280 図鑑にのめり込む
結局、六番目の作用に関する説明はなかった。
うーん。まあ、作用をこれから扱おうとする人たちが読むのなら、そんなことはどうでもいいから当然か……。
続いて、作用の変種について紹介されている。
作用は各力絡の末端から発動すると思われているが、実際の作動点は空間を越えた先にある。つまり作用は転移を伴う現象である。
ああ、なるほど。確かにそうでないと壁越しに作用を扱えない。
作用の基本十種のほかに、熟達した作用者とつながることにより発動できる助作用と呼ばれるものがある。以下の二つが公にされている。
大気から精気を取り込みほかに流すことのできるイグナイシャ、周囲の有機体などから精分を集めて原動力にできるメデイシャ。
また、癒者は体の臓に働きかける正癒者すなわちレネティシャと、力の髄に働きかける力癒者すなわちネフェリシャに分けられる。古くは、正癒者は月の回復者、力癒者は日の回復者と呼ばれたこともある。
どちらも希有な存在で、ローエン領ならびにハルマン領に生きたオベイシャの子孫に現れることが知られている。なぜそうなのかは解明されていない。ケタリシャとも関係すると言われるが詳細は不明である。
癒者か……。
癒やし手、という言葉が浮かんできた。これのことだろうか。それに、オベイシャという言葉に覚えがあった。何だっけ?
ケタリシャというのは権威ある者のことだったかな。しかし、ここに出てくるケタリシャはそれとは違うような気もする。
ここまでケタリに関する記述はない。うーん、頭が痛くなってきた。
どんどん流し読みする。癒やし手や陰陽についての説明を発見する。
癒やし手という低水準の回復能力を持つ作用者の存在が知られているが、近親者以外には効果が薄く実用にならない。
同番の陽と陰を持つふたつもちは、おのれの中で陽と陰の作用を互いに増幅させるため強力な作用を発動できることがある。
また、ひとつもちの中には、希に同じ精媒を二つ持つ者がいる。これも増幅作用を生じるため、ふたつもちに近い力を発動できることがある。
……いずれにしても、作用の能力は自己が有する精華に左右される。
どのような精華が形成されているかにより実際に発動できる作用もその内容や効果も様々に変化する。幅広く緻密な精華を形成することが作用者の力量と融通性および多様性に直結する。
……また、作用の根源を形作る精媒は、親、特に継氏たる同性の親が持つ精媒によるところが大きい。
それに対して、生を受けてよりゆっくりと広がり始める精華は、初動の直前から爆発的に成長することが知られており、完全に後天的なものと言えよう。
初動前の習練がきわめて重要とされる所以である。
そうなの? おとなになってから知っても手遅れ。
もう頭が破裂しそうだ。初耳の知識が多すぎる。
ため息を吐くと静かに本を閉じた。
それにもう明らか。これは入門書などではない。熟達者あるいは指導者向けの書物だ。このような貴重な本がここの書棚に無造作に置かれていいのだろうか。
そこで頭の隅でくすぶっていた事実に気がついた。
ローエン領とハルマン領。
つまり、この本が最初に書かれたのは、ローエンとハルマンがイリマーンから独立する前ということになる。一五〇年以上……。しばらく身動きもできずに目の前の厳つい表紙を凝視していた。
ふと気がつくと窓の外が少し薄暗い。天気が悪いとますます日暮れが早く感じられる。
あれ? エドナがいない。どうしたのかな。何か用を足しに行っているのかしら。
ようやく気分が落ち着いてきたので、次の書物に取りかかる心構えができた。
三冊目は、植物に関する図鑑。大きくて重い本だ。
一番下の段にでんと置かれていた。きっと高価なものに違いない。痛めないように慎重に開く。
こんなにいろいろな植物があるのか。
草木とその花、実などについてとてもリアルに表現されている。これを描いた絵師は天才かもしれない。
自分には絵描きの才能はまったくないと感じていた。
パラパラとめくり木の実について書かれている所を発見する。何度かページを前後してメドラを見つけだす。
確かにこの果実は醜怪だ。十分に加熱しないと毒が消えないとある。麻痺毒は心臓を停止させるとの記述にドキッとした。麻痺か……。
よくこれを食べてみようと考えたもの。最初の人はとても偉大なのか、命知らずの冒険者か、それとも単なる間違いだったのか。
突然記憶が呼び覚まされる。
好奇心こそが人を人たらしめるもの。疑問を追い求めることが成長を促し文化を育み歴史を織り上げる。さもなくば人のような弱い生き物は意欲に続き記憶をも失っていき衰退のあげく、高度に発達した文明すら崩れ去りその痕跡もいつか消滅する。
これは誰の言葉だったかしら。
このような些細な発見の積み重ねが今日の文化を成している。まさに、そういうことなのかしら。わたしも探究心を失わないようにしなければ。
多くのページがハチミツの元となる草木の花について割かれている。
西方諸国では養蜂が盛んで養蜂場なるものが無数にあるらしい。これは知らなかった。
ん? ということはやはり養蜂場があまりない東のほうの出身なのかな、わたしは。
しかし、イサベラはわたしがローエンから来たと言っていた。しばらく考え込み手も止まる。
気を取り直しさらにパラパラとページをめくっていると目に入ったものがあった。
シャーリン?
思わずページを戻してもう一度よく見れば、シャーリ・ウラニシオンと読めた。自分の名前らしき文字が混じっていることに何となく親近感を覚える。
この絵が正確なら、木の幹はやたら白くゴツゴツしている。まるで石のような頑固さを感じる。同じだ。自然とニヤニヤしてしまう。
突如この木を知っているように錯覚した。もしかして、実際これを見たことがあるのかしら。しばらく宙を睨み考える。また、頭痛がしてきそう。
気を取り直しさらに説明を読むと『対樹である』という但し書きがあった。
対樹? 何だこれは? 聞いたこともない。
その説明を求めて目次から見直し、あちこちひっくり返してようやく発見した。しかし残念ながら解説が簡単すぎて何もわからない。
対樹。対の木ともいう。
祝い木として双子とともに成長を誘い、互いにつながれ双方を守ったのは古のこと。その風習が残る地域もわずかながら存在する。
何だ、この意味深な説明は。
要するに古き時代の習慣ということ? うーん。
ちなみに、対となるのはペトゥー・リアダシオンとかいう名前らしい。変な名前。樹木の真名はどれもたいそうなもの。
ほかにも対樹と呼ばれる木がいくつか書かれているが、いずれも長たらしくてとても覚えられない。
本を睨みながら独り言つ。
「双子と対樹か……」
「不思議ですよね」
突然の声に飛び上がる。
「ああ、びっくりしたー」
顔を上げればエドナが肩越しに覗き込んでいた。
「あ、驚かせるつもりはありませんでした。すみません、覗き見するのが無作法なのは重々承知しておりますが、お姉さまがあまりにも心酔されているご様子だったので、もしかして書物に取り憑かれたのではないかと心配になりまして……」
いやいや、本に攻撃されたり支配されたりなどあり得ないから……。
「何と言っても書物は力の源ですから。今ではみな書機を使いますけれど、それでも……」
本当に信じているわけではないよね。
書物はただの紙でしょ。電子機械の書機ならいざ知らず。
何で気づかなかったのだろう。それほど本に夢中になっていたのかしら。突如ゾクッと背中に冷気が走った。
何ごともなかったかのように、エドナはおもむろに挿絵を指さした。
「その対の木の伝説はあたしも読んだことがあります。ちっちゃいころに。グレースさまの養育施設には古い本がいっぱいあって。あまりよく覚えていませんけれど、物語になっていました」
「お話? 子ども向けの?」
「むかーし昔、双子の姉妹がおりました。ふたりは亡き母から贈られた対樹の髪飾りをとても大事にしておりました。……しかし、穏やかな日々は続かず公国間の争いが激化し、力あるふたりも戦いに身を投じるしかなくなりました……」
これは先ほど読んだ二帝国間の大戦争のことだろうか。
それにその姉妹は作用者なの?
「……ふたりは離ればなれになり、日々の戦いで多くの仲間を失いました……」
いきなり急展開だけれど、とても子ども向けとは思えないな。
「……遠く離れていても、ふたりはどういうわけかお互いの存在を感じておりました。夜眠っている間に夢の中で会い、つかの間の語らいを大事にしました……」
今度はおとぎ話のようだな。
「そして……うーん、どうだったかなあ。とにかく最後にはふたりは再会してしっかり抱き合うの」
「なんだ、そりゃ。今の話、本当に読んだことがあるの?」
「もちろんよ」
エドナは窓の外をちらっと見た。つられて目を向ければもう暗かった。
「少し冷えてきました。そろそろ戻りましょうか。晩食のお時間も近いですし」
「そういえばおなかがすいたよ。ただ座っていただけなのに」
「当然です。本と闘うのは人と戦うよりもエネルギーを消費しますから」
「それ、本当?」
「はい。お姉さまのような一途な方ですととりわけ」
こちらに向けた顔はいたってまじめ。
からかわれているのだろうか。真意がわからない。
「ふーん。今日はなかなか有意義な一日だったよ。ところで、こっちの本を持ち出すことはできる? 部屋で読みたいのだが」
「はい。向こうで制限解除してきます。この二冊だけですか?」
「うん」
エドナは奥の小さなテーブルまで本を持っていきすぐに戻ってきた。
「それでは参りましょうか。あ、本はあたしが持ちますので。タリアが湯浴みの準備をして待っているはずです」
「もしかして今日も……」
「はい、お姉さま」
すっかり、この呼びかけが定着してしまった。これではまたタリアにあきれられる。




