324 高まる気持ち (カレン)
天井のカムランの地章を目にしたとたん、カレンは現実に引き戻される。
心が萎えてしまいそうだがまだやるべきことはある。明日からまた頑張らなければ……。ひとつ深呼吸すれば体がブルッと震えた。
エメラインとメイジーの背中に腕を差し込んでふたりを引き寄せれば、ふたりとも回された手を胸にしっかりと抱え込んでこちらを向いた。
「さむいの?」
いきなり口にしたマヤが毛布を頭まで引っ張り上げた。そのままパタンと体を倒し、顔をおなかにピタッと付ける。
「あったかい?」
そう尋ねる声はくぐもり、おなかに震えが伝わってくる。
「ねえ、マヤ、もぞもぞしないで。くすぐったいわ」
「くすぐったい……それ、知ってる」
マヤはパッと体を起こしたかと思うと、両手がおなかに伸びてくる。
「ペトラお姉ちゃんがね、こうやって……」
指がもしょもしょ動いた。
「こしょ、こしょ」
「うふふっ……」
何これ? もう、かわいいじゃない……。
突然、左から声が聞こえた。
「マヤ、ここをこちょこちょしてごらん」
「メイジー?」
素直に指が横に移動し、繰り返す声が続いた。
「こちょ、こちょ……」
「ちょ、ちょっと……うひゃひゃ……」
ふいに反対側から忍び声がした。
「こしょこしょ……」
な、なんでえ!?
「ぐふぅ、あひょはひゃ……」
指が動き回り合唱が聞こえた。
「こーしょ、こちょこちょ……」
「あうぅ……あひゃぐはっひゃは!」
なんか増えていない?
手が上まで進んできた。
「そ、そこは反則よ!」
思わず声を上げれば、ここぞとばかりに反対側にも指が殺到する。
「うぐぐっ……ぐふぁひょひゃぎゃはは!!」
ところ構わず這い回る手にあちこちをいちどきにくすぐられ、弱点は容赦なく攻め立てられる。頭をのけ反らせ体をよじって必死に堪える。
「……はあ、はあ……降参、降参よ! もうだめええ!!」
***
ゆっくりと深呼吸を繰り返しバクバクする動悸を鎮める。
マヤに目を向ければ、照れた表情に不安が見え隠れする。
しょうがないわね、もう……。
どういうわけか胸がいっぱいになり、自然と口元が緩んでしまう。おずおずと広がる笑顔にゆっくりとうなずいた。
突然、メイジーとエメラインの手がそろって動くのが見えたかと思うと、今度はマヤからキャッキャッと声が出た。
ポンと膨らんだ服が大きく波打ち、体を激しくくねらせては奇声が上がる。声にならない叫びを上げ、体を倒して小刻みに震わせる。
ゼーゼーと息をつくマヤから、おなかにドクンドクンと鼓動が伝わってきた。
急にしゃっくりが出て止まらなくなる。
おなかをヒクヒクさせていると、一緒に震えるマヤがクスクスと笑い出し、しまいには全員がケラケラと声を上げた。笑いすぎて涙が滲んできた。
ずっとモヤモヤしていた心がすっきり晴れやかになる。
マヤの温かい両手がぎゅっと腰に回される。エメラインとメイジーの手がマヤの背中で絡み合い、ふたりの頬が肩にピタッとくっ付いた。
皆の優しい流れは再び緩やかに巡る。
「ふう、あったかい、ぽかぽかよ……」
ちらっと横目で見ればなぜかチャックが遠い目で眺めていた。
メイジーはともかく、エメラインがこんなにおちゃめとは知らなかった。
その彼女が急に口にした言葉にびっくりする。
「お母さんを尊敬しています」
「エム、いったいどうしちゃったの?」
「わたしたちがするどんなことにも、無条件で最後まで真剣に向き合ってくれる。今までもずっとそうでした。普通はできません。叱られるか遇われておしまいです」
「えっ? それは単にわたしが何も知らないからだと思うのだけれど……」
「いいえ、違います。お母さんがわたしたちを本当に愛してくれているのだと感じます。だからこそできるのだと思います。ありがとう、お母さん」
そう話す彼女をただ見つめる。
どうしてお礼を言われるのか理解できないけれど、三人が満足したのならこれでよかったのかしら。なぜか心までぽかぽかになったのはそういうこと?
マヤと手を握る彼女の横顔を眺めながら考える。あれからもう二月半になる。そろそろ長い休暇をあげなければ……ふたりに……。
マヤの行動はいつでも突拍子がない。子どもとはこういうものなのかしら。
しかし、たまに妙におとなびる彼女はもう子どもとは思えない。なぜか喜びと寂しさがぐるぐると渦巻いてくる。彼女が国に帰ってしまえば、もうこんなふうに戯れることもなくなるのだわ。
***
それにしても、このような形でできたのなら……今度同じことをするときは普通に互いの手をひとつにつないでみよう。そのほうが輪にするより強固になるのかもしれない。
最初はエアが手助けしたのかと思ったけれどここに変化は見られなかった。弱い同調だけで光ることもないし、これはすべてわたしたちで成したことに間違いない。
そういえば、じかに見てから光を気にするようになった。頼んだときは別として、エアは自身の存在が危険に晒されない限り表に出てこないのはわかっているのに。
「……母さん、ねえ、お母さんってばー……」
何度も呼ぶ声に気づき我に返った。
「えっ? ああ……何か言った?」
マヤが顔を起こしてこちらを見る。
「……ずっとここにいるの」
「はい?」
何のことかわからず彼女の顔を見つめる。
「しばらくここにいなさいって言われた」
「アリシアさんに?」
「うん、先生たちもみんなも一緒だって」
「明日の行事が終わったら帰るはずだったでしょ?」
「お母さんのお手伝いをしなさいって」
「手伝い?」
「あたしの力をお母さんのために使うの」
力? アリシアがそのようなことを……。彼女はどこまで知っているのだろう?
「トリルがね、あたしには……なんて言ったっけ……まれなる力の……もとがあるんだって」
希なる力……ケタリ。
「ねえ、もとってなあに?」
「えーと、種のことよ。芽が出て成長してだんだん大きな木になるの」
ああ、マヤのほうがわかっている。自分に何ができるかを。それにあなたはあの娘の替わりができる。それを知ったのかしら。そうだとすると……。
「エム、あなたに頼みがあるの。メイジーにも手伝ってほしい。協約の実行のことで……」
メイジーが肘をついて頭を起こすとこちらを見た。
「協約はお母さんとその娘たる、シャーリン、ペトラ、ミア、メイ、それにイサベラの六人で行うはずだったのよね。そう聞いた。だけどイサベラが亡くなってしまっては……」
「マヤがいる。それにあなたたちが」
「マヤはまだ子どもよ」
「マヤもお手伝いできるよ」
その真剣な目差しを見て言う。
「そう、あなたはイグナイシャ。イサベラのやろうとしたことを手伝える」
「イサベラ?」
「あなたのお姉ちゃんよ」
いや、そうではないかも。
弾むような声が出た。
「お姉ちゃんがもうひとり……」
メイジーが鼻にしわを寄せた。
「イサベラの替わりをマヤができるの?」
懐疑的になるのも無理はない。彼女はまだ五歳にもなっていない。しかし実際は……。
「いいえ、違うわ。ケタリであるシャーリンにしかイサベラの替わりはできない。もちろんシャーリンはイグナイシャではないけれど、そこはマヤが担える。ふたりでひとり……」
そう、ジェンナやフィオナのように。
マヤが頑張り屋なのは知っている。意志は強いしとことん力を尽くすに違いない。それでも、彼女はまだ小さい子ども。輪術式に耐えられるのだろうか。
わたしは間違っているかもしれない……。
「あたしがシャーリンお姉ちゃんと?」
「そうよ。そして、そうなると、シャーリンの替わりをエム、あなたに頼むしかないの」
「ケタリでないわたしにできるのでしょうか?」
「大丈夫よ。ペトラはケタリではないし、ミアもメイだって違う。それにひとりじゃないわ。メイジーが手伝ってくれる」
メイジーはうなずいた。
「わかった。エムと一緒なら何でもする。あたしたちはお母さんの娘なのだから」
「そっか……。条件は根源が結ばれた人だった。ひとつにつながる母と娘……ああ、そういうこと。これで希望が出てきた……」
どういうわけかふたりの頭を繰り返し撫でてしまう。
マヤが毛布から顔を出してにじり寄ってきた。
「マヤもー」
目の前に頭を突き出す。
「なでて」
「はい、はい。あなたはとてもよく頑張りました」
なぜか満足そうに喉を鳴らす音が聞こえた。ねこみたい。
「……わたしが国の王になるなど習いに反すると思っていた。しかし、そうでもなかった。協約を実行するために不可欠だった。あなたたちとひとつになることこそが必要だった」
横を向けば、ずっとベッドの上に座ったままのチャックと目が合う。
「チャック、これで、道が開けるかもしれない。お願い、あなたも……」
「おれは何でも協力する。必要とあらばどんなことでも厭わない」
すっかり明日のことが前向きに考えられるようになった。
突然マヤが大きな欠伸をした。
メイジーが体を起こす。
「さあ、マヤ、行くわよ。もう遅いから」
エメラインもパッと起き上がった。
チャックがメイジーを見ていた。
「いいんじゃないか、みんな今夜はそこで寝なさい」
「いいの?」
「こいつはむだにでかいからな。みんなが横になってもまったく問題ない」
「本当?」
「今夜だけだぞ……」
顔をつけたとたんにマヤから寝息が聞こえてきた。淡い涅色の髪を撫でながら考える。疲れたのね。すごく頑張ったもの。
それにしても今夜のことをどう思っただろう。まだ横になっていないチャックを見るとなぜか目が合う。
「やはり、わたしって変ですか?」
「いきなりどうした?」
「自分でもわかっているんです、普通と違うのは。ほかの人たちが守っている常識をよく知らないし、経験もまるでないし、しょっちゅう変なことをしでかすらしいし、今夜のことも、皆に変に思われて……」
隣から咳払いが聞こえた。
「お母さんはほかの人と変わらないよ。ちょっとずれているところもあるけど、そんなのは問題じゃない。みんなそれぞれ違うのだから。それに、あたしは今そうやって真剣に考え込んでいるお母さんが大好き」
「まったく同意見だ。おれは感謝している。あの日、あそこで君に出会えた幸運に……」
「チャ……お父さんが感謝すべき相手はあたしよ。あたしがお母さんを見つけたんだから」
チャックから息が詰まったような音が聞こえるとなぜか温かい感情がこみ上げてくる。この感覚はなにかしら……楽しい、いや、幸せ?
***
温かい日差しの下で椅子に座って思いを巡らせる。まさに至福のひと時。
隣にはマヤがいて今日のできごとを話してくれる。彼女はわたしの大切な娘。
マヤの声が聞こえなくなったのに気づき目を開く。あれ? 目を閉じていたっけ?
彼女の眼前に浮き濃い緑の髪をなびかせる姿。透けて見える黒い服を着た幻精はユアラ。イサベラとつながりしもの。それが今はマヤの頬に手を当てている。
膝に置かれた手の上に舞い降りた。下を向いたマヤは頬を紅潮させて見入る。
しゃべったようには見えなかったが言葉が伝わってきた。
「これで完成した」
何が?
「諱を与えて」
力名を?
そうか、あれが初動だとしたら、あの時にそうするべきだった。これはわたしの責任……。
黙ってこちらを見上げる深い海を覗き込む。
すでに視えるのは、わたしと同じ承氏、同じ継氏。
ならば……わたしの半分を贈ろう……マリアレンシア・フォンダ=アリエン。
「レアも助けになる」
「レア?」
「人の言葉で例えるなら……あたしの姉のような存在」
「ああ、姉……ユアラの姉……」
突然悟った。あの日からここにいたことを。
当然だ。エアがわたしを救ってくれたのなら、ケイトを助けた存在もいた。だから、夢の中でつながりあって話すこともできた。
そうだったのか……ラン、また会いたい……。そう考えている間にユアラはいなくなった。
それにしてもどうして彼女がやって来たのだろう。イサベラの代わりとなるマヤとつながるため? それとも、レアのことを伝えに来たのかしら。あるいはケイトの……。
「ねえ、お母さん、あれはだれ?」
マヤの顔を見つめながら考えあぐねる。
「お母さん、どうしたの? お母さん……」
ハッと目を開く。あれ? どういうわけか心臓がドキドキしている。
「……お母さん……」
肩に頬をくっ付けたマヤの寝顔を目にし、胸に置かれた小さな手を見つめる。
あれは……。
そうだ、彼女はどこにいったのかしら? それとも先ほどのは現実ではなかった?
ここで本当にあったこと? もしくは夢を見ただけ? 考えているうちに再び眠気に襲われた。




