282 感覚を取り戻したら
こちらを向いたエドナは微笑んだ。
「さすがです、お姉さま」
シャーリンが顔をしかめると、なぜか慌てた様子のエドナが言い直した。
「とてもすてきでした」
なにが? 施設を破壊したことが?
彼女の感覚は少しずれている。前から思ってはいたけれど。
「ペイジは先代の皇妃さまにもお仕えしていたので皆に尊敬されています。手際よく解決してくださるはずです。それに、タリアは王女さまの紫側事ですから……」
「そういうエドナもだよね」
「ああ、そうでした」
エドナはそっとため息を吐き、やるせない表情を浮かべた。
「……ご存じですか? 紫側事はほかに何人もいるのですよ。タリアは一番だし内事もできるんですよ。あたしは……あまりお役に立てていません」
「そんなことないよ。わたしはふたりに助けられっぱなしだ。まだたった三日しかたっていないけれど、数え切れないほどいろいろなことを教わった。わたしは人と関わるのが少し苦手。でもエドナは最初から気楽に接してくれた。そうでなかったらこんなに仲よくなれなかったかもしれない。これでもすごく感謝しているんだよ」
「そうですか。お気遣いありがとうございます」
エドナはぺこりと頭を下げた。
つい手を伸ばして彼女の頭を撫でてしまう。体を直したエドナの顔は少しだけ明るさを取り戻していた。
ペイジと指揮官が部屋から出ていき、タリアが戻ってきた。
「それでは帰りましょうか。シャーリンもおおいに満足したようですし」
やはり怒っている。
「本当にすまない。それで、ここの……」
「大丈夫です。問題ありません。そもそも習練室ですから。さあ、帰りましょう」
「タリアは最初から知っていたの?」
「何を?」
「お姉さまがすごい方だと」
「どういう意味かしら?」
「いえ、何でもないです」
エドナがぱっと振り向いた。
「さあ、行きますよ、お姉さま。ぐずぐずしていると冷えてきますよ」
促されて見回せば日が陰り薄暗くなり始めている。急いでエドナを追いかける。
歩きながら後ろを見るとタリアが何か考え込んでいる様子。
歩調を落として彼女と肩を並べる。エドナはちらっと振り返ったがそのまま先に行った。
「ねえ、タリア、いろいろと助けてくれてありがとう」
タリアはこちらに目を向け不思議そうな顔をした。
「突然何をおっしゃるのですか?」
「いや、その、ちゃんとお礼を言ってなかったと思って」
「そのような必要はないです」
「それに、この前のことも謝らないと……」
「うっ、あのことはもうお忘れください」
タリアはふいと前を向いた。
「何か、こう、いつも前が見えなくなるというか……」
「あれには……いささか驚きました」
いささかでは済まないことだと思う。
「頭の中が真っ白になってしまって……」
突然タリアが肩をふるふるとさせながら押し殺した笑い声を上げたのに驚く。
こちらに向けられた空の色の瞳がキラキラしている。初めて見たときと同じ目。
「ふっ、その真っ直ぐなところがシャーリンの魅力です。そういうの、わたしは好きです」
「えっ?」
「わたしたちに気軽に接してくださるところも」
「え、えっ?」
「皇妃さまもとても気さくなお方ですが、シャーリンは少し違います。そう、気を遣わせない方なのだと思います」
「わたしががさつなのは認めるよ。自分でもわかってる」
タリアの声が若干鋭くなった。
「そういう意味ではありません。粗野と自然体は別ものです。そのう……サバサバしているところがとても心地よいのです」
「大雑把なのは性格だから」
タリアが視線を正面に向けたので、つられて前を歩くエドナを眺める。
「それに、強引で向こう見ずです」
「うっ、それは……否定できない」
「ああ、そうではなく、えーと、要するに、わたしはあなたの側事になれてよかったという意味です」
「いま考えてみれば幸運だった。イサベラに助けられたことも、タリアとエドナに出会えたことも」
急に立ち止まったタリアは体を回してこちらに向けた。
その青い瞳には強さが溢れ、大きな目に吸い込まれそうな感覚を覚える。
「わたし、今さらながら思うのです。こんなわたしが王女さまに見いだされて、楚々とした皇妃さまのお世話ができるのも、シャーリンのような格好よい姫さまと出会えたことも、天からの賜ものだと。そうです、はい、決心しました。わたしは王女の紫側事ですけれど、これからずっと姫さまのおそばでも働きたいと願い出る所存です。このようなことを申し上げるのは自惚れでしょうか」
何度も首を振って否定する。
「記憶に欠落があることを知ったあの晩、わたしはすがるものを求めてさまよっていた。目が覚めて君を見た瞬間から、何かに突き動かされるように関わり合いを欲したの」
向き合う瞳の奥を覗き込む。
「いま考えれば、単なる焦りだったようにも思うけど、なぜか確信があった。君ときずなを結ぶべきだと。そして、タリアはわたしにとって大事な人になったの」
こちらを見る目はとても穏やかで優しい。
人はひとりでは生きられない。無意識につながりを求める。記憶が欠如している今ならなおさらだ。
「わたしに家族がいるのかどうかはわからないけど」
右手を自分の左胸、力髄の上に置く。
「ここがタリアはもう家族なのだと言っている」
「とてもうれしい言葉をありがとうございます。お会いしたときから想像していたとおり、シャーリンは理想のお姉さまです」
突然別の声がした。
「リーシャ、ずるーい、抜け駆けはよくないと思うわ」
「エディ! 聞いていたの?」
「あたしだけのけ者にするなんて……」
エドナはタリアとシャーリンを代わる代わる見たあと肩を落とした。
拗ねたような振る舞いが何ともかわいらしい。
腕を伸ばしてエドナの顔を両手で挟みこちらを向かせる。
「ねえ、エドナ、君のこともとても大切に思ってる。これからもずっと頼れる妹でいてほしい」
たちまちエドナの顔が明るくなった。
「承知しました、お姉さま。あ、そうそう、これからはエディと呼んでくださいね。妹なのですから」
「それじゃあ、わたしのことは……そうだ、シャルと呼ばれていた」
上ずったタリアの声が聞こえる。
「思い出されたのですか?」
「……うーん、どうだろう。これは記憶なのかな。それともそう思いついただけかしら」
その場をしばらく沈黙が支配した。
「はい、それでは、あらためまして、シャル。わたしはリーシャ。行き届かないところがあると思いますが末永くよろしくお願いいたします」
真っ直ぐで真剣な眼差しを向けてくるタリアは本当に殊勝で健気だ。
「あらら? まるでふたりが一緒になるみたい」
エドナが言えば、タリアが珍しく声を失った。
「お姉さまは作用者なのですからそれも問題ありませんけれど。……陰ながら幸せを祈っています、リーシャ」
「な、何を言っているの……」
うろたえてこちらを見る彼女がなお愛おしく思える。しかし……。
「でも、お姉さまにはすでに決めたお方がいらっしゃるかもしれません。あるいは、とっくに伴侶がいらっしゃるかも。その場合は当然ながら二番手……」
ギクッとなりエドナを見つめる。それは考えてもいなかった。その可能性は……ゼロとは言えない。この記憶では。
「ああ、ご心配には及びません、お姉さま。側事に手を出す方は少なからずいらっしゃいますから。たとえ相手が成子結びを終えていたとしても……」
いったいいつの時代の話をしている、エドナ? 口を開いたものの言葉が出てこない。
タリアがつと手を握ってエドナの頭の上にガンと落とした。
「めっ! 変なことを吹き込まないの」
「あ痛たた……姉さま、ひどいですう」
突然手が勝手に動きだし、ふたりの背中に腕を回してぐいっと引き寄せる。三人の頭がゴチンとぶつかりものすごい音が響き渡った。
「うわわっ!」
エドナが頭を抱えた。
「やっぱりお姉さまですう……」
「ごめん」
気を取り直してもう一度ふたりを引き寄せ思い切り抱きしめる。
こうしてみるとわたしのほうが少しだけ背が高いな。
おとなしく抱かれていたふたりが体を緩め長々と息を吐き出したので手を離す。
こちらに向ける眼差しに満ち足りた思いを見いだす。ここでふたりの信頼をしっかりと受け止めるべきだ。
「ふたりとも手を出してごらん。上に向けて」
それぞれの手のひらに手首をのせてふたりの手首をつかむ。
「さあ、握って。反対の手もつないで」
これで、三人が互いの手首を握り合い輪になった。
エドナが鼻にしわを寄せた。
「何ですか、これ?」
「いいから目を閉じて。ふたりはもうかけがえのない家族だから、この先、何があっても。だから、きずなを確かめ合うの」
タリアとエドナの手の温もりを感じ、この関係が永遠に続くよう祈る。
すぐに胸が熱くなってきた。少し前にやらかした時のよう。
作用が溢れ出てふたりに向かって流れ込む。一瞬ギクッとしたがこれは攻撃でも防御でもない。
ふたりとつながりたいという思いだけが作用とともに駆け巡る、何度も。
あえぎ声が聞こえ慌てて目を開く。見れば、タリアが少し苦しそうに息をしていた。
「ごめん。やりすぎた?」
そっと手を離す。
タリアは小さくうなずいた。
「初めてです。こんなにドキドキしたの。それに、この不思議な感覚は……」
エドナは両手で胸を押さえた。
「あたしも、ここがいつまでも震えています。これは何でしょうか。すごく近く感じます、ふたりとも……」
「おまじない。これでわたしたちはずっと姉妹、そして家族」
ふたりから長い嘆声が聞こえた。
「とてもすてきです。こんなことをしてくださるなんて。大好きです」
「わたしもです。このような経験は初めてだわ」
「もちろんわたしも……」
とにかく暴走しなくてよかった。内心ホッとする。
エドナがまじめな顔をしてタリアに言う。
「お姉さまのことは譲ってあげます。少しだけですけれど」
「こらっ」
「あたしはリーシャのことも大好きですからね」
「はい、はい。それでは、ふたりとも、戻って晩食にしましょうか」
これ、なんかすごくいいな。それに、これが家族というものだよね。
「うん、リーシャ、おなかがペコペコだよ」
「あんなに破壊しまくったらおなかもすくでしょう」
「ああ、それ、言わないで」
「お姉さまにあれほどの力があるのなら、守られるのはあたしたちのほうね、そこはちょっぴり残念だわ」
「ええ、そのとおりね。でも、それが姉の姉たる所以なのだから……」
いや、わたしの出番は最後までないはず……理想の姉ならば。
その夜、イサベラがカイルを伴って帰ってきた。




