311 もう時間がない (カレン)
どこからか賑やかな演奏が聞こえてきた。だんだんはっきりしてくる。
「あっ、あそこでやってる。ねえ、聴きに行こうよ。去年は……いや、何でもない」
つないだ手をギュッと握って言う。
「わたしも……また聴いてみたいわ」
パッとこちらを見上げた目も髪も黒っぽい。夜だとはっきりとはわからないがほとんど黒。
「うん、じゃあ、行こうよ」
手がぐいぐいと引っ張られた。
道の両側には橙色の灯りが連なり、向こうには屋台が並んでいる。
「ナン、そんなに急がなくても大丈夫よ。次の回まで少し時間があるわ。それより、おなか、すいていない?」
「うん、何か食べる? どれがいい?」
「うーん、ナンの食べたいものにしましょ」
どれを選んでも初めての味のはず。
こちらをちらっと見上げたザナはこくりとうなずくと、あたりをキョロキョロした。
「それじゃあ、あれがいい。ここでしか食べられないんだって」
この町で音楽会はめったに開催されない。それでもサキュストのお祭りのときは、巨大なテントがいくつも張られていろいろな催しが行われる。珍しい食べ物を味わうこともできる。
町中に住むようになってからは、彼女と時々出歩くようにしている。山の上ではなくてここに下りてきてよかったのだろうか。
道ばたに並べられた腰掛けに座って行き交う人たちを眺める。
ザナが食べるのをやめてこちらをじっと見ているのに気づく。
「どうかした?」
「その服は特別なの? 着てるのをあんまり見たことないけど、お祭りの時は……」
「去年もこれを着ていた?」
ちょっと間があって首を縦に動かすのが見えた。
自分の服を見下ろす。見覚えはある。レタニカンの自室の戸棚に置かれていた。今日のために取りに行った……。
「ならこれは特別なのかも」
突然、後ろから叫び声が聞こえた。
立ち上がって声のしたほうを見る。
「空が……」
赤い。これはどういうこと?
空中を動くものがいくつか見えた。どんどん大きくなる。あれは空艇なの? どうしてここに……。
ザナが上を見て立ち上がり歩き出す。
「ナン、だめ、隠れるのよ。何だかわからないけれど……」
「あの人たち、攻めてきた。きっと……」
「ナン、向こうに……何をしているの?」
「わたしはレンの守り手……」
「何を言っているの、ナン? どうしたの? ナン!」
***
突然目を覚ました。何度も息をつく。首元に触れば汗びっしょり。どうしたっていうの?
横を向くと頭が目に入った。わずかに金色がかった茶色の髪。ベッドに置いた腕の上で眠っている。
あれは夢だったの? それにしてはいやにはっきりと……。突然の寒気にブルッと震えた。
だんだん記憶が戻ってきた。そう……カムランの庭で何かされた。
そうだ、彼女……。
「シャル、それにザナ、彼女は……」
起き上がろうとしたが力が抜けた。ベッドに背中がストンと落ちギシッと音が響いた。
次の瞬間、パッと顔を上げたチャックと目が合った。
「カレン……」
その向こうに広がる天井の模様に見覚えがあった。
「ここは……アデルの館?」
「ああ」
「どうしてあなたがここに?」
「それは……まあ、君が心配だからだ」
「そう、ありがとう、心配してくれて」
「当たり前じゃないか。君はむちゃしすぎる、いつも、いつも」
「ごめんなさい。わたしは別に……」
「ああ、わかっているさ。とにかく、無事でよかった」
無事……そうだ、彼女は?
「それで、シャルとザナはどこ? あそこで怪我……」
「落ち着け、カレン。シャーリンは大丈夫。今は眠っているが問題ない。ザナは……とりあえず生きている。だけど、ペトラの話ではノアとよく似た状態らしい。ノアは……」
ということは、遅滞状態……どうして?
そこで、思い出した。遅滞をかけようと頑張って、願って……発動した?
「それは、ノアと同じように時間が?」
「ああ、そうらしい」
「ザナはどこ?」
「本棟の病室だ」
「会いに行かなくっちゃ……。手伝ってくれる? ちょっと力が入らなくて。ああ、あそこの呼び鈴を引いてちょうだい。ジェンナも呼ばないと」
***
病室にはペトラがいた。
「ああ、カル、ザナは……」
「ええ、わかっているわ。力髄が今にも止まりそうなのは……」
ペトラはジェンナの顔を見てからこちらに目を向けた。
「ジンなら治せる?」
「わからない。今からやってもらう。お願い、ジン」
ザナの顔は真っ白で身動きがなく、よく見なければすでに死んでいるかと思うほどだった。
ペトラがザナの服の打ち合わせを広げた。怪我は手当てされており体のほうは大丈夫。しかし力髄はいつ止まってもおかしくない。
隣に座ったジェンナの手を取り、反対側の手を左胸に押しつける。彼女と目を合わせてうなずく。
彼女から流れてきた回復力を流し込む。しかし何の反応もない。
しばらく続けたが変化が視えてこない。うーん、これでは無理なのかしら。ノアには多少の効果があるように見えたのだけれど。
「どう?」
「だめみたい……」
力髄自体の治癒能力が失われてしまったのだろうか……。
「それじゃあ……」
手を離してペトラを見る。
「そう。あとは……頼んでみるしかないわね」
「……彼女に?」
「ええ」
ペトラは服の明きを閉じてから立ち上がった。
「ほかの人たちはいる?」
「ミアとメイならいるよ。シャルは眠ってるし、エムはまだグウェンタ」
「じゃあ、ふたりを呼んできてくれる?」
***
ミアとメイの顔を見つめる。
「ジェンナの力を使えば何とかなるかもと思っていたけれどだめみたい。この時縮は二、三日で解けてしまうから、ほとんど時間がない。普通に戻る前にどうにかしないと。あとはティアにお願いするしかない」
「でも、幻精は……」
「ええ、そうだけれど、ニアはミアを助けてくれた。おそらくザナのことも頼めば……」
それぞれが呼びかけてしばらくすると幻精たちが現れた。ティアも呼んでもらった。
そのティアはザナのそばに降り立って小さな手を当てていたが黙ったままこちらを向いた。
「ねえ、ティア、お願いが……」
「それはできない」
「まだ、何も言って……」
「ザナンの命を救うのはできない。シルの掟に反するから」
「でも、ニアはミアを助けてくれたわ」
ふいと下を向いたニアをティアは見た。
「あれは正しくなかった。この世界に触れ、この世界の一部となったものの生死に干渉することはできない」
メイがティアに手を伸ばした。
「お願い、ティア、どうかザナを助けてあげて」
滑るように近づいたティアはメイの手のひらに降りた。
「メイとは来たるべき輪術式でつながることになっている。メイの望みにそいたい感情が生じないわけではない。しかし、そうであっても是とはできない。それがシルの決まりごとだから」
「でも……」
こちらに悲しそうな顔を向け首を横に振るティアを見れば言葉が続かない。
シアが言った。
「ねえ、カレン。ティアは導き手。導き手はほかの手を導く存在。だから、ティアはシルの掟に反することはできない」
「それなら、シア、あなたにお願いするわ。あなたは長の手、そして癒やし手。どうか、ザナを助けて。彼女はわたしの大切な、小さいころからの家族なの」
「わかっている。それでも、ザナとつながるティアが反対する以上、あたしたちには何もできない」
「そんな……」




