イリスであってロイスとは違う。もし粗相を犯したのだとしたら……これまでの数々の失敗を思い出し、顔が熱くなるのを感じた。
眠そうな顔をしたミアが現れた。今夜もゆっくり眠れなくてごめんなさい。
たちまち、ペトラの表情がまじめになる。
「衛事クリス、強制者とほかの作用者が出現」
目をカレンに向けて付け足した。
「たぶん、本棟の一階かな?」
カレンはうなずいた。
すぐにミアが大声を上げる。
「強制者だって?」
「強制者なんて、オリエノールにはいないはずですけど」
ディードが床にあぐらをかいたままでしゃがれ声を出した。
「まあ、公式にはな。それに帝国にはいるはずだ。もちろん西の王国にも」
クリスは答えながらカレンに目をやった。
これにはミアも賛成する。
「そうそう。聞いたことがあるよ、西の国では……」
「でも……」
ディードがその言葉を遮るように言いかけた。
「この先は待機室」
カレンがつぶやくと、ディードは口をあけたまま黙る。
ペトラがはっとするのが感じられた。
「クリス、シャルの様子を確認して」
すぐに、クリスが腰から通信装置を取り出し操作したあと、話し始めた。
「強制者が待機室にいったい何の用があるんです?」
「あのね、ディード。シャルは一度強制者に狙われているの。待機室が襲われたかもしれないでしょ」
「そんなことがあったのかい?」
ミアの問いにカレンが答えた。
「ほら、船に乗せてもらう前のこと。あそこでソフィーとジャン以外にも……」
「ああ、なるほど」
ミアは考え込んだ顔つきになった。
「ペトラ、待機室の詰め所では異常ないと言っていますが」
「あれ? そうなの?」
ペトラが振り向いてカレンを見る。
「でも、強制者ならごまかすことが簡単にできる」
カレンは天井を見上げると、誰にともなく話した。
ディードがカレンに目を向けた。
「でも、シャーリンをどうするんです? その敵が狙うとしたら国主じゃないんですか?」
「おそらくな」
クリスはつぶやくと、再び、通信装置をいじり、今度は別の人と話し始めた。
国主、確かにここまで入り込んで襲うなら、国主でないと意味が通らない。でも、彼らはまだ向こうの建物のおそらく一階にいる。
国主の寝室はたぶんこちらの棟じゃないかしら? それとも、向こうの棟で休むのだろうか?
「国主の護衛も異常ないと言っている」
「国主は今どちらに?」
カレンが聞くと、クリスは考え込むように答えた。
「今は、この上の寝室らしい。ふだんは、向こうの棟で休まれるのだが」
「今から待機室に行けますか?」
クリスはうなずいた。
「わかりました、カレン。でも、中には入れませんよ」
「ええ、わかっているわ」
近くに行けばきっと中の様子はわかるはず。カレンは、ベッドから腰を浮かすと、服の乱れを手でなでつけて直した。ディードが慌てて立ち上がると、足を引きずりながらも、すばやく扉に向かいするりと外に出た。
それを見ていたクリスが、顎をかきながら感想を述べる。
「なかなかいい一撃だったようだな、ペトラ。護身術にさらに磨きをかけてるのか?」
「あら、何のことかしら?」
いつの間にか羽織を着ていたペトラは、柔らかい帽子を取ってしっかりかぶると、扉に向かって進んだ。
「それじゃ、早く確かめに行きましょう」
嵐はすでに通りすぎたようだが、カレンは空気にひんやりとしたものを感じた。ベッドに置かれた羽織に気づき、すばやく着込んだ。それから、急いでみんなのあとを追う。




