342 レムルの娘 (カレン)
ザナの即位儀に出席したあと、マヤはお付きの者たちとしぶしぶ空艇で帰っていった。
こちらに一月近くも滞在したし、彼女も成長したからには多くの公務が控えている。今までペトラが何かと理由をつけて回避してきた仕事が今度は彼女に降りかかることになる。
そのペトラは昨夜遅くまで文館に籠もって本を漁っていた。出発前に、何冊か借りられたとカレンに見せに来た。今回は時間もなく調べる暇がなかったけれど、近いうちにまたここに来なければ。
どういうわけか、こんなわたしに西六国の領事長をするようアリシアに言われて戸惑ったが、聞けばただの名誉職で、実務はほかの人が勤めると知って安心した。
クリスのように有能な人が派遣されてくればわたしのすることは何もない。彼女の配慮のおかげで今後もこちらに自由に来られる。
きっとペトラが手を回したに違いない。
そのペトラは本当に探求者になったらしい。といってもそれは彼女の勝手な命名で、本当はオリエノールの外事でありそれに相応しい働きを求められている。
シャーリンも外事を兼任することになった。まあ、彼女はイリマーンの王女だしミアの手伝いもしたいだろうからちょうどいいわね。
これからは、ロイスかレタニカンで静かにのんびりと暮らしたいと考えていた。本を読み過去のできごとに思いを馳せ、ほかの人たちの語る話にどっぷりと浸かり想像を巡らす。
そうできると信じていた。
でも、そうさせてはもらえそうもない。
うっかりため息が漏れてしまう。静かに過ごす人生はもう諦めるしかない。
来年から忙しくなりそうな予感がする。
皆と一緒にわたしもいろいろと勉強し直さなければ。
わたしたちはアデルにも招待された。しかし今日はもう三十一日。今年もあと四日余り。
全員が新しい年をロイスで迎えるのはすでに決まっていた。誰もがとても残念に思ったが、わたしとジェンナ以外は欠席することになった。
シルにも行かなければならない。年の瀬だというのに行事が立て込んでいる。
ライアとともにレイの長の前で協約の停廃を確認するためらしい。ライアからジェンナも一緒にと言われている。レイの長は彼女に興味があるらしい。彼女の複雑な力のことだと思う。
残りの人たちは皆ムリンガで帰った。途中、ミンに寄ってやっと回復した国主に会いに行くらしい。シャーリンが当主の任命符を受け取るのも目的。道中、ペトラはエメラインとディードから飛行術についてたっぷり学ぶつもりのよう。
おそらく全員にとって三月ぶりの国都訪問になるのだと思う。
いろいろあったようだけれど、すべてが収まるところに収まった……のだと今は考える。記録と皆の話、それらをつなぐわたしの想像が間違っていなければだけれど。
***
ジェンナが淹れてくれたお茶をゆっくりと味わいながら言う。
「何となくここは落ち着くわ」
もう一度見回す。
「ああ、そっか。考えてみれば、ここがわたしの新しい旅の出発点だったのよね」
「あたしも思い出します。カレ……お母さまが現れるのをホールで待っていたのを……」
「その話、まだ聞いていなかったように思うけれど……」
「そうでした。考えてみれば、この二月の間でお母さまがここでお休みになったのはほんの数日なのですよ。本当にいろいろなことがありました……」
彼女の語る話に耳を傾ける。
「あなたとの出会いもここから始まったのね……」
少し眠くなってきた。
「誰もいないと静かね」
「慌ただしくてお疲れになったでしょう。湯浴みをして早めの晩食にしましょうか。今日からまたお手伝いします」
「そうね。とてもくたびれたわ。ではお願いしてもいいかしら」
外服を脱ぐのを手伝ってもらいながら、湯処のほうを見る。いつの間にお湯の準備をしたのかしら。
「体調はいかがでしょうか。ご気分がすぐれないようでしたら……」
ジェンナの声が聞こえ下を向く。
「えっ、何のことかしら?」
「あの時もこれくらいでした。つまり、お母さまには新しい……」
目を離さない彼女の姿を見つめる。突然、その気遣いの意味するところを悟る。
「あ、あのね、違うのよ」
「少しだけ……羨ましいです」
彼女の顔はちょっぴり物憂げ。
この時ばかりは、記録でわからないことをいろいろ話してくれたマリアンに感謝した。
「……あのね、ジン、あなたのも近いうちに……ぐんと成長するわ。つまり、あなたも母になるのだから……」
もしそうならなかったら、ケイトに頼んでちょっぴり手助けしてもいいわよね。それはいけないことかしら。
彼女の顔が少しだけ明るくなった。
「……そうかもとは思っていました。ああ、これが……。では、お母さまと同じ……」
首を横に振る。
「そうじゃなくて……」
「力強くも凜として……とてもすてきです」
「いいえ、これは違うのよ。そうじゃなくて……えーと……」
どう説明すればいいのかしら。
こちらに向けられた透き通るような緑の瞳を見返す。彼女はひたむきで何ごとに対しても真剣。以前にもこんなふうに見上げられたことがあったかしら。そのような気がする。
なら、きちんと応えなければ。それにわたしの記憶は彼女に委ねているのだから。
「これはね、ここに……姉がいるためなの。彼女はとってもおちゃめで、生成を使って……」
話している間に突然ジェンナがこくりとうなずいた。
「お母さまのお姉さま……ああ、そうです、そうでした。お母さまの秘めたものに気づかないとは、あたしもまだまだ未熟者です。はい、納得しました。お姉さまらしい気遣いです。本当にすてきな方です」
えっ? これで本当にわかったの? しかし彼女の表情を見れば、誰かに教えてもらったみたいにすっきりとしている。
それに、これは気遣いの結果ではないから。
ああ、確かにわたしは彼女が真に優れた作用者だと思っているし、信人になれる素質もある。レアが絡んでいるのなら、そうであったとしても不思議はないわ。
背伸びして彼女の肩越しに浴室を覗く。
「それより湯船がないのだけれど」
そう尋ねたとたんに悟る。これはきっと二回目。
「はい、お湯は壁から……」
彼女は顔色ひとつ変えずに淡々と説明してくれた。
「すてき」
「ええ、きっとお気に召すはずです」
ジェンナは大きくうなずいた。
「ロイスにもほしいわね」
「確か、イジーに調達してもらったかと。ムリンガに積み込まれているのではないでしょうか。二つとも」
「あ、そう。さすがね……」
「フェリシアやほかの皆さまのご要望でそろえたたくさんの品も一緒です。そういえば大きな木もありました……」
「えっ? そうなの。すごいわね……」
「それはもうお母さまのなさることはいつも果断で抜かりないですから……」
どういう意味?
***
「ここが……エグランド。ローラの店?」
ここは裏通りだと聞かされたが、それにしても静か。
「はい、姫さま」
ミゲルが扉をあけてくれ、静かに足を踏み入れる。後ろから感嘆の声が聞こえた。
「昔のまま。全然変わらないわ」
衛事は外に残りミゲルとデリアが付いてきた。彼女はイオナの内事でジェンナの先達だと聞かされた。そのジェンナは一緒ではない。オリビアに呼ばれて忙しそうだった。
「ようこそお越しくださいました、カレンさま、イオナさま」
「ああ……ローラ? また……お会いできてうれしいわ」
「ご注文の品の用意ができております。別室に準備してありますので」
「えっ? あのう、わたしはハチミツを買いに来たのだけれど。お土産にもう少しほしいなと思って……」
ロイスに住まう人たち、それにリセンの二人に……。
「はい、承知しております。後ほど銘柄をうかがいます。ジャーレンがカレンさまにお会いできるのを楽しみにしておりまして」
うわっ、大変……わたしにハチミツの銘柄の記憶はもうない。さて、どうしようかしら。
***
「不覚にもあの日カレンさまがお帰りになったあとで思い出しました。お召しになっていた服とよく似たドレスが倉庫で眠っていることを。あの服と何となく似ているでしょう? こちらは正装用ですけれど、今つけていらっしゃる髪飾りと同様、カレンさまに着ていただくのを待っていたと思われるのです。オリビアさまからお話があったときは、わたくしも天命を感じました」
着付けが終わり使用人が後ろに下がった。大きな鏡に映し出された姿を見つめる。
ローラの顔に一瞬驚きが見えたような気がする。
「カレンさまの側事からご連絡があったとおりに調整させたのですが、このあたりはこれでちょうどよさそうですね。カレンさまのお側にはとても有能な方々がいらっしゃるようです。ほかも良さそうに見えますが、きついところなどがあればただちに直しますので……」
そう言いながら、後ろで見ているイオナに目を向けうなずいた。
「ありがとう、ローラ。このままでちょうどいいわ。本当にぴったりです」
そういえば、あの場にはマリアンもいたっけ。
振り返って、イオナに話しかける。
「ああ、イオナ、このようなすてきなドレスをいただいてよろしいのですか? 本来ならば、わたしから皆さまにお祝いを差し上げなければならないのに」
イオナはうれしそうにこちらを見ている。このような緩んだ表情の彼女を見るのは初めてなのだろうか。
「姉さまがこれを着て出席してくださることが、わたしたちにとって一番のご祝儀なのよ。本当にすてき」
***
アデルの兄妹三人がそろって伴侶を迎えるなんて、すごいこと。ロバートは終始上機嫌だしオリビアはせかせかと歩き回って皆と話し込んでいる。ふたりとも本当にうれしそうだ。
ぼんやりとしていたら、突然オリビアに抱きしめられた。
「カレン、とてもきれいよ。こうして見ると本当にレムルの姫そのものだわ。いろいろとありがとう。そして、これからもよろしくね。イオナたちはいずれあなたのところに押しかけると思うけれど、そのときは面倒をみてあげてね」
ああ、彼女らしい。話が聞こえたかのように、向こうで談笑しているイオナと目が合いうなずかれた。正装した彼女は本当に炎の化身そのものだった。
「はい、お母さま。イオナをとても頼りにしています。でも、よろしいのですか、ハルマンの皇女なのにまた遠いところに……」
「ええ、イオナはこれからもあなたのやることに首を突っ込みたくてうずうずしているでしょうから。これはもう誰にも、わたしにも止められないわ。そうそう、ノアのこともよろしくお願いね。少しは進展があったかしら?」
「えっ、何のことでしょうか?」
「ほら、三人がこうして晴れの舞台を迎えたでしょ。あとは、ノアだけれど、エルナンで見た限り、わたしの想像が正しければ、あのふたりは……」
ああ、オリビアにはかなわないわね。まあ、それが母親の母親たる所以なのだから。このわたしでも今なら理解できるつもり。
「あのう、お母さま、ペトラとノアはすでに……」
「ああ、やはりそうなのね」
「ただ、ペトラはいささか……」
「前にも話したかもしれないけれど、わたしは、ペトラのことをあなたと同じように思っているのよ。ノアに命を与えてくださったあなた方にノアを託すのは、とてもすばらしいことなの。どうかよろしくお願いします」
「はい、お母さま、ありがとうございます。ペトラもお母さまに感謝していることと思います」
ちょうど現れたジェンナを見てオリビアが声を上げた。
「まあ、ジン、似合っているわ。完璧よ」
「そ、そうでしょうか。あたしはこういうのはあまり……」
「ジン、すばらしいわ。それに、とってもきれいよ」
黒を差した淡い苔色は彼女の髪色を引き立たせ、落ち着いた雰囲気にもかかわらず情熱が溢れている。
「あ、あ、ありがとうございます、カレンさま。あのう、オリビアさま、こんなすてきなドレスをいただいて本当によろしいのでしょうか」
「もちろんよ。あなたがレムルの姫の内事になったお祝いよ」
カレンの手を見ながら続ける。
「カレンと一緒だとこれからも公の場への出席は欠かせないでしょう。ドレスは必需品よ。もちろんマリアンのも作ったわよ。ほかにもいろいろあるから全部まとめてロイスに届けるわね」
「はい、ありがとうございます。マリアンも感激すると思います」




