332 失ったものと得たもの
「レン……レン……」
何度も呼ばれる声に目をゆっくりとあける。ここはどこだろう。
見回すとそれほど高くない木々に取り囲まれていた。若い森。とても開放的でしかも明るい。
ぽっかりと存在する空き地に置かれた木のベンチに腰掛けていた。
突然、隣から声がした。
「あたしたち、いつも同じ服ね」
パッと横を見れば、いつの間にか女性が座っていた。
その瞬間、わたしと同じだと感じる。見下ろせば、確かに彼女と同じ服装だった。橙色の格子柄の上服に同じく橙に黄緑が混じったスカート。
これは見覚えがあるかしら。
すぐに奇妙な感覚が迫り上がってくる。どうしてかわからないけれど抑えきれない感情が押し寄せてくる。この……懐かしくも包み込まれる想いは何だろう。
突如、名前が浮かび上がってくる。
「ラン……どうして……」
「この場所は前よりいいわね。空気が澄み切って爽やかだし、何よりも日差しが柔らかいのがいい。別に日焼けするってわけじゃないけど」
前にもこうやって座って話を交わした覚えがあるような気もしてきた。
「……はっきり見える。それに、よく聞こえる」
「前はすごく離れていたから……。でも今はレンの中だから……」
ケイトから記憶が押し寄せてくる。
そうだった。あの時以来だ……。
「レン。あたし、謝らないと」
「えっ、何を?」
「やっぱりレンが正しかった。心の奥底ではわかっていたけど、あたしは……怖かったの。自分を制御できなくなることが。でも、あなたはシルとの協約を引き継ぎ、みごとに果たしたわ。本当にすごいことよ」
「シル? 協約?」
「そうよ、あなたたちは、暴走していた術式に介入し協約を停廃させた。エレインたち皆の意志を引き継ぎ、原初を消滅させたのよ」
再び、ケイトから記憶が流れ込んでくる。
ああ、思い出した。あの北の大地で、わたしたち全員で……。
「あなたも、あなたの娘たちも、あなたの妹たちも限界まで力を出し、最後まで頑張ったわ。ふっ、そういえば、今では、あたしたちの娘で妹よね。さあ、帰ってもう少し休みなさいな。あなたはまだ傷ついているのだから」
「えっ、わたしが?」
また記憶を受け取る。そのようなことが。信じられない……。
「おやすみなさい、レン」
「また会える?」
「いつでも。いくらでも。そうしたいと思った時に」
***
ゆっくりと目を開いた。どうやらベッドに寝ているらしい。
「意識が戻った……」
頭を少し動かして、つぶやく主を見上げる。
しばらくたってから自分の声を聞く。
「チャック……」
「お帰り、カレン」
その声は静かで落ち着いていた。まるで、いま目が覚めると知っていたかのように。
「ただいま」
体を起こそうとしたら、チャックがゆっくりと首を振った。
「だめだ。目覚めたことをジェイとネリアに知らせてこよう。まず、診てもらわないと」
あらためて見れば、腕には何だかわからない機械がはめられていたし、何本もの管につながれている。
「ああ、待って。行かないで。ここにいてちょうだい。もう少しだけ……」
立ち上がりかけたチャックはしぶしぶ腰を降ろした。
「聞きづらいのだけれど、わたしはどうなったのだっけ?」
「覚えていないのか? やはり記憶を……」
そうつぶやく顔が陰った。
「あのね、ちょっとはっきりしないのよ」
「おれたちは、北の果ての荒野、原初に行き、君は君の娘たち、妹たちと輪術式を執り行った……」
何も覚えていなかった。ケイトが分けてくれた一片だけ。
わたしはすべての記憶を失った。
いや、少なくとも彼のことは忘れなかった。ちょっとの間、頭の中を探し回る。つながりを持つ人たちの名前だけは何とか思い出せそう。
それ以外は……何もない……からっぽ。空虚な闇がどこまでも広がっている。
彼が淡々と話す言葉の一つひとつに慎重に耳を傾け、新たなる記憶として刻み込む。
……そうだった。輪術式、シルとの協約を終わらせるために。
ケイトからもその話は聞いた、あそこで……。でも彼の説明は少し違う。まあ、ケイトはわたしと一緒なのだから自分の体験とあまり違わない。こっちのほうが現実なのかも。
「全員がすごく頑張った。君もあんなになりながら最後まで耐え抜いた。本当にすごいよ、君は。ほかの誰にもとうていできないことだ……」
その時、扉の開く音とともに、ひとりの女性が転がるように飛び込んできた。髪をなびかせながらものすごい勢いで走ってくると、ベッドのそばにストンと座り込む。
「やっぱり、目覚めたのね」
その声が上ずっている。
「向こうの部屋にいたら突然感じて急いで来たの。本当によかった……」
目の前の女性は思い出せない。ケイトから受け取った最近の記憶にもない。それに力が思うように使えない。まだ、戻っていないらしい。力を使い果たしたのか。
なら本人に尋ねるしかない。
「えーと、どなたでしたっけ?」
女性の目が大きくなりこちらをじっと見る。その青い瞳はまるで海のよう。とても深く吸い込まれそうだ。後ろにまとめた髪は薄い涅色。
不意に女性が腕を伸ばしてきたのでその手を取る。
握った瞬間に彼女からどっと力が流れ込んでくる。強いつながりを感じ衝撃に頭がクラッとなった。感知が使えなくてもわかる、この感じ……。
もう一度、こちらを見つめる顔を凝視する。
「マヤなの?」
無表情だった顔に微笑が浮かびゆっくりとうなずくのを見て頭の中が真っ白になった。
今はごくわずかの記憶のすべてが渦巻きクラクラとする。立っているわけではないのに体がよろめく感触を味わった。
輪術式に臨んだときのマヤは子どもだったはず。
ということは……。また頭がぐるんぐるんと回り出した。本当に世界が回転するかのように目が激しく動く。
「い、いったい、わたしは……何年眠っていたの……」
こちらを見つめるマヤの顔がきょとんとなり固まった。
チャックの冷静な声が聞こえる。
「今日で二週。つまり十二日になるな。それが君が眠っていた時間」
パッと自分の額に手を当てて何度も首を振る。ああ、本当は何年たったの?
「それじゃあ、時伸で……。いえ、それでは説明できない……」
ただマヤの顔を見つめ返すだけ。
「違うわ、お母さん。あたしが大きくなったの」
「え、ええっ!? どういうこと?」
「あの儀式の間に成長したの。ライアとユアラが言うには、力髄とこの体の釣り合いを取るためですって。そうしないと体が耐えられないからと。あたしがどうかならないようにシルの使いたちが助けてくれたの」
息が詰まった。
「そ、そんなこと……」
それでは、彼女は何年もかけて成長する過程を跳び越えてしまったのか。なぜか胸が激しく疼いた。この感覚には覚えがある。何だろう?
もっと何かしてあげられたかもしれないという思い……。その感情だけが膨れ上がってとても抑えられない。
わたしとマヤは……。ねえ、エア、どういうこと?
あれはカレンが永い眠りについた数日前だったかしら。アリシアが国に帰るため別れたあの日、カレンは彼女のたっての願いを受け入れた。
アリシアはカレンと一緒になることを望み、いつかその証しを育みたいと切に願った。子どもながらに永き別れを予感していたのかしら。子どもがあのような願いを口にするのを聞いたのは、この世界に触れるようになってから初めて。
その驚きをカレンと共有した。
あのころのカレンはとても強くてわたしの手助けはほとんど必要なかったけれど、あのとき、久しぶりにカレンからお願いされた。
うれしくてわたしはその望みを叶えるのを全力で手伝った。わたしは力を使い果たししばらく眠ることになった。
目覚めたときには、今度はカレンが眠り、どうしてか体は忌まわしき存在に犯されていた。何とか封じ込めたもののその前に力の路は一つを除いて塞がれてしまった。もっと早く気づけばと忸怩たる思いはある。
そんな必要はないわ。いつだって全力でわたしを助け守ってくれたのはエアでしょう? あなたのおかげでケイトと話すことだってできたのよね。
こうして一緒になることも叶った。
すべてはわたしの行為に対する代償……。世の理をないがしろにした報い。
それでも、目の前の女性は生気に溢れた普通の女の子。
そっと目を閉じてうなだれた。
「お母さん、あたしは大丈夫。このとおり元気だしいつもどおり。だから心配しないで」
顔を上げてマヤの目を覗き込む。本当にいい娘だわ。どう考えても彼女の有りようはアリシアから受け継いだもの。たとえ継氏が異なったとしても。
「あたしはシャーリンお姉ちゃんの後ろにいたでしょ。踏み台に乗ってね。儀式のあと、お姉ちゃんはびっくりして本当に腰を抜かしたわ」
マヤはにんまりとした。
そりゃ驚愕するでしょうよ。気がついたら子どもがおとなになっていたのを見れば。
「何も着ていなかったからね。服は全部消えていたの」
マヤは何かを思い出したようにくつくつと笑いを漏らした。
えっ、そっち? いや、びっくりしたのはそこではないでしょう?
「ほかの人たちも仰天していたわ。素っ裸のあたしを見ても驚かなかったのはペトラお姉ちゃんくらい」
そうでしょうとも。それに、彼女は気づいていたのかもしれない。
「それで、マヤは今いくつなの?」
「さあ、よくわからない。ライアが言うには力髄と同じらしいけど、あたしは力髄の歳を知らないし。ああ、それともわかるの?」
カレンはうなずいた。視れば刻まれた時の長さは知れる。しかし、そうしなくてもわかる。手をつないだままの彼女の力髄から流れ込んだものが浮かび上がる。
見た目はシャーリンよりも幼いように見えるが、たぶん一番上のはず……。
「でもね、少し困っているの」
マヤは眉間にしわを寄せて訴えてきた。
「いきなりおとなになったでしょ。何もわからなくて、いま毎日勉強中なの。すごく大変なの。覚えることが多すぎてもう頭がパーンと破裂しそうなの」
首を何度も回すと後ろで結んだ長い髪が揺れ青と金の布が踊った。これは……たぶん見たことがある。何だったっけ?
「ねえ、お母さん、手っ取り早く知識を身につける方法はない? 本当に頭がどうにかなりそうなの」
そのような便利な方法があるならわたしも知りたい。わたしだって今はどこまで知識が残っているか怪しいもの。
「ねえ、マヤの記憶力はどうなの?」
「あっ、それならたぶん自信あるよ。一度覚えられればめったに忘れないと思う」
マヤの澄んだ瞳を見つめる。やはり……先ほど覚えた感触、強いつながり、そっくりの精華、共鳴するかのようなきずな。
うなずいて答える。
「それなら大丈夫よ。マヤならこれまでの遅れをあっという間に取り戻せるわ」
「本当?」
「ええ、わたしを信じて。みんなから教わったことを着実に心に刻み込めばいい。それにはね、無理に覚えようとしないの。記憶するのではなく、いつでも取り出せるように整理するだけでいい」
「はい、お母さん」
大きくうなずくマヤの目に映る空を見つめた。
「あたしはお母さんが大好きよ……初めて会ったあの日からずっと」
「わたしもマヤが好き。あなたに会うずっと前から。心から愛しているわ」
スッと前屈みになった彼女を引っ張ってしっかり抱きしめた。
マヤの顔を見て尋ねる。
「それで、アリシアさんは」
「ふふっ、お母さまも卒倒しそうになったわ」
お気の毒に。でも、アリシアが望んだことなのよ。
「お母さまはすぐここに飛んできたの。仕事をほったらかして」
「あらら……」
国事が政をほっぽり出してこんなところまで来ていいのだろうか。
「さすがに、ここには一晩しかいなかったけど、いろいろと話をしたわ。夜通しね。ここで。そう言えば、お母さまはお母さんのことをお姉さまと呼んでいたわ。そうなの?」
「遠い昔に……わたしたちは……」
「……ああ、そういうことなのね」
「ほかにも何か言われた?」
「いいえ。だけど、あたしはお母さまとお母さんの両方の力を受けていると感じるの。ふたりともあたしの母親で、そして……」
マヤの両手を引き寄せて握る。ちょっぴり回復した作用を巡らせつながりを確かめる。
彼女がケタリになったことも知った。こんなにあっという間に成長して力を持たされた。その責任はわたしにある。そして、マヤの悩みの源流はわたしたち母親にある。
それに、輪術式を成功させるために頑張って自らを成長させたのだ。
「ありがとう、マヤ、わたしを手伝ってくれて。わたしたちを助け護ってくれて」
こちらを見下ろす顔は気遣わしげ。
「あたし、お母さんの役に立った? ちゃんとできてた?」
「ええ、もちろんよ。あなたはとてもよく頑張りました。それに、あなたなしにはあれは決してできなかった。成功すら見通せなかった……」




