266 残酷な記憶
頬を流れる涙を手のひらで拭った。
ケイトとの約束を守れなかった……。
パメラは眠ってしまったわたしを発見してどう思っただろう。
秘密を守りペトラを立派に育ててくれたのに、お礼を言うことができなかった。パメラが二十を過ぎたばかりで他界してしまったのは、きっと、わたしが彼女に大きな負担をかけてしまったせいだ。
シャーリンを守ってくれたお父さん、お母さん、それにひとりで頑張ってくれたフランクに感謝することも叶わなかった……。
低い声で話し続けているディランにカレンは目を戻した。
「……恥知らずにも君にイリマーンに来てほしいと頼み断られた。わたしがしたことを君は決して許さない。それはわかっている。たとえ、君のそのまっすぐな瞳が、いかなる生命も尊いものだと語ってくれたとしても」
本当にだめだ、わたしは。何をやっているのだろう。ひとつのことを考え始めると周りが見えなくなってしまう自分を、知っているようで実は全然わかっていなかった。
正しいことをしていると信じていても、ほかの人には苦痛にしか感じないときもある。もっとみんなの気持ちを察するべきだった。
「あの日から、君のことが忘れられなくなった。自分の犯した罪とあの情景の君の姿が脳裏に焼き付いたまま何年もが過ぎた。君がわたしを助けてくれたのは、わたしのことを心配してくれたからと思い込みたかった」
そう言うディランの言葉は頭の中を素通りしていった。今はもう何も感じられない。
「……知っているかい? 君は人に安心を与えそれは拠り所と信頼に変わる」
わたしが?
「どうして、そのような突拍子もないことを……」
「自分でもわからない。ただそんな気がするのだよ。実は今も、君にすがりつきたい衝動を感じている」
カレンは思わず身を引いた。それを見たのかディランが苦笑する。
「大丈夫だ。ちゃんと自制できている。毒はすべて君が消してくれたのだから」
いいえ、毒はイサベラの目と体を蝕んでいる。彼女はほかの人に決して弱みを見せないようにしているが、きっと大変な苦労を重ねてきたはずだ。それも全部わたしのせいなのだ。
目を閉じて話す声は小さくなり聞き取りにくい。
「もしかすると君には人を引きつけて絡め取る不思議な力が宿っているのかもしれない」
それってまるでわたしが強制力を使って、出会った人を従わせているみたいじゃない。
まさか、本気でそう思っているのではないでしょうね。
単に誰かに何かを求められたならばそれに全力で応えたい。ただ、それだけなのに……。
「……君を国に連れて帰らなかったのをずっと後悔した。君の娘を奪ったことも……」
「グレースさまはどうされたのですか?」
「グレースはイサベラを産むと彼女を溺愛した。男三人で初めての女の子だったのを考えても無理はない。それに、イサベラがケタリの種を持っていることが判明すると、治世はかなり安定したと思う。いま考えれば、グレースはその事実を最初から知っていたのかもしれない。ああ、アレンのやつならきっとそうだろうな」
誰にともなく話すディランの顔を見つめるしかなかった。
「イサベラを力覚せずにグレースが亡くなったことは、どこからともなく漏れ伝わった。そして、娘はケタリになれないという話が広まってしまい、再び不穏な空気に包まれた。君とのことを知っている者はアレンだけだったし、それ以外の者たちはイサベラがグレースの娘だと思っていた」
実際、そのとおりなのよ。
イサベラは間違いなくグレースの娘。それが、ケタリの種が持つ同調力に違いない。だから、グレースこそがイサベラを力覚できたはずなのだ。
その前に亡くならなければ……。
ケイトとわたしがそうだった。それに、ペトラも間違いなくパメラの娘なのだ。
「……その後、わしはひそかに君の居所を探した。字とその姿以外に手がかりはなかったが、数月ほどたって、ついにケイトがウルブ1のロメルのものであるのがわかり、どこにいるのかと追い求めた。彼女は長く旅に出ることが多く、行方がはっきりしなかったが、三年前にここイリマーンに来ているのが判明した。わしはもう躍り上がらんばかりに喜んだ。彼女を訪ねて頼み込み、連れの者たちと一緒に招待した」
ディランは何かを思い出そうとするように目を閉じ眉間にしわを寄せた。
「……ケイトと話すうちに、何かが違うと感じた。その疑いはしだいに確信に変わった。この人ではないと……。ケイトがわしの記憶に残る姿そのものであり、彼女とイサベラが母娘だという結果が出ても、信じられなかった。そのときになってやっと理解した、君たちが正真正銘の双子に違いないと。言い伝えは正しいのだと。それから……」
ディランは黙り何度か咳き込んだ。
「ケイトにイサベラの力覚を頼んだ結果、起こった事故については大変すまないと思っている。グレンも含めて四人も命を落とすはめになった。どうしてあのようなことが起きたのか未だに理解できていないが、君が同じような事態に遭わずに心から安堵している。君の家族を奪ったのにこんな酷いことを言うのは、わしの身勝手だとわかっている。君には辛い思いしかさせなかった。でも、こうやって君と再会できイサベラがケタリとなったのには本当に感謝している」
ディランはまた少し苦しそうに息をついた。
メイジーが戻ってきた。
すぐにエメラインのもとに行き口に水を含ませる。かすかに喉が動くのが見えた。口がわずかに開きメイジーが耳を近づけうなずいた。
そのあとメイジーはこちらにやって来て、コップに水をついでディランに差し出した。
軽く頭を下げたディランは水を受け取りゆっくりと飲んだ。
「感謝する、イジー。グウェンタの当主は……」
「ディランさま、あたしは大丈夫です。グウェンタの当主ではなくても、グウェンタの誇りを失ったわけではありません。それに、最近、新しい邂逅を得て、家族同然にも思える人たちと巡り会いました」
メイジーはエメラインに気遣わしげな目を向けたあと、こちらに顔を見せかすかな笑みを浮かべた。
ディランは軽くうなずいた。
「それはよかった、イジー。おまえも苦労が絶えないと思う。わしとて同じだ。今さらだが、ケタリでない者が王になるのは大変なことなんだよ、この国では。しかも、わしは、王の座につくつもりは毛頭なかった。姉とその子どもたちが殺されなければ、もう少し平凡な生活を送れたかもしれない」
少ししてディランはまたこちらを見る。
「わしの命はあの時、そなたにもらったものだ。それなのに何の償いもできなかった」
「あなたは、イサベラを立派な後継者に育て上げたではないですか。ケタリとなったからには、彼女なりの方法でこれからもイリマーンを、この世界を護っていくと思います」
「ああ、そうだな。イサベラはそなたの娘なのだからうまくやっていくだろう。彼女の病気のことだけが心配だが、何とか乗り越えてくれるのを祈るしかない。それに、そなたがいれば彼女はきっと大丈夫だ。こんなことが言えた義理ではないが、イサベラのことをお願いしてもいいだろうか」
「それは、あなたがご自分で……」
ディランはゆっくりと首を横に動かした。
「そろそろグレースのところに行ってもいい頃合いだと思うのだ……」
この人は本当に死ぬつもりなのだという思いが確信に変わる。




