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おかあさんと呼んでいいですか  作者: 碧科縁
第1部 第2章

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44 つかの間の平穏

 アレックスは、いつものように、広々とした窓から見える景色が夕暮れの(とばり)に覆われるのをじっと見ていた。

 世界は何事もなかったかのようにたんたんと時を刻んでいる。


 だんだんと空が暗くなり、左から急速に赤く染まってきた。

 今日はいい天気だった。この分だと、たぶん明日もだろう。いつものように、濃い青緑色の背景にキラキラと光る(またた)きが見えてきた。それがしだいに細い光の帯になっていくさまをじっと見つめる。


 いったん打ち砕かれた壁が、曲がりなりにも修復されたのが、昨日のことだったとはとても思えない。あのようなことがあったとは今でも信じがたい。




 そのまま、物思いにふけっていると、突如、後ろから柔らかな声がした。


「あそこは何事もなかったかのようにきれいね。本当に」


 アレックスは光の帯からしぶしぶ目を引きはがし、ゆっくりと振り向く。


 ザナは、いつものように、すっきりとした格好で立ち、両手を後ろに組んで窓の外を見ていた。今日は長い黒髪を下ろしている。

 とても、昨日、ぼろぼろの船でやっと帰りついた者たちのひとりとは見えなかった。これが彼女のすごいところであり、また、しばしば誤解されるところでもある。


 アレックスは再び窓に向き直ると答えた。


「ああ、ここから見るあれは確かに美しい。あそこが本当の地獄であったとしても」


 ザナは、そのまま窓まで歩みを進めると、両手を額にあてがい小指を窓にぴったりとつけた。


「わたしたち、いつまで、ここでこうしていられると思う?」

「猶予期間が一年は減ったかな?」

「そうね、そのくらいかしら?」




 アレックスは隣に立つザナに向き合うと、まじめな顔をして話しかけた。


「本当に無事でよかった」


 ザナはアレックスをちらっと見た。


「わたしが、そう簡単にあの世に行くと、一瞬でも思った?」

「ザナが強いのは知ってるさ、昔から。でもね、どんなに優れた人でも、どんなに強運に恵まれた存在でも、決して太刀打ちできないものがこの世にはある」


 アレックスは光る壁を睨みながら言った。


「そうね。もしかすると、今回は単に運がよかっただけかもしれない」

「そんなに危うかったか?」


 アレックスはザナの目をまじまじと見た。

 突然、ザナはアレックスを見て微笑んだ。


「ははーん、心配したでしょ?」

「おいおい、あんまりからかうなよ」


 ザナは声を落とす。


「実を言うとね、かなりきわどかった……と思う。あとちょっとで、飲み込まれるところだった」


 ザナはそう言うと目を瞬いた。


「そうか……。確かに皆の思いはとても正しい。わたしも同じように思っている」


 口を開きかけたザナに向かって首を振る。


「ああ、わかっている。こんなことを言われるのがとことん嫌なのは。でも、これだけは言わせてほしい。今までも、これからも、ザナなしではやっていけない……わたしは」


 光に縁取られた、ザナの目を(のぞ)き込む。


「そう……実はわたしもだけど」


 わずかに広がった目にかすかな笑みを見いだし、なぜか体の芯が熱くなる。


「とにかく感謝している。ザナとこうして話せることに」

「うん、わたしもよ」


 アレックスは何度もうなずいた。


「ねえ、アレックス、嫌な予感がするときは……」

「ああ、わかった。後悔だけはしたくない……これからは」

「それを聞いて安心したわ」

「そうだとしても、ザナの、皆のおかげで、かの海の知られざる脅威を発見し回避できた。これからいろいろと進展があると思う」

「それは何よりでした」


 ザナは、再び両手を背中で組むと、小首を傾げてアレックスを見つめる。

 その吸い込まれるような漆黒の瞳の中に光を発見したとたん、手に震えが走った。今さら気づくとは。



***



 並ぶふたりはしばらく輝く光の壁を眺めていたが、アレックスは重い口を開いた。


「その、何だな、休暇のことなんだが……」


 ザナはすぐに手をひらひらと振った。


「わかっているわ。今、ここを離れるわけにはいかない」

「すまない。姪御さんの家を訪ねるんだったっけ?」

「どちらかというと遠い従姉妹(いとこ)かな。でも、それは、大丈夫。伝言を送って、こっちに、タリの町まで呼び寄せることにしたから」

「そうか。何だったらここに連れてくるといい。ここは、まだしばらくは安全だろう」

「そうね。考えてみる。ありがとう」


 ザナはにこっと笑うと向きを変え、軽やかな足取りで部屋の隅に向かった。

 飲み物を二つ作ると、それを持ってカティアの席まで行き、隣の椅子に腰掛ける。彼女が椅子を回すと、その姿は隠れて見えなくなった。椅子の背から黒髪だけが(のぞ)いている。


 ふたりで何やら話をしながら、ときおり、笑い声を立てるのを眺めながらも、先ほどの言葉を考えた。

 伝言を送っただと? どうやって?


 アレックスは首を振ると、当座の問題に集中しようとした。

 いろいろ話し合わなければいけないことが多い。でも、それは明日にしよう。

 アレックスは、楽しそうに話しているザナとカティアに手を振ると、部屋を出て自室に向かった。

 今夜は、有能な戦闘指揮官にまかせておけば大丈夫だろう。


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