233 眠る宝
ペトラは本を閉じると慎重に持ち上げてゆっくり裏返したが、そこで目が丸くなった。
「うっ、なに、これ……」
こちらに見えるように本を傾けてくれたので目を近づける。
裏表紙には薄い金属板が貼られ、何段にも渡って数字が刻まれていた。一番下に表示されている額に並ぶゼロを数える。……エグランドで買ったものよりさらに桁が多いわ。それほどの価値がある本なの?
「カル……こんなの、とても買えないよ……」
「見てもいい?」
そう尋ねペトラから本を受け取る。
テーブルの上に書を置き表紙を開く。
わたしも作用者だ。確か、作用者は必要な範囲で、今は使われないメリデマールの言葉を習うことになっていると聞いた。つまり、わたしもメリデマール語を少しは学習した経験があるはず。
しかし、目の前の本に書かれている文字は判別できるものの、その内容はといえば、ところどころしか理解できない。
この一年の間にセインの養成所に通って指導を受けている。そのときにやはり座学はなかったのだろうか。それとも、もうそれすら忘れてしまったのか……。
それに、この波打った線で囲まれた部分には判別できない文字がいくつもある。これがペトラの言うイスの言葉なの?
これを読むにはどうしたらいいかしら。得体のしれない文章をじっと見つめている間にも頭の中で考えが渦巻く。
「……カル、カル」
いきなり現実に引き戻される。心配そうなペトラの顔を見上げる。
「あ、ごめんなさい。ちょっと考え事を……」
「はあ……」
「これ、まったく読めないわ」
「うん、これを読むには、イスの言語体系に関する手引きか何かが必要だね」
「実は……それ以外のところもあまり……」
「そう。うーん、本文のほうは、メリデマール語の対義書さえあれば、カルならすぐに読めるようになると思う……」
カレンはうなずいた。本をケースの中に戻し、蓋をかぶせて固定する。
「ペトラ、この本には本当にこれだけの価値があると思う?」
「そうだねえ……。定かではないけど、これはマゴリアかあるいはイリオンから伝わる作用者の教本をもとにメリデマールで編纂したものだと思う。そもそもイスの時代の教えがメリデマールに残されていたことすら驚きだけど……」
そこで声が大きくなった。
「ああ、待てよ、そうか。だから、メリデマールは小国にもかかわらずあれほどの力を持っていたのか。たぶん、イスがなくなり、大戦争で帝国が消滅したあとでも、こういった知識がメリデマールに残された。おそらくそのおかげなんだと思う。そう考えると、この本の価値は計り知れない……。この本はメリデマールの秘蔵の一つなのかもしれない」
こくんとうなずく。そのとおりだわ。さて、どうしようか。
「これは、きっと本来はメリデマールの、何て言ったっけ? 文館だったかしら、そこに収めるべきものよね」
「メリデマールが残っていればそうだけど、もう国自体がないから……」
「メリデマールの主家も亡命したのよね」
「うん、一応、ウルブに。でも今は……」
そう言うペトラがこちらを見つめた。
「それなら、そこに戻してあげるのが筋よね」
「理屈の上ではそうだけど……」
「それじゃあ……買い戻しましょう」
「え、ええーっ!」
「これは単なるわたしの想像だけど、メリデマールの人たちは亡命したときに大事なものをいろいろ持ち出したに違いないわ。こういった運びやすく価値のある書物とかを。でも、亡命先で大勢の人たちが体制を保つには先立つものがたくさん必要よね」
「そうか。そのためにこれと引き換えに借り入れた……」
「うん。きっとここに記された額は、これを買い戻すための取り決めのように思うの」
そこでマックスを見て、彼が首を動かして肯定するのを確認する。
「それに、そうだとしたら、他にももっとたくさんあるかもしれない……。マックス、ほかにはないのですか? メリデマールの亡命者から持ち込まれた品物は」
「いいえ、わたくしのところにはこれだけです」
「そうですか……」
「ねえ、カルはこれを買えるの?」
「ええ。でも、わたしの乏しい知識からも、それがこのあたりにある品物を丸ごと買えちゃう額だということはわかるわ」
「うん、そのとおりだよ。だから、そうまでして……」
「読みたいでしょ?」
「そりゃもちろん、これが解読できればすごいことだよ」
「わたしもよ。それに、これにはわたしたち作用者にとって、とても大事な情報が書かれているかもしれないわ」
そう、この体が震える感じ、あの時と同じだ。これは絶対に手に入れる必要がある。頭の中でせっつく声ががんがん聞こえる。
ペトラは黙ったまま首を縦に動かした。
「これまでこれを買い戻しに来た人はいなかったのですか?」
マックスは首を横に振った。そう……。買い戻せないのか、それとももう忘れられているのか、あるいは……。
この額には、当然、手数料が上乗せされているはず。それはどれくらいなのかしら? 一割、二割、それとも半分かしら。まったく見当がつかない。
まあ、いいか、少なくとも今回は。
「それでは、この額で買い取らせていただきます」
きっとミゲルなら首を振ってあきれるだろうな……。
ホッとしたようなマックスの顔を見て続ける。
「でも、いくつか条件があります」
「はい、どのような?」
「同じような本があなたの同業者のところにないか聞いてもらえますか? このような書物はわたしたち作用者にとっても貴重なものなので、ほかにも散在しているのならすべて買い戻して、その全部をメリデマールから来た人たちの書庫に返したいのです」
「それはかまいませんが、この書物と同じように扱われていたとしたら、きっと似たような買い戻し額が設定されていると思います。どうして、そこまでなさるのですか?」
「わたしの母もメリデマールの……出身なので。これでは理由になっていないかしら?」
「あ、はい、納得しました。正統な持ち主が買い戻すことを各所に伝えます」
「それから、もうひとつ。この額にはきっとそれなりの利益が含まれていますよね?」
マックスがピクッとしたのがわかる。
「別にそれはかまわないのです。貴重な品を今日まで保管していただいたと考えるならば、正当なのかもしれませんから。それでも、多少は考慮していただけますよね? たとえば、先ほどお願いした品、それに例の単眼鏡を二つ」
「単眼鏡は……二つですか」
にっこりする。
「ええ、わたしも使ってみたいので……」
ペトラが口をはさんだ。
「メリデマール語の対義書はある?」
「はい、ございます」
「それじゃあ、それも加えてください」
「わ、わかりました、ペトラさま」
マックスが振り向くと、先ほどの店員が奥に消えていった。
「わたしもこの本が読めるようにならなくては」
カレンは符証を取り出すと、マックスの準備ができるのを待った。
「この本、返すまではペトラに預けるわ。その間に何とかして解読してね」
「ありがとう、お母さん」
そう言いながらいつものように抱きつかれては、もうため息しか出ない。
マックスのつぶやきが耳に入った
「お、お母……」
注文した品物をそろえて現れた店員も驚いたようにこちらを凝視しているのを感じる。
「ほら、ペトラ、みんなびっくりしているじゃないの」
離れようとしないペトラの背中をポンポンとたたく。
「あ、ごめんなさい」
マックスの声がする。
「あのう……カレンさまは……ペトラ国子のお母上でいらっしゃるのですか?」
ついついため息が漏れる。
「……どうやら、そのようですけど」
「これは大変な失礼をいたしました。カレンさまは本当にお若くていらっしゃる……」
実際、若いのよ。
「……とてもペトラさまのお母上には……」
はい、はい、そうでしょうとも。
「ああ、マックス、全部持って帰るから包んでもらえる?」
「か、かしこまりました」
そんなに動揺することないのに……。
それに、持ち帰れるんだ……知らなかった。
いつの間にか近くに立っていたソラも、はち切れそうなかばんを大事そうに抱えていた。
「それにしても驚いた、この店には。ますます気に入ったわ」
「ここはね、セインの町ができたころからあるらしいけど。しかし、こっちもびっくりしたよ。まさかここでこんな本に出会えるとは」
とても疲れたけれど、実り多きお買い物だった。それに、四回目にしてはなかなか上出来だったのではないかしら。
「そっちの対義書はわたしがもらうわよ」
やはり、車をお願いすべきだったと後悔しているとカイの声が聞こえた。
「カレンさま、帰りは車をお使いください」
心底ホッとする。カイのほうが実によくわかっている。
「ありがとうございます。来るときもご忠告に従えばよかったです……」
「行政館に戻るころには、カレンさまの空艇が着いているはずです」
カレンはうなずくと、品物を大事そうに抱えたペトラと一緒に車の座席に腰を落ち着け大きく息をついた。
わかってはいたけれどとことん疲れた。今日はいろいろなことがありすぎた。しかし得られたものが多ければ、疲労すら心地よく感じられる。
「あのね、ペト、その本に書かれていることがメリデマールよりずっと古い教えだとすると……」
「うん、メリデマール語はイスの言語がもとになっているとは思うけど、イスの言語自体はそれ以外の多くのものと一緒に使われなくなった。ここに記されていることが、作用者の全盛期のころの知識だとするなら、わたしたちが知らない、作用の使い方とかが書かれているかもしれない。まさにメリデマールが残した宝と言えるかも……」
「その本を解読するにはどうするの?」
「うーん、イスの言葉に関する本がミンにあるかどうかは見当がつかない。今まで見たことがないから。もしかするとオリエノールには存在しないのかもしれない。やはり、メリデマールに……」
「ねえ、レタニカンの書庫では何か見なかった?」
「うーん、記憶では、メリデマールの本はなかったと思う。この前は、医術の本ばかり探していたから気がつかなかっただけかもしれないけど」
「向こうに着いたら調べてみるわ」
「それより、アトインカンのほうが脈がありそうだけど」
「アトインカン?」
「ディオナ、ザナのお母さんのお屋敷。確か、ディオナはエレインと一緒にメリデマールに住んでいて、あの時に一緒にウルブに逃れたんだよね。その際に何か持ち出したかもしれない」
ああ、ザナがそう話していたっけ。
「そうだ。エレインたちはウルブで養成所をやっていたんだから、そこにはいろいろ本があるかもしれない」
「ウルブ5に学校があったけど、中はからっぽだったという話は聞いたわ。そういえば、確か、それ以前にウルブ3にも学校を作ったのよね。そこになら……」
「それはどこにあるの?」
「知らないわ」
「じゃあ、今度、ディオナに会いに行って、イスのこと、その養成所の場所を聞いてみようよ」
「わかったわ。ノアの一件が片付いたらすぐにディオナを訪ねましょ。わたしもザナのお母さんにお会いしたいから」
それに、あそこに行けばまたあれを見られる……。絶対にザナも連れていかねば……。
◇ 第2部 第2章 おわり です ◇
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