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おかあさんと呼んでいいですか  作者: 碧科縁
第1部 第2章

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39 散歩に出かける

 カレンはペトラと向かい合って遅い朝食(あさしょく)()っていた。前の夜はぐっすりと眠れ、目覚めたときにはずいぶん日が高くなっていた。

 横の窓からは、柔らかい秋の日差しがたっぷり入ってくる。


 少し前にディードが現れて、ダンの一件に進展がないことを伝えてきた。今はただ、調査が終わるのを待つしかない。

 明日の朝にはロイスの人たちも帰ってきているはず。明日までに進展がなかったら、どうしたらいいかをロイスの人たちに相談してみよう。


 ペトラは、スプーンでからの器の中を意味もなくぐるぐる回していたが、フッと顔を起こすと、唐突に言い出した。


「カル、これから外に出かけてみない?」

「外へ?」


 窓から見える景色に目をやり考えた。今日もいい天気だ。


 思い出したように、いま着ている服を見下ろした。これは、昨日借りた二着の内服(うちふく)の一つだ。ここに来たときに着ていたミアの服は持っていかれたけれど、すでに洗われて戻ってきているだろうか?


 心の内を見透かされたように、ペトラの声がした。


「服なら大丈夫よ。衣装室にいろんなのが取りそろえてあるから、その中から適当に用意してもらう」




 衣装室? それはどうやら、個人の衣装戸棚のことではなさそうだ。ペトラが呼び鈴を鳴らすと、すぐにフィオナがやって来た。

 この人、いつでもさっと現れるけれど、自分の自由な時間とかはあるのだろうか?


「フィン、カレンの外服(そとふく)を用意してもらえる?」

「どのようなものをご希望ですか?」


 フィオナは、ペトラからカレンに目を動かして尋ねた。


「ちょっと散歩に行くだけよ。いつもの感じでお願い」


 ペトラもカレンをちらりと見ながら言った。


「かしこまりました、ペトラさま」


 フィオナはくるりと向きを変えると部屋を出ていった。




「ペト、あのー、服のサイズとか聞かれなかったんだけど……」

「それは大丈夫、フィンはその人を見ただけでぴったりの服がわかるから。これってすごく役に立つ才能よね。とってもうらやましいわ」

「へえ、そうなの。それでどこに行くの?」

「ぶらぶらっと、サンクリまでかな。歩きでいい? サンクリってのは国都にある一番大きな森のこと。知ってるとは思うけど」


 ペトラはカレンをうかがうように見た。


「うん、サンクリのことはシャーリンから聞いている。わたしがサンクリに行きたいってどうして知っているの?」

「シャルからいろいろ聞いたから」

「そうなの」


 シャーリンがけっこうペトラに話しているということは、きっと想像していたより、ふたりはずっと仲がいいに違いない。でも、いつそのような話をしたのだろう?

 ペトラが席を立って前室に行き、ディードと話しているのを聞きながら、シアのことを考えた。いったいどうしたのかと、わたしを待っているに違いない。




 ほどなく、フィオナが服を持って現れ、テーブルの上に置いた。

 淡い緑色の柔らかな服に手を伸ばし表面をそっと撫でてみた。ところどころに変わった模様が入っていて、とても上品でたぶんとても高価な服だ。


 丁寧に服を広げたフィオナが一歩下がってこちらを見た。

 薄い生地をいく層にも重ねた服は、意外に重量感がある。

 これがドレスというものに違いない。ロイスでこのような外服を見た記憶がない。それに、このドレスを着たシャーリンの姿などまったく想像すらできなかった。


 フィオナの顔を見て口を開いた。


「もっと普通の外服……」

「それ、いいね。カルにぴったりだと思うよ」


 戻ってきたペトラの声がやけに大きい。

 どうぴったりなのか理解できないけれど、サンクリまで行くとなると、結構な距離を歩くことになりそう。これからの行事にこのドレスが相応しいとはとても思えない。


 それでも、目の前の美しい服から目が離せない。

 確かに、失われた記憶を補完するための新しい体験を欲する自分がここにいる。さて、どうしようか……。


「着替えのお手伝いをします」


 突然の声に横に立つフィオナを見上げる。田舎者が見たこともないドレスを目の前にし、困っているのを察してくれたのだろうか。彼女のひと言で決心がついた。


「お願いします。実はこういうのは初めてなのです」

「承知いたしました。それでは、あちらの部屋にどうぞ」


 初めて開かれた扉を通って、両側の壁に鏡がはめ込まれた部屋に案内された。スタンドにかけられたドレスを見て気がついた。丈が結構長い。これを着て歩くのは大変な気がする。

 フィオナが下衣(したい)を持ってきた。内服をするりと脱ぎ、手渡された下穿きと肌衣(はだい)を身につける。肩紐が細い。丈がずいぶん短いのね。

 あらためてドレスに目を向ける。ああ、なるほど。あの複雑な模様は透かしになっているのか。彼女の確認を受けたあと、続く説明に耳を傾ける。


「こちらのドレスの場合は、まずここを……」




 着替えのあと、言われるがままに椅子に腰掛ける。後ろに回ったフィオナが髪を結い始めた。いつものように自分で適当に結んだ紐はするっと解かれた。霧吹きで少し濡らしたあと櫛が流れるように動き、髪をつかんだフィオナの手がくるくると踊る。


 しばらくして作業を終えたフィオナが離れると、鏡に映し出されたものを目にして驚いた。手を伸ばして、少し浮き上がった高い位置にある飾り紐に触れてみる。

 ふんわりとまとめられた髪全体がとても軽く感じる。どう見ても紐で縛っているだけとは思えない。魔法のよう。どうやったのかしら。


 フィオナは前に回ってこちらを見たあと一つうなずいた。


「ありがとう、フィオナ。あなたはとても手際がいいのね。感心してしまいました。わたしにはとても無理……」

「ありがとうございます」

「ところで、昨日(きのう)着ていた服はどちらに……」

「洗濯は終わっていますが、あれはどれもカレンさまには合わないかと思います」

「ああ、そうなのよね。でも、あれは借り物だから返さないといけないの」

「かしこまりました。後ほど包んでお持ちします。普段使いの外服も別にご用意しておきましょうか?」

「ありがとう。とても助かるわ」


 この一年は自分を取り戻すのに必死だったが、からっぽの記憶はあまり満たされなかった。

 旅に出てからというもの、今までにはなかった新鮮な体験がたくさんある。その一つひとつがわたしの失われた記憶の片隅を埋めていくような気がする。


 あらためて鏡の中の姿を見つめる。いま自分の周りで起きていること、見聞きするもの、感じるすべてが胸を震わせる。

 新しい出会いと経験の積み重ね、信じられるものとつながる感触、それらがわたしの寄る辺となりわたしを支えてくれる。そう思わずにはいられない。



***



 カレンは、目が吸い込まれるような深い青色の外服を着たペトラと並んで歩いていた。

 彼女が足を動かすたびに、ドレスの裾がさざ波のように優雅な軌跡を描いた。こうして見れば、彼女は(まご)うかたなき大人、わたしよりもしっかりした。

 時々脇を車が通りすぎるほかは、人の姿もなく、自分たちだけが存在しているよう。国都にいるとは思えない静けさ。


 フィオナが用意してくれた服はとても着心地がいい。

 最初に思っていたより重さを感じないのは、服が体にぴったり合っているからだろうか。腰から上が体に吸い付くように一体化した服。肩がとても軽い。

 裾が長くて歩きにくいのではと考えていたが、それも杞憂だった。


「フィオナに選んでもらったこの服、本当にすてきだわ」

「でしょ? フィンはね、わたしの内事(ないじ)だけど、お母さんが逝ってしまってからずっとここで働いているの。会った瞬間から親近感を抱いた。何でもできるし、すごく気が利くし、わたし、とっても頼りにしているの。フィンがいれば側事(そくじ)も必要ないくらい」


 少し考えた。パメラが亡くなったのは確か十一年近く前だと聞いた。

 とすると、ペトラが三歳ころからってこと? フィオナは、わたしと同じくらいの年に見えたけれど、もっとずっと年上なのか。驚きだった。

 いやいや、そうじゃないかも。小さいときからペトラに仕えていた可能性もあるわね。


「弟さんもあそこに住んでいるの?」

「エリックのこと? ううん。エリックはね、ケルンの寄宿舎に入ってるの。小さいときから。学校が休みになるとここに帰ってくるけど」

「そうなの」

「エリックは、わたしと違って、ほかの子とはうまくやってるみたい。我慢強いし、すごく適応力があるんだなあ……」


 きっと、ペトラにとっては決して受け入れられないことが、学校であったに違いない。彼女のどことなく寂しそうな横顔を見ながら思った。




 ここ、ミン・オリエノールのサンクリは、メリデマールの神秘の森とは違う。普通の森だという話だけれど、それでも樹齢数千年の大きな木があるらしい。

 振り返ると、少し離れてクリスとディードが歩いている。彼らは、いつもどおり、おそらく力軍(りきぐん)に所属していることを示すと思われる灰色の服を着用していた。


「ペトが外出するときは、いつもあのふたりがついて来るの?」

「まあね。場合によってはひとりのときもあるけど。それに、(まち)に行く際はフィンが必ずついてくるの」


 大きなため息が聞こえた。


「ちょっと、うっとうしいんだけど、こればっかりは、諦めるよりしょうがないわ。これはあの人たちの任務のひとつでもあるし。わたしがもっと小さかったころは、彼らを出し抜くのに一所懸命だったときもあったけど。みんなでゲームをするように。でも、今じゃ、そんなこともしない。諦めている」


 ペトラは肩をすくめた。


「でも、外に出たからって、何も危ない目にあったことはないのだけど。そもそも、わたしが誰だかわかる人なんていないと思う」


 ペトラはあたりを示すように手を回した。


「でも、安全なのは、あのふたりがいつもすぐ近くにいるからじゃないかしら?」

「うん、まあ、それはそうかもね」




「そもそも、クリスとディードはここではどういう立場なの。やはり、力軍(りきぐん)に所属しているんでしょ?」

「そう、作用者は認定を受けたあと必ず、力軍に登録される。国が把握しない作用者がいたりすると大変だから。でも全員が力軍の任務に就くわけではない。かなりの人が作用者を必要とする事業のために出向しているし、農業に従事する人も多い。そういう意味では、執政館に配属されている人も、いわば、力軍から貸し出されているような感じかしら。執政館の所属でここを防衛する任務を帯びた人たちと、国子(こくし)についてその人を守る衛事がいる。クリスとディードはわたしの衛事だけど、このふたりだけよ。でも護衛だけってわけじゃなくて、ふたりは力軍の仕事もしている」

「なるほど。どうやって選ばれたの?」

「知らない。クリスは、まあ遠い親戚だけど、それはあんまり関係ないよね」


 突然ペトラが前方を指差した。


「ほら、見えてきたわ」


 緩やかな道に沿って曲がると、木々のこずえが現れる。

 そこから少し歩くと町の外れに達し、その向こうには、広大な森が左右見渡す限りどこまでも広がっていた。



***



 ああ、この静寂と重々しい雰囲気。

 すぐ近くの立派な木に近寄り手をそっと当ててみる。手のひらに木の内側を流れるほの温かい精分がかすかに感じ取れた。

 シア、どこにいるの?


「カル、ほら、来てみて。ここに寝っ転がるとすっごく気持ちいいよ。ふかふかのベッドみたい」


 見ると、ペトラはすでに地面に横になって、手足を思い切り伸ばしていた。


「だめよ、ペト。服が汚れるわ」

「大丈夫。ここは乾いていて全然ぬれてないから。それに、服のことは気にしなくていいの」


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