264 今できること
遅すぎた。ふたりの作用者がこの建物に近づくのを感じる。すぐそばだ。動く速さからして車に乗ってきたに違いない。
知らない人たち。目の前の人の敵なのか味方なのか……。
すばやく起き上がり、何か使えるものはないかと見回す。遮へいの外に出るわけにはいかない。
パメラが不安そうにこちらを見る。
その時、男の体が動いた。すばやく近寄り顔を覗き込む。パッと目が開き続いて口が動いた。
開いた口にさっと手を押し当てて静かに言う。
「よく聞いて。あなたは誰かに毒を盛られ殺されかけた。覚えている?」
こちらをじっと見る様子は、聞こえていないのかと思わせるほど反応がなかったが、やがて小さくうなずいた。
話が伝わっているし理解できていることにホッとする。
「ふたりの作用者が近くにいるの。遮へいと生成を持つ人、もうひとりは対抗と感知。知っている人?」
男は頭を振りながらしばらく目を閉じていた。喉がヒクヒクするのが見えた。
「パム、水」
頭を支えて手渡されたコップを男の口に当てる。大部分はこぼれてしまったが、喉がかすかに動くのが見えた。もう一度コップを近づけたが、手が弱々しく振られた。
「……グレースとアレンかも……。おれを探しているはず……」
「ええと……」
「ディラン」
「ディラン、わたしは……ケイトよ」
いつものように名乗る。ディランは顔を動かしてパメラを見てから目を閉じた。
「すまない。おれは君たちに……」
「もしかして覚えているの?」
ディランはうなずいた。その顔が苦痛にゆがむ。
「どうして、おれを助けた? おれは死ぬべきだった……」
「どうしてですって? 毒のせいで誤った人をただ見殺しにしろと言うの?」
怒りが立ち上ってくる。
なぜ自分の命をそう簡単に考えるのかしら。
外のふたりは建物のすぐそばで動かずにいた。車は降りたに違いない。つまり、ここにディランがいるのが知られている。やがて建物に入ってきた。
横たわる男をちらっと見る。ひょっとすると、どちらかはこの人と……。
ふたりが部屋の入り口にたどり着いた。まず扉だけが開いたが、誰も入ってこない。
パメラの耳に口を近づける。
「遮へいはもういいわ」
これでこちらの意図は伝わるはず。
しばらくして、ようやく男の人が扉のところに現れた。まっすぐこちらに歩いてくる。
座ったままで男を待つ。最後は走るように近寄ってきた。
目の前に立った男はまずディランを見下ろした。それから、こちらを、そして、パメラに目を向けた。ディランの前にしゃがむと初めて口を開いた。
「ディラン……探しましたよ……」
「すまん、アレン。この方たちに助けられた。おれは……」
「待て、ディラン」
その男は立ち上がると扉のほうを向いて手を上げた。
すぐに女性が現れ転がるように走ってくる。
パメラにささやく。
「朝食がまだだったわ。向こうで食べましょ」
うなずいたパメラは残っていた水とパンを持って立ち上がった。
少し離れたところに座ると、無言で食事を摂った。
おなかに手を当てる。まだ大丈夫。しかしあまり時間がない。この三番目の命は少しの間あれと一緒だった。影響を受けたかもしれない。
どっちにしても、全員を育てることは不可能だ。どうしたらいいだろう?
「お姉さま、あの人たちは……」
「見たところ、ディランの連れ合いと友人といったところかしら」
「あの人が……」
残った食べ物がすべておなかの中に消えた時、女性がこちらにやってきた。
「グレースと申します、ケイトさん。ディランの連れ合いです」
丁寧な挨拶を受ける。
対するふたりも同じ挨拶を行う。
「本当に申し訳ありませんでした。ディランのしでかしたことは、人としてとても許されるものではありません。おふたりには何とお詫びしたらいいのかわかりません」
「あの方に毒を盛った人がいるかもしれません」
「毒……どうやって……」
振り返ってアレンと話すディランに目を向けたグレースからつぶやきが漏れた。
「どうしてディランに? そんなことをしても意味ないのに……」
少し間があったあと息を呑むような仕草が見えた。向き直った顔から血の気が失せている。
「注意は怠らないようにしていたのですが、敵のほうが上手でした……」
敵……。この人たちは……。
「わたくしたちはイリマーンのカムランのものです。所用があってこちらに滞在していたのですが、このようなことになってしまって、本当に……」
イリマーンの主家。国王に近い人たちかもしれない。あの国の事情を考えれば敵が多いのは当然かもしれない。
「少なくともあなたに責任はありません。あの人に取り付いた毒のかなりを除去したつもりですが、すぐに医術者に診てもらったほうがよろしいかと思います」
「はい。……わたくしにはとてもあなた方のような勇気はありません。暴行を加えた相手の命を助けるなど到底考えられません」
「あなたはとても正直な方です。わたしも、一時はあの人の命を力で奪うつもりでした……」
「それでもディランを救ってくださいました。どうして、そのようなことができるのですか」
「わたしにもよくわかりません。あの時、なぜ助けなければならないと思ったのか」
「わたくしたちはあなた方のなさった恩義に対して、何をもって報いればいいのでしょうか」
「その前に……お話ししなければならないことがあります」
グレースはこちらを見てすぐに察したのかさっと青ざめた。手を伸ばしたものの慌てて引っ込める。
「ええ、あなたのご想像のとおりです」
「ああ、何てこと……」
グレースはその場にぺたりと座り込んだ。
彼女のそばに膝をつき、だらんとなった手を取った。その瞬間、わずかな衝撃を感じ、手がピクピクと震えた。
彼女の指にはめられた緑色の指輪が明るく輝くのを見る。思わずグレースの顔を見れば、驚いたようにこちらに向ける薄紫色の瞳を覗き込んでしまう。
ああ、この人とならどうにかなる……。たちまち決心が固まった。
グレースの手を引き寄せると、スカートを下げておなかに押し当てる。彼女はすぐに目を閉じた。しばらくして、大きなあえぎが聞こえた。
「大丈夫です。これは何とか抑えていますから。でも、あまり猶予がありません。それに、ご覧になったようにわたしはすでにふたりの子を宿しており、この子までは成長させられません」
放心したようにこちらを見るグレースの顔は血の気がなく真っ白だった。
「この子はあなたに託すのが一番よいのではないかと思います」
しばらく反応がなかったが、その間にグレースの顔には血色が戻ってきた。
「あっ、つまり、人工子宮に……」
「先ほども言ったようにほとんど時間がないのです。ここで、直接、あなたに託したい……あなたなら受け入れてもらえると感じました」
「でも、そのようなことが可能なのでしょうか」
「わたしたちにおまかせください」
「わかりました。わたくしも先ほどあなたに触れたときに感じました。あなたにすべてを委ねるのが正しいのだと。それに、ディランの子とあらば、わたくしは責任を持って育てる所存です」
「この子は三日目に入ったばかりです。あなたの中に入り根を下ろせば、あなたの力を存分に受け、あなたの子として育つはずです」
「ありがとうございます。ディランがこのような許されないことをしでかしたのに、あなたはとてもお優しいのね」
「……それは少し違います。意図せず誕生した生であっても、その命は何にも代えがたいものです。ましてや、あなたとわたしで救うことができるのならなおさらです」
「はい。それで、わたくしはどうすれば?」
「まず、あなたの周期を早めてこの子を受け入れられるようにします。それからあとのことは……」
座っているパメラを指さす。
「彼女がやります。彼女は若いですけど、とても優秀ですから心配は要りません」
「わかりました。先にディランに話をしてきてもよろしいですか?」
「ええ、もちろんです。よく話し合ってください」




