309 何もかもが現実ではない
ここは……どこかしら。記憶にない場所、見たことのない景色。
「……羨ましいです」
そう言う声にハッとする。
ひとりではなかった。ずっと話しかけられていたような気もするが、いま初めてしゃべっている内容が耳に入ってきた。
「……よその国を訪問したことがないです。隣国のローエンやハルマンはもちろんミルドガさえ。父と母は遠き異国に出向き、あちこち訪問したというのに……。わたしは遠出をしたこともほとんどない。泊まりがけで行った場所と言えば視察で訪れた前線くらい」
不満そうな声が続いた。
「そういえば、その間にいなくなったのよね。四週間も帰ってこなかった……」
「あのときは……」
「別に不平を訴えているわけではないの。ただ単にここに溜まったもやもやしたものを全部放出したいだけ。それには拒むことなく愚痴を聞いてくれる人が……」
「あなたは……」
「ちゃんとわかっているの。わたしは、つまり次の王となるよう定められた者は国から出ることが許されない。それに年々調子が悪くなっているし」
「それは……」
「あっ、別に心配しないでね。すぐにこの命が尽きるわけではないから。これからお母さまと実行する大事を果たすのには問題ないです」
何か重要なことを忘れているとの思いが募ってくる。彼女に言わなければならない話があったような。
必死に思い出そうとするが、同じ所をぐるぐる回っているかのようでだんだん気持ち悪くなってきた。
「……お母さまはオリエノールの国子だし、ハルマンの皇女でもあるから、ここに居続けるわけにはいかないのもわかっている。それに、亡き母の故国メリデマールのことも……」
彼女の目はかすかな緑を放つものに注がれていた。
「これは、あなたの……」
「ええ、それがずっと母の指にあったのは知っているわ。そして、母の死後は父がいつも身につけていた。メリデマールの符環。お母さまの指で再びその色が現れるのを見てやっと悟ったわ。どうして父がずっとそれを大切にしていたのかを。お母さまは本当に……」
何をしようとしていたのだっけ?
思考能力を奪われてしまったかのように頭がボーッと霞んできた。
「どうして、お姉さまのことを話してくれなかったの?」
「えっ?」
誰のことだろう。
「わたしが気にするとでも思った? もちろん最初は戸惑ったわ。だって……。いいえ、でも今ではとてもうれしいの。覚えている? あのビスムで食事をしたときのこと。あそこにね、お姉さまと行ってきたのよ。アリアの歌を聴いたのだけれど、以前とまるで違っていた。あれほどとは……。これもお母さまにしていただいたことのおかげね。お姉さまも古の歌にいたく感動していたわ。今度また一緒に行きましょうね」
歌……。
そういえば誘われていたっけ。あのとき、かすかに聞こえた歌声の主がアリア。
古の歌ってどういう調べだろう?
「彼女の歌は特別なの?」
「ええ、そうよ。アリアだけが披露する歌があって、あれはイスの時代から……」
「イスって、あの大昔の?」
「そう、あのイスよ。彼女はイスの文化を継ぐ者。わたしはそう信じる」
「……彼女にすごく興味を持つだろう人を知っている」
「えーっ? それはすてき。ぜひその方を紹介してちょうだい」
「あなたのもうひとりの姉妹なのだけれど……」
「姉なのね? やはりシャーリンのほかにも……ああ、ああ、ぜひお会いしたいわ……」
すぐに大きなため息が聞こえた。
「今回はあの歌の意味を少しだけ理解できたような気がするの。前はただのすてきな歌だとしか思っていなかったけれど、今は違う」
彼女は自分の胸に両手を当てて続けた。
「ここが揺さぶられた。お母さまから授かったこの力のおかげ。彼らがずっと守り続けてきた文化について知りたい。いつか彼女の故郷、彼女の家を訪ねてみようと思うの。お母さまも一緒にいらしてね」
とても大事なことを言われたような気がする。
それでも話を聞いている間にどんどん眠くなってきた。
「そういえば何か話があったのではないの? お母さま……聞こえている? お母さま……」
「……カル……カル……聞こえてる? ねえ、お母さん……」
何度も呼ぶ声が耳に痛い。まぶたがくっ付いたようでなかなか動かない。
「目を覚まして……」
うっかり眠ってしまったらしい。
「……イサベラ?」
ようやく目が開いて見えるようになったと思ったら、知った顔が見下ろしていた。
彼女ではなかった。先ほどのは記憶? それとも夢だったのかしら。夢見にしてはいやにはっきりと……。
「ねえ、ちゃんと見えてる?」
「シャル……」
イサベラと話をしたような記憶が……。これは何? 彼女と会っていた?
「あーよかった。また勘違いしたようだけど。うん……どうやら今度はまともそうだ。何かされた? ずっと変だったんだよ、もう」
「イサベラと……」
言いかけたとたんに鋭い痛みを感じた。
「うっ、どうして……」
ズキズキするところに目を向ければ、右胸の向こうに手が見えた。視線をずらすと押さえる手の主に焦点が合う。
「フィオナ……」
どういうわけかすごく体がだるい。それに力が使えない。またやらかしたのだろうか。
それでも頑張ってフィオナの手に集中するとわずかに作用が流れ込んできた。
「すみません、カレンさま、痛いですか? 大丈夫ですか? 苦しくないですか?」
いったん壁が取り払われるとどんどん作用が押し寄せてくる。
初めて彼女の力を自分のために受け取った。これは確かにすごい。そして不思議な感じがする。痛みが遠のいていくこの感覚が回復作用のなせる術なのか……。
「ああ、わたしは……どうしたのだっけ? 思い出せない……」
そこでフィオナが持っているものに気づいた。これは見覚えがある。
「あら、それ……」
視界の外から知った声がした。
「ああ、カレンからもらったディステインだけど、フィオナにあげてもいい?」
「でも、これはザナさまの……」
「癒者のフィオナが持っているほうが役に立つから」
ようやく少し思い出した。
「ザナ、どうしてここにいるの? ローエンはどうなったのよ?」
「心配ない。母とリアナ、アレックスがいるし、ニコラとクリスも頑張ってくれている」
頭が機能していないし、だいいち考えるのが面倒、いまは。
「ああ……まだ頭がボーッとしていて……どういうことかわかりませんけれど、それはザナにあげたものです。だからあなたがどうしようと構わない」
何の話なのか聞きたかったけれど今は無理。
「それにしても頭が割れそう」
「きっと、カイルのやつだ。お母さんに何かしたんだと思う」
「そうなの? でも彼は何もしていない……。いや、そうでもないわね。シャル、あなたに銃を向けた」
「うん、覚えてる」
「どういうことかしら。そんなことをしても意味がないのに。それに……。そうだ、イサベラはどこ?」
「行っちゃった……」




