270 共同生活
目を覚ますとベッドに寝ていた。
頭を傾けると広い部屋にいることがわかる。ここはどこだろう?
反対側に目をやると、壁際に誰かが座っている。
大きな椅子の背もたれに流れる髪しか見えない。
突然、こちらを向いた顔は知らない女の子。
パッと立ち上がるとこちらに向かって歩いてくる。誰だろう、この子は?
真っ白い服を着た女の子はベッドのそばまで来ると、両手を背中に回し立ったままこちらを見下ろした。
濃い亜麻色の髪に透き通った紫の瞳が幾つもの灯りを映して輝く。
「具合はどう? シャーリン」
シャーリン……それはわたしの名前。
彼女はわたしの名前を知っている。しかし、目の前の顔はわたしの記憶にはない。
黙ったままでいると彼女は続けた。
「わたしはイサベラよ」
イサベラ?
イサベラと名乗った子は、近くの小さな椅子を引き寄せると目の前に座る。
両手をそろえて膝に置き背筋を伸ばすと何度も目を瞬いた。
しばらくお互いの顔を見つめ合う。
「ここはどこ?」
「やっとしゃべったわね。ここはカムランの館よ」
カムラン……イリマーン……。
「お母さまからわたしのことは聞いてないのかしら」
「お母さん……誰の?」
「あなたの、よ」
ちょっとの間イサベラの顔を見つめてから首を横に動かす。
「わたしはどうしてここに?」
「聞いた話によると、トランが、というより、あそこの誰かがあなたをここまで運ばせたの。きっとローエンからだわ」
ローエン……。
毛布から両手を出しこめかみを押さえる。もう少しで思い出せそうなのに、いきなり頭痛がしてきた。
「覚えていない……何もわからない……」
「記憶がないの?」
こちらを見るイサベラの目が大きく広がった。ふっと息を吐いたあと続ける。
「ああ……おそらくそれもトランの仕業ね。あなたは意識がないままここに運び込まれたの。昨日のことよ」
「あなたは誰?」
「さっきも言ったと思うけど。イサベラ、イリマーンのカムラン……」
「何も思い出せない……わたしは……どこで何をしていたのだろう?」
突然、真っ白いねこが現れた。これは……知っている。
「やあ、リン」
そのねこはゆっくりとこちらに歩いてくると顔の前で丸くなった。何も見えなくなる。
頭から手を離し、リンをつかんでおなかの上に移動させる。彼女は少し抵抗したがすぐにその場でまるくなった。心なしか元気がないように見える。
「おまえは何でここにいるんだい?」
もちろん返事はない。
「それ、シャーリンのねこなの?」
「わたしの? どうだろう……たぶん違う」
「そう」
「リン、ご主人さまはどこだい?」
眠ってしまったのか、もはや身動きもしない。
「たぶん、あなたを運んできた輸送車に便乗してやって来たのね」
自然と口から言葉が出てくる。
「リンには病気がある。定期的に薬を飲まないと……」
「そうなの? ねこの医者に聞いてみるわ。薬も用意してもらう」
「ありがとう」
起き上がろうとすると、イサベラの手が伸びてきて肩を押さえた。
その指には彼女の瞳の色よりもはっきりとした光が見えた。
「しばらくこのまま寝ていたほうがいいわ。疲れ切っているみたいだし、体も言うことをきかないでしょう?」
「でも……」
「心配しないで」
「わたしは……何もわからない。何があったのか覚えていない。わたしの記憶はどこかに……」
体がブルブルと震えてきた。
イサベラは手を伸ばすと、毛布を少しだけ引っ張り上げて首の周りを埋めた。
「大丈夫よ。今日からわたしがあなたの面倒を見るわ。あなたの中のその行方不明の記憶が戻るまでね」
シャーリンはゆっくりとうなずいた。
「わたしもあなたと話したいことがいっぱいあるから。でも、今はこのまま眠りなさいな」
そう言われれば、体がだるく、とても気分がいいとは言えない。
再び首を縦に動かすと目を閉じた。
イサベラが立ち上がるのがわかり、やがて扉を開け閉めする音が聞こえた。静寂が広がり自然と眠りに誘われる。
この日からイサベラとの共同生活が始まった。
◇ 第2部 第3章 おわり です ◇
◆ここまでお読みいただきありがとうございます。




