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おかあさんと呼んでいいですか  作者: 碧科縁
第2部 第3章

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257 何も考えられない

「ああ、うまくいきそうだわ」


 カレンが口にしたとたんに周りの景色が変わった。

 どんどん色が失せていく。


「ラン、しっかりして。帰るのよ」


 突然、ケイトがガクンと下に引っ張られる。つられてカレンも地面に引き込まれそうになる。

 見れば、もはや下は草原ではなく。乳白色の雲のような世界に変わっていた。

 ケイトの両足が雲の中へと徐々に沈んでいく。


「ラン!」


 力いっぱい引っ張るが、体がどんどん白いうねりに消えていく。


「レン、ありがとう。あたしたちを迎えに来てくれて。みんなレンに感謝している。でも……これでお別れだわ」


 すでに胸まで雲の中に入っていた。




 渾身(こんしん)の力を振り絞る。ありったけの作用を引き出し送り込む。どこからか悲鳴が聞こえた。気づけばあたりが光り輝いている。その(まぶ)しさに我慢できず目を閉じた。

 もう少しなのに、あと少しなのに。


「レン、娘たちをお願い」

「いやっ! ラン! まだよ。諦めちゃだめ!」


 目をあければすでにケイトの手だけが光る雲から出ていた。

 次の瞬間、自分も白い雲に捕らわれる。ねっとりと冷たくうごめくものに覆われ力がどんどん吸い取られていく。

 あっと思った時にはケイトの手の感触が失われていた。慌てて腕を振りまわすがもう何もない。


「ラン! ラン!」


 声は空しく頭の中で反響した。

 突然、ケイトの感覚が滑り込んでくる。必死に両手を伸ばす。一瞬だけ彼女の手応えを感じたが、そのあとはすっぽりと気配が消え失せた。


 次の瞬間には雲が消え周囲には漆黒の闇が広がっていた。

 何も見えないのに落下していく体感を覚える。どんどん速度が増し、突然何かにぶつかる音が聞こえる。

 体が投げ出され倒れるのを感じた時には意識を失っていた。



***



「カレン、カレン……」


 執拗な声に目を開く。視界に光の輪が躍りくらくらする。


「大丈夫ですか……カレン!」

「ええ、大丈夫よ、エム。ああ、失敗しちゃった。起こしてちょうだい」


 エメラインの顔には安堵と憂いが入り交じっていた。

 突然ピーピーという耳障りな音が聞こえてきた。しだいに頭の中で反響し大きくなる。


 何この音、と思った瞬間、恐れていたことが起きたという思いが湧き上がってきた。エメラインの腕につかまり体を起こしベッドの縁に両手をかける。


 背筋が凍り付き震える。至る所で警告音が鳴っていた。どのモニターにも真っ赤な表示が点滅している。そして、周りには大勢の人がいた。


 茫然として彼らの右往左往するさまを見つめる。手から力が抜け倒れそうになり、エメラインに背中を支えられた。

 反対側には真っ青な顔のイサベラが座り込んでいた。




「ああ、わたしは何てことをしてしまったの? 全員なの?」

「はい、カレン。四人とも……」

「ああ、エム、どうしよう。わたしがみんなを殺してしまった……」


 しゃがんだままイサベラが顔を上げた。


「それは違うわ、お母さま。四人は三年前にもう亡くなっていたのよ。魂が抜けていたんですもの」

「でも、もう少しで……。わたしにもっと力があれば……。わたしのせいだわ。どうしてこんなことをしてしまったの。わたしは……どうしようもない大ばかよ」

「そうじゃないわ。お母さまに責任はないの。それどころかみんな感謝していると思うわ。大変な重荷から解放されて。わたしもお母さまと一緒にあの世界を垣間見たわ。ねえ、ケイトさんもお礼を言っていたでしょう、お母さまに」

「でも……」

「もうみんなを休ませてあげて。これでよかったのよ」

「ごめんなさい。あなたのお兄さんも……」


 イサベラは首を振った。


「いいえ、お母さま。グレンもきっとお母さまに感謝しているわ。あの月白(げっぱく)の海の底から解放されたんですもの」


 カレンは激しい後悔に(さいな)まれ、ただ頭を振るばかりだった。



***



 手を伸ばすとエメラインが引っ張り上げて立たせてくれた。

 すでに警告音は止まっており、モニターの表示も真っ暗になっていた。

 イサベラが誰かに話をするのが見え、そのあと周りにいた人たちがぞろぞろと部屋を出ていった。


 ケイトの表情のない顔を見下ろす。もう二度と会えない。声を聞くこともできない。そう考えたとたんにまた目頭が熱くなり、急いで涙を拭った。


 隣のベッドまで移動し、トーマスの和やかな顔をしばらく眺める。エメラインの助けを借りて次のベッドまで足を進める。

 母親の顔をじっと見る。どうあろうとも、この人がわたしの母親なのだ。その穏やかな表情を二度と忘れないようにと脳裏に刻む。


 一番遠くのベッドに向かう。グレン。イサベラはすぐ上の兄とは親しかったのだろうか。一緒に遊んだり学んだりしたのだろうか。


 エメラインに向かってうなずくと最後にもう一度ケイトのベッドに近づき、膝をついてお別れの言葉をかけた。


「ラン、わたしの力が足りなくてごめんなさい。やはりあなたが正しかった。わたしは自分の手に負えないことを実行しようとしていたのだわ。本当に考えなしね」




 もう一度、ケイトの無表情の顔を見つめたあと立ち上がる。


「イサベラ、あとのことはお願いできるかしら? 今は何も考えられないの……」

「はい、お母さま。カムランのやり方で行なってもよろしいですか?」

「ええ、お願いします」

「それでは、お母さまの部屋に戻りましょう」


 イサベラはエメラインにうなずいた。

 カレンはエメラインに抱きかかえられてイサベラのあとに続いた。廊下を進み階段を上り、見覚えのある部屋に入る。


「お帰りなさいませ、カレンさま」


 見ればタリアとエドナがいつもどおりの格好で立っていた。

 カレンは何も言えずにただ運ばれベッドに寝かされた。


「エドナ、しばらくこのままひとりで寝かせてあげて。お母さまはとても疲れているの」

「かしこまりました、イサベラさま」




 全員が部屋を出ていくと目を閉じた。

 とても静かだ。まるで何もなかったかのように。

 ……もういくら眠ってもケイトには会えない。彼女はこの世界に存在しなくなった。


 まだ、聞いていないことが、話したいことがたくさんあった。ケイトと一緒にどんなふうに過ごしたのか、楽しいこと、悲しいこと、(つら)いこと、何でもいいからもっと知りたかった……。


 結局、お母さんともお父さんとも話をするのは(かな)わなかった。フランクともう一度話すこともできなかった。みんな逝ってしまった。

 ミアとメイには何と言ったらいいのだろう。ふたりに会わせる顔がない。いったいわたしはどうしたらいいの?


 まぶたをあければ、大きな窓の向こうには、自分の心とは裏腹に、真っ青に澄み切った空が見えている。白い雲が次々と流れ、時折、日差しが陰り壁に描かれた明暗模様が移りゆく。風もないのに室内の空気が揺らめくのを感じる。

 悔しくて、悔しくて、涙が止めどなく溢れてくる。


 しばらくして涙が枯れ果てると、あとはただボーッと窓に顔を向けたまま時の移ろいに身をまかせた。



***



 話し声にビクッと目を覚ます。いつの間にか眠りに落ちていたらしい。

 すぐにイサベラがやって来て、ベッドの上に座った。

 目を向ければこちらに伸ばした手が腕に乗せられる。一瞬ピクッと手が震えた。


「お母さま、ありがとう」


 どうしてお礼を言われるのかしら。わけがわからずただイサベラを見上げた。今は何も考える気が起きない。

 イサベラからの感覚が滑り込んでくるが、それには答えず首を振って目を閉じる。

 ザームの声を聞いた。


「王女さま、アイゼアさまがお見えですが……」

「すぐに行きます」


 娘がこちらを向いたのがわかる。


「また、来るわ。今はゆっくり休んでちょうだい」



***



 うつらうつらとしていると、扉が開く音と話し声が聞こえおもむろに目をあける。

 視界に入った姿を見て、突然、気力が戻ってきた。急いで体を起こす。


「カイル! あのベッドはどこ?」


 こちらに歩いてきたカイルはピタッと立ち止まった。


「ベッド?」


 そう言いながらあたりを見回す。


「トランのヴィラから持ち出した医療用ベッドよ」


 カイルの顔には困惑しか見えなかった。


「トラン? いったい何のことだ?」


 ああ、もしかするとこの人は関係ないのかしら。

 しばらくしてつぶやきが聞こえた。


「サイラスか……」


 カイルの後ろにはイサベラがいたが、その心ここにあらずといった様子に不安が募る。


「イサベラ、どうしたの?」




 彼女は一言もしゃべらずただ立っているだけだった。

 何があったの? わずかだが強制力を感じる。これはどういうことだろう。

 イサベラの顔をもう一度見てからカイルに目を戻す。


「カイル、あなた……イサベラに何をしたの?」


 カイルはパッと手を上げた。


「待ってくれ、カレン。おれは……つまり、あなたはイサベラの母親だというから、一応報告に来た。おれは近々イサベラと一緒になる」

「えっ?」


 意味が理解できず、振り向いてイサベラのだらんとした手を取る。そしてカイルの顔をただ見つめ続けた。


「それから……王女はイリマーンの王になる」

「どうして……」


 思わずイサベラの手を離し、彼女の無表情の顔を見つめる。


「王となるためには伴侶を持たなければならない。あんたには感謝しておく。彼女が王になればすべてが解決する。これで過去のできごともすべて清算できる。今日はそれを伝えに来ただけだ」


 ふたりが部屋から出ていくのを茫然と見送る。

 王になる? それはつまり……。



***



 ぼんやりとベッドに座っていると、誰かが入ってくる騒がしい音が聞こえた。

 しかし、現れた男を見て凍り付く。


「やはり、ここにいたか……」

「どうして……」

「なるほどな……」


 顎をかく姿を見ているうちに、ムラムラと怒りが沸き上がってくる。


「何がなるほどですか? あなたは、あそこで……」

「輸送車はどこにある?」

「何のことですか?」


 サイラスは面倒くさそうに手を振った。


「まあ、いい。近くを探せばわかることだ。それより、一緒に来てもらおう」

「いやです。ノアのベッドを返して」

「ベッド? ……ああ、あれか。あの装置はしばらく借りておく。もう少し必要になりそうだからな」




「返すと約束しましたよね」

「あいつはハルマンに帰ったはずだ」

「あのベッドがないとノアを目覚めさせられない。だからすぐ返して」


 サイラスはあきれたと言わんばかりに首を振った。


「あいつには必要ないだろう」

「ノアをあのままにできない。何て酷い人なの」

「それより、さっさと来い。あんたにはまだ仕事が残っている」

「出ていって。わたしは……」

「王女はもう助けてくれないぞ」

「どういう意味?」

「彼女はイリマーンの王になるらしい。……カイルの言いなりだからな」

「どういうこと? それに、まだディランが……」

「さあ、来い」

「お断りします。ベッドを返して!」

「面倒なやつだな。おい、連れていけ」


 突然、何かで視界が塞がれた。


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