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おかあさんと呼んでいいですか  作者: 碧科縁
第2部 第3章

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249 覚えていない

 髪を左右に分けもう一度よく見る。もとに戻ったはずなのに違和感がある。交互に触ってみる。治ったはずだけれどまだ腫れているのかしら。反対側も張りを感じるし少しぼやっとする。


「ちょっといいですか?」


 そう言いながら何度か触って確かめるジェンナの真剣な顔をじっと見る。いつもと違って先ほどから口数が少ない。

 ジェンナは打ち合わせを引き寄せ丁寧に紐を結んだあと、難しい顔をしながらこちらを見下ろした。


 その間、カレンは両腕に残る点滴の痕をさすっていた。まだ新しいし少しかゆみがある。


「カレンさま、よく聞いてください」


 突然ジェンナが早口で言う。声が異様にしゃがれていた。

 さらに悪い話を聞かされることがわかった。


「はい」

「マリンに聞いたのですが……」


 ごくんとつばを飲み込む。


「昨日の夜遅くに、この部屋からベッドが二つ運び出されるのを見たそうです。片方のベッドの下にはいろいろな機械がたくさん並んでいたらしいです」


 えっ? すぐにレタニカンから持ち出されたベッドが思い浮かぶ。あれはノアと一緒に……。

 ああ、ちゃんとベッドのことも確認するべきだった。まったく、わたしは大間抜けだ。ノアだけではだめなのに……。


「それから……ベッドには子どもが寝ていたそうです……」


 そう続ける声に、さっと血の気が引くのを感じる。

 自分のものではないような感じがする胸を少しの間手で覆う。こんなだったかしら? 


 視線を上げればジェンナが同意するようにうなずいた。


 柔らかい。そういえば言われたっけ……子どもの手みたいと。

 腕を交差させ脇の下をぎゅっと押さえる。成長したのか体が痩せてしまったのか……。




 あの長い夢の中で起きたことは何だったっけ。思い出すのよ、カレン。

 ジェンナの顔を見つめる。それからまた自分の体を見下ろす。やはりだいぶ痩せたような気がする。


 突然頭の中でブーンと(うな)るような音が聞こえてくる。

 まるであの永遠と続く夢が目の前に再現される前触れのよう。動悸が体の中を伝わってじかに聞こえているかのよう。


 何度も見たあの夢。誰かが現れて何ごとか話しかける。重いものがのしかかるような圧迫感。胸が焼かれるように熱くなり聞こえてくる悲鳴。繰り返される痛み、そして再び眠り。

 何も見えず遠くに声を聞くだけの時間。


 知らず涙がにじみ出てくる。あれは自分の声だったの?

 とても長い夢の果てに待っていた、奈落に落ちるような感覚。繰り返される痛みと叫び声。


 それから……ねこの執拗な鳴き声。

 話しかける人の声、そして静かな眠り。

 両手を強く握られたような感触。親近感が伝わってくる穏やかな感覚も思い出す。そして、何度もしつこく迫るあの声。


 あれは泣き声だったのだろうか。

 急に咳き込む。あの声……。一瞬息が止まった。

 あれは、あの男だ。そう、間違いない。思わずうめき声が漏れてしまう。


「カレンさま……」


 困惑した様子のジェンナに目を向けるが、膜がかかったようにぼんやりとしている。

 急に心臓の鼓動が激しくなるのを感じた。どんどん胸が締め付けられ、息苦しさにあえぐ度に涙が溢れて流れ落ちる。


「カレンさま、カレンさま、しっかりしてください。口を開いて……ゆっくりと息を吐いて……」


 何度か息を吸ったり吐いたりして気を落ち着かせる。

 拭ってもこすっても次々と涙が流れ落ちてくる。


「だ、大丈夫よ、ジン。わたしはもう大丈夫……たぶん」




 しばらくすると、ジェンナが小声で言うのが聞こえた。


「カレンさまはケタリで、第五作用をお持ちなんですよね。ノアさまと同じように」


 カレンは首を横に振った。


「わたしじゃないわ。わたしの力は自由にならないの。きっとあのサイラスって人だわ。あの人は第五作用を持っている。それも両方よ。たぶんわたしは彼に……」


 ジェンナの顔が怖いくらいに険しくなった。


「マリンが見た子どもは……」


 ただうなずくしかなかった。

 低い声でつぶやくのが聞こえた。


「くっ、あいつ……何てことを……」


 どうして自分がノアと引き換えに、わざわざここまで呼びつけられたかがはっきりした。

 しかしわたしは半人前。

 ジェンナの握りしめた手が赤くなっている。


「許さない……絶対に」

「ジン、ジン、落ち着いてちょうだい。もう、終わったことよ」

「何をのんきなことをおっしゃるのですか、カレンさま。あいつは、あいつのしたことは……」

「ねえ、ジン。わたしも同感よ。でもね、ただの怒りは何も生まない……」


 ジェンナはブルブルと震わせていた手を下ろし、長々と息を吐き出した。


「すみませんでした。一番(つら)いのはカレンさまなのに、あたしは、あたしは……」

「いいのよ、ジン。わたしの代わりに怒ってくれて。憤りを声に出してくれて。わたしは……もう、何も感じないの。怒りも憎しみも湧いてこない。どうかしているわね……」




 しばらく黙っていたジェンナが口を開いた。


「……マリンによるとまだ小さくて五、六歳くらいだったそうです」


 髪を引っ張りながら言ってみる。


「一年……いや、もっとね……二年ということはないわね?」

「おそらく。でも、その子はどうやって……」

「うーん、きっと、子どもだけを時伸したのだわ。そんなことができるとは思わなかったけど、そうとしか考えられない……」


 どうやったのだろう? レオンはほかの人にはできないと言っていた……。

 突然、血の気が引いた。一年以上。それなら、わたしの記憶は……。


 少なくともジェンナとマリアンのことはわかっていた。ザナ、シャーリン、ペトラについても覚えている。

 それ以外は……。記憶の森を必死に駆け回る。混成軍の基地で過ごしたことも、ロイスから出発した日のできごとも思い出せた。


 安堵で胸が熱くなる。ホッとしたとたんに体がブルッと震え背中がゾクッとする。

 少なくとも最近の記憶は失われていない。また涙が溢れてくるのを感じた。最近すごく涙もろくなったような気がする。


 やはり記憶は実時間に連動しているのかしら。

 時縮では失われ時伸では保たれる。そういうことね、だから……。




 カレンが体を起こそうとするとジェンナがさっと腕を伸ばしてきた。彼女の手につかまりベッドの上に座る。

 そのままジェンナの両手は離さずにぐっと引き寄せて、近寄ってきた彼女の憂い顔をじっと見る。


「ねえ、ジン。わたしには……この夏からの記憶しかないの。前はもっと覚えていられたんだけどね」


 ジェンナは無言でこちらを見つめた。


「記憶をどんどん失うのが怖い。みんなのことを忘れるのがとても恐ろしいの」

「カレンさま……」

「いつか、あなたのことを忘れてしまうかもしれない」

「そんな……」


 新葉(わかば)のように淡い色の目が大きく広がった。


「……それでもわたしの内事(ないじ)になってくれるの?」


 躊躇(ちゅうちょ)なく答えが返ってきた。


「はい、もちろんです。あたしはとっくに決めていますから」

「それならば……あなたをわたしの内事とします」

「謹んで拝命いたします」

「……あなた、前に言ったわよね。わたしの代わりに記憶すると」

「はい」

「お願いね。できるだけ、あなたに何でも話すようにするから……」

「おまかせください。カレンさまの記憶はあたしが守ります」


 思わず笑みがこぼれる。


「あ、あたし、何か変なこと言いました?」

「いいえ、そうじゃないの。つまり……そう言うの、あなたが二人目だから」


 ジェンナはしばらくきょとんとしていた。


「……あっ、もしかして、カレンさまのケタリシャ?」


 カレンはうなずいた。


「今度、紹介するわね」


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